1章6話 火の残り香
世界が燃え尽きる、その直前。
声が聞こえた。
「妾の盤上で、薪の真似とは芸がない」
それだけだった。
星降る草原も、海色のドレスも、真珠のような白い肌も見えない。
ただ、あの女の声だけが、焼け落ちていく意識の端に、静かに落ちてきた。
火が消えない。
目を覚ましたはずなのに、まだ足が焼けていた。
爪の奥に熱が入り込む。皮膚が縮む。肉が焦げる。骨の内側まで炎が染み込んでくる。そんなはずはないのに、身体がそう覚えていた。
「っ、あ……!」
声を出そうとして、喉が詰まった。
煙だ。
黒い煙が肺の奥に残っている。息を吸えば、熱い空気が喉を焼く。咳をしようとしても、喉の奥が焦げついて動かない。
苦しい。
熱い。
痛い。
終わってくれない。
俺は身体を丸めようとして、何かに顔を押しつけた。
冷たかった。
泥だった。
口の中に土と血の味が広がる。鼻先に湿った草と鉄の匂いが絡みついた。頬に触れているのは焼けた杭でも、火刑台でもない。冷えた泥だ。
火はなかった。
薪もない。
杭もない。
神官の声も、群衆の視線も、灰色の耳をした狼の兵士もいない。
代わりに、俺は泥の中に倒れていた。
雨が降っていた。
細い雨だった。空は重く曇り、灰色の雲が地平線まで広がっている。雨粒が兜か何かに当たって、かすかな音を立てていた。
寒い。
そう思った瞬間、まだ焼けているはずの足が震えた。
違う。
もう燃えていない。
俺はそう自分に言い聞かせた。
火はない。
ここは火刑場じゃない。
俺はもう、あの子供の身体ではない。
それでも、足先が炭になっていく感覚は消えなかった。喉の奥には煙が残っている。目を閉じれば、炎が膝まで這い上がってくる。
「う、ぐ……っ」
吐いた。
口から出てきたのは、胃液なのか泥なのか血なのか、自分でも分からなかった。何か酸っぱいものが喉を通り、また咳き込む。身体が痙攣し、腹の奥が引きつった。
その時、腹に痛みが走った。
火の痛みではない。
鋭く、深く、内側から裂かれるような痛みだった。
「……っ!」
息が止まった。
泥の中で、俺は自分の腹に手を伸ばした。
指先が、ぬるりと濡れた。
泥ではない。
雨でもない。
血だった。
腹の右側に、裂けたような傷があった。布の下から熱いものが流れ出している。押さえると、さらに激痛が走った。喉の奥から声が出そうになって、必死に噛み殺す。
痛い。
でも、生きている。
いや、まだ死んでいないだけだ。
俺はゆっくりと目を動かした。
周りに、人が倒れていた。
一人ではない。
二人でもない。
視界に入る限り、泥の中にいくつもの身体が転がっている。腕を伸ばしたまま動かない男。折れた槍を握ったままうつ伏せに倒れている兵士。兜の中に雨水を溜めている死体。腹を裂かれ、赤黒いものを泥の上にこぼしている人間。
死体。
死体。
死体。
戦場だった。
そう理解するまでに、少し時間がかかった。
俺は戦場の跡に倒れている。
それも、死体に混じって。
身体が重い。
何か硬いものが胸と肩を覆っている。鎧だ。金属と革でできた簡素な鎧。泥と血で汚れ、ところどころへこんでいる。腕を動かそうとすると、重さが絡みついてきた。
この身体は兵士だ。
たぶん、若い男。
手は大きい。指には固い豆がある。さっきの子供の手ではない。断頭台の男とも違う。俺自身の手でもない。
また、別の身体。
今日死ぬはずだった誰か。
女の言葉が蘇る。
死ぬたびに移る。
魂が、別の器へ。
「……くそ」
声は低かった。
今度の身体の声だ。
火で焼けた喉ではない。煙に潰された声でもない。それなのに、俺にはまだ焼け焦げた声しか出せない気がしていた。
遠くで、声がした。
俺は反射的に息を止めた。
誰かがいる。
足音が泥を踏む音。金属が擦れる音。複数人の声。ゆっくりと、死体の間を歩いている。
「ヴァエストリアの残りを探せ」
聞いたことのない言葉だった。
だが、意味だけが頭の奥に流れ込んでくる。
ヴァエストリア。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
覚えている。
火の中で、俺はその名を覚えていた。
ヴァエストリア聖王国。
黒き雨。
魔女。
厄災。
血を残してはならない。
焼かれながら、消えかけた意識の中で、必死に握りしめた言葉。
死んでも、忘れていない。
俺は覚えている。
それに気づいた瞬間、ぞっとした。
苦痛だけじゃない。
情報も残る。
死に方も、見たものも、聞いた言葉も、全部ではないにしても、俺の中に残っている。
なら、無駄じゃないのか。
死んだことに、意味があるのか。
そう思いかけて、すぐに吐き気が戻ってきた。
意味があるから何だ。
焼かれたことが消えるわけじゃない。
あの子供の足が炭になった事実も、煙で喉が潰れた感覚も、最後まで誰にも助けられなかったことも、何一つ帳消しにはならない。
それでも、覚えている。
それだけは事実だった。
「書筒を持った伝令がいるはずだ」
別の声がした。
俺は泥の中で固まった。
「若い兵だ。腹を裂かれても、まだ這って逃げるかもしれん」
「死体でもいい。筒だけ回収しろ。黒鷲の陣へ持ち帰る」
書筒。
伝令。
若い兵。
腹を裂かれても。
黒鷲の陣。
言葉が、泥よりも重く頭に沈んでいく。
俺はゆっくりと、自分の胸元に手をやった。
鎧の内側。
濡れた布の奥に、硬いものがあった。
筒だ。
細く、硬い筒。
革か木でできているのか、指先ではよく分からない。だが、確かにある。身体の内側に隠すように、紐で固定されている。
これか。
敵兵は、これを探している。
俺はただの死にかけの兵士ではない。
伝令。
何かを運んでいた身体。
その何かのせいで、敵に探されている。
息が浅くなった。
動けば傷から血が出る。
動かなければ、敵に見つかる。
見つかれば、殺される。
逃げても、血が止まらなければ死ぬ。
逃げなくても、死ぬ。
まただ。
また、最初から詰んでいる。
今日死ぬはずだった身体。
その意味が、嫌になるほど分かった。
近くで、槍が肉を突く音がした。
ぐちゃり、と湿った音。
死体を確認している。
息のある者に、とどめを刺している。
俺は喉の奥で悲鳴を噛み殺した。
叫ぶな。
泣くな。
助けを求めるな。
それをしても、誰も助けなかった。
命乞いしても焼かれた。
泣いても、額を床に打ちつけても、誰も止めなかった。
なら、今度は違う。
人を見て縋るな。
見つかるな。
逃げろ。
俺は泥を掴んだ。
指の間に、血と土が入り込む。腕に力を込める。腹の傷が裂けるように痛んだ。声が出そうになる。歯を食いしばる。火刑の時の悲鳴が喉の奥で暴れる。
飲み込め。
声を出せば、死ぬ。
俺は死体の間を這った。
折れた槍を避け、潰れた兜を越え、誰かの腕に手をついた。
柔らかかった。
生きている人間の柔らかさではない。雨と血を吸った、冷たく重い肉の感触だった。吐き気が込み上げる。けれど、吐いたら音が出る。俺は唇を噛んで、吐き気を押し殺した。
近くに剣が落ちていた気がする。
泥と血に汚れた鞘。
折れていない柄。
もしかしたら、この身体の武器だったのかもしれない。
腰にも何か重いものが下がっていた気がした。短剣か、剣か。確かめれば、使えたのかもしれない。
けれど、そんなことを考える余裕はなかった。
掴んだのは剣ではなく、泥だった。
握ったのは柄ではなく、死体の衣だった。
俺は武器を持たずに、死体の間を這い出した。
後になれば、それがどれほど馬鹿なことだったのか分かるのだろう。
けれど、その時の俺には無理だった。
戦うなんて考えは、頭のどこにもなかった。
俺はただ、殺される場所から少しでも遠ざかりたかった。
「そっちは見たか」
敵兵の声が近い。
「死体ばかりだ」
「ヴァエストリアの犬は一匹も逃がすな」
「伝令を見つけろ。書筒を奪い、黒鷲の陣へ持ち帰る」
黒鷲。
その言葉が耳に残った。
黒鷲の陣。
それが敵の名なのか、軍の旗なのか、まだ分からない。だが、少なくとも目の前の兵士たちは、その黒鷲の側にいる。
敵。
ヴァエストリアを殺して回っている側。
ヴァエストリア。
伝令。
書筒。
黒鷲。
泥と血と痛みの中で、俺はその言葉だけを拾った。
身体が冷えていく。
雨のせいだけではない。
腹を押さえた手が、ぬるりと濡れ続けている。血が止まらない。押さえても、指の間から熱がこぼれていく。体の奥から、少しずつ力が抜けていく。
この身体は、もう長くない。
それでも、まだ死んでいない。
なら、少しでも動け。
俺は折れた槍を掴んだ。
近くに転がっていた、柄だけになった槍。刃は欠け、先端は使い物にならない。武器にはならない。けれど、杖代わりにはなるかもしれなかった。
立とうとした。
無理だった。
腹の傷が激しく痛み、膝から泥に崩れ落ちる。視界が白く霞む。喉の奥で、熱いものがせり上がった。
また吐いた。
今度は血が混じっていた。
赤黒いものが泥の上に広がる。
やばい。
そんな幼稚な言葉しか出てこなかった。
死ぬ。
このままでも死ぬ。
逃げても、たぶん死ぬ。
けれど、ここで敵兵に見つかって殺されるよりは、少しでも遠くで死にたかった。
いや、違う。
死にたいわけじゃない。
まだ、死にたくない。
俺は槍の柄を握りしめた。
手が震えている。
泥に滑る。
それでも、這った。
死体の間を抜ける。
折れた荷車の陰へ進む。
その向こうに、低い茂みが見えた。戦場の端かもしれない。そこまで行けば、少しは隠れられるかもしれない。
たったそれだけの距離が、信じられないほど遠かった。
腹が痛い。
喉が熱い。
足が焼けている気がする。
泥は冷たいのに、足先だけがまだ燃えている。火刑の記憶が身体の奥で暴れている。今の身体の痛みと、前の身体の痛みが混ざって、何が本当の傷なのか分からなくなる。
それでも進んだ。
今度は、誰にも縋らない。
俺は逃げた。
逃げた。
逃げたはずだった。
茂みの手前まで来たところで、視界がぐらりと揺れた。
力が抜ける。
身体が横に倒れる。
泥の中に、もう一度顔が沈んだ。
息ができない。
慌てて顔を上げようとして、腹に激痛が走る。傷口から何かがさらに流れ出した感覚があった。手で押さえる。止まらない。
止まらない。
止まらない。
指の間から、命がこぼれていく。
その時になってようやく、俺は理解した。
この身体は、もう逃げ切れる状態ではなかった。
俺が目を覚ます前から、死はとっくに始まっていた。
「いたぞ」
声がした。
すぐ後ろだった。
心臓が跳ねた。
振り返ることすらできなかった。泥に伏せたまま、目だけを動かす。雨の向こうに、人影が立っている。
濡れた旗が見えた。
黒い鳥の紋章。
黒鷲。
敵兵の一人が、剣を抜いた。
「ヴァエストリアの伝令だ」
別の兵士が言う。
「生きてるぞ」
「筒を確認しろ。殺すのはその後だ」
足音が近づいてくる。
泥が跳ねる。
俺は胸元の筒を押さえた。
守ろうとしたわけじゃない。
これが何なのかも分からない。
ただ、敵が欲しがっているものを渡したら、何も残らない気がした。
俺が火の中から持ってきた言葉。
ヴァエストリア。
魔女。
厄災。
そして今、泥の中で拾った言葉。
伝令。
書筒。
黒鷲。
それらだけが、俺の中に積み上がっていく。
死んでも持っていけるもの。
今の俺に残された、たぶん唯一のもの。
敵兵の手が、俺の肩を掴んだ。
仰向けに転がされる。
空が見えた。
灰色の空。
雨。
その向こうに、火はなかった。
けれど、女の声がまだ耳の奥に残っている。
妾の盤上で、薪の真似とは芸がない。
うるさい。
そう思った。
初めて、そう思った。
怒りと呼ぶには弱すぎる。
反抗と呼ぶには情けなさすぎる。
それでも、ほんの少しだけ、胸の奥に熱が残った。
俺は薪じゃない。
駒でもない。
そう言い返す声は出なかった。
敵兵が俺の胸元に手を伸ばす。
筒を引き抜こうとする。
俺は、その手首を掴んだ。
力なんて、ほとんど入らなかった。
子供の手ではない。兵士の手だ。けれど、血を失った身体では、敵の手を止めることもできない。
それでも掴んだ。
「……渡す、かよ」
声は泥と血にまみれていた。
敵兵の目が細くなる。
「まだ喋るか」
剣が上がった。
今度は、目を逸らさなかった。
怖い。
死にたくない。
でも、泣き叫ぶだけでは終わらない。
俺は、書筒を握ったまま、灰色の空を睨んだ。
刃が落ちる。
世界が、泥の色に沈んだ。




