1章5話 灰になるまで
笑わなかった兵士は、しばらくして戻ってきた。
鉄格子の向こうで、足音が止まる。
俺は床に伏せたまま、顔だけを上げた。涙で腫れた目には、松明の火がぼやけて見えた。赤く揺れる光の中に、灰色の耳がある。
狼の獣人。
その兵士は、木の器を持っていた。
器の中で、水が揺れている。
水。
それを見た瞬間、喉が勝手に鳴った。
乾いていた。
泣き叫んで、喚いて、咳き込んで、額を床に打ちつけて、喉はもう紙みたいに乾いていた。舌が張りつき、唇は割れ、息を吸うだけで喉の奥が痛んだ。
狼の兵士は何も言わず、鉄格子の隙間から器を押し込んだ。
俺は這うように近づいた。
鎖が鳴る。手首の枷が引っかかる。器には届く。両手で掴もうとして、指が震えてうまく持てなかった。水が少しこぼれ、石の床に染み込む。
「あ……」
もったいない。
そんなことを思った。
今の俺には、こぼれた一滴さえ惜しかった。
器に口をつける。
水はぬるく、少し鉄臭かった。
それでも、うまかった。
喉を通るたびに、焼けついた内側が少しだけ戻る気がした。俺はむせながら、水を飲んだ。半分以上こぼした。それでも飲んだ。水が顎を伝い、胸元の粗末な布を濡らす。
狼の兵士は、それを黙って見ていた。
「助けて……くれるの……?」
掠れた声で聞いた。
その言葉が、自分でも馬鹿みたいに聞こえた。
けれど、聞かずにはいられなかった。
水をくれた。
笑わなかった。
目を逸らした。
それだけで、俺はまた期待してしまっていた。
狼の兵士の灰色の耳が、ほんの少し伏せられた。
「助けるわけじゃない」
低い声だった。
冷たい、というより、硬い声だった。
「焼く前に死なれると困る」
胸の奥にあったものが、ひゅっと縮んだ。
「あ……」
俺は器を抱えたまま、狼の兵士を見上げた。
男の表情は読みにくい。人間とは顔の作りが違うせいもある。鼻筋は高く、口元には牙が覗いていて、獣のような耳が火の明かりを受けて揺れている。
だが、目だけは分かった。
笑っていない。
けれど、助ける気もない。
「俺は……魔女なんて知らない……」
また同じ言葉が口から出た。
壊れたみたいに。
「本当に、知らないんだ……。この身体が誰なのかも、母親が誰なのかも、何で捕まってるのかも……何も知らない……」
狼の兵士は答えなかった。
鼻先が、小さく動いた。
匂いを嗅いでいる。
そう思った。
涙の匂い。汗の匂い。血の匂い。恐怖の匂い。俺の中から滲み出ているもの全部を、あの鼻は拾っているのかもしれない。
「信じて……」
俺は言った。
「お願いだから……信じて……」
狼の兵士の目が、わずかに細くなる。
信じているのか。
疑っているのか。
分からなかった。
けれど、その視線には、他の兵士たちのような嘲りはなかった。ただ、警戒があった。俺の言葉を笑い飛ばすのではなく、何かを測っているような目だった。
それが、余計に怖かった。
「……お前は」
狼の兵士が、初めて少しだけ低く呟いた。
「さっきまでと、匂いが違う」
息が止まった。
「声の出し方も、目の動きも、恐怖の向きも違う。泣き方も違う。怯え方も違う」
「それは……」
「だが」
狼の兵士は、俺の言葉を遮った。
「それが魔女の力でないと、誰が言える」
冷たいものが、腹の底に落ちた。
違う。
そう叫びたかった。
けれど、声が出なかった。
この男は気づいている。
俺が、この身体の子供と違うことに。
俺の声が変わったことに。
感情の動きが、何もかも一瞬で変わったことに。
人間の兵士たちは、それを演技だと笑った。魔女の子が小賢しく芝居をしているのだと決めつけた。
けれど、この狼の獣人だけは違う。
演技では済まない何かを感じ取っている。
そして、それを救いではなく、疑いとして受け取っている。
「違う……」
ようやく声が出た。
「違うんだ……俺は、本当に……」
「もう喋るな」
狼の兵士は言った。
怒鳴らなかった。
だが、その声に逆らえる気がしなかった。
「朝になる」
それだけ言って、男は器を回収した。
俺は空になった手を見た。
また、何もなくなった。
水も。
希望も。
鉄格子の向こうで、複数の足音が近づいてきた。
鍵の鳴る音がした。
俺は顔を上げる。
松明を持った中年の兵士と、若い兵士が戻ってきていた。若い方は俺を見るなり、にやついた。
「おお、まだ生きてるな」
「焼く前に死なれては困るからな」
中年の兵士が鍵を差し込む。
重い音を立てて、牢の扉が開いた。
その音を聞いた瞬間、俺は後ずさろうとした。
だが、後ろは壁だった。
鎖が鳴る。
逃げ場なんて、どこにもなかった。
「嫌だ……」
声が漏れた。
「嫌だ、やめて……やめてください……!」
若い兵士が牢に入ってくる。
俺は床に爪を立てた。
立てたところで、石は剥がれない。爪だけが痛む。指先が裂ける。それでも、身体が勝手に抵抗した。
腕を掴まれる。
小さな身体が簡単に持ち上げられた。
「嫌だ……! やだ、行きたくない! お願い、やめて! 焼かないで! 俺は何も知らない! 何もしてない!」
「魔女の子が、よく喋る」
若い兵士が笑った。
魔女の子。
その言葉が、頭の奥に引っかかった。
そうだ。
こいつらは、さっきから俺をそう呼んでいる。
魔女の子。
俺はその意味も知らないまま、首を振った。
「違う……違う、俺は……そんなのじゃない……!」
「黙れ」
頬を叩かれた。
視界が白く弾ける。
痛みよりも先に、恐怖で息が詰まった。
「ガキの癖に、よく喋る」
若い兵士が笑った。
「魔女の血ってのは本当に小賢しいな。昨日まで声も出せずに震えてたくせに、急に別人みたいに喚きやがる」
昨日まで。
その言葉に、胸が冷えた。
やっぱり、この身体の子供は違ったのだ。
俺のようには喋らなかった。
俺のようには叫ばなかった。
俺のように、自分を「俺」とは呼ばなかったのかもしれない。
俺は、この子供の身体で、この子供ではない声を出している。
その異常さを、彼らは演技として笑っている。
狼の兵士だけが、笑っていなかった。
彼は牢の入り口で黙って立っていた。
中年の兵士が、壁の金具から鎖を外す。
手首の枷はそのままだ。鎖の先を若い兵士が掴む。まるで犬か何かを引くみたいに、俺の身体が前へ引っ張られた。
「歩け」
狼の兵士が言った。
「嫌だ……」
「歩け」
「助けて……」
俺はその男を見た。
灰色の耳が、わずかに伏せられている。
同情。
罪悪感。
たぶん、そういうものはあったのだと思う。
けれど、それだけだった。
狼の兵士は俺の肩を支えた。力加減は、他の兵士よりずっと優しかった。俺が足をもつれさせると、倒れないように腕を掴んだ。鎖が絡まると、乱暴に引きずるのではなく、黙ってほどいた。
だが、その手は救いではなかった。
俺を逃がすための手ではない。
火刑台まで、確実に運ぶための手だった。
笑わない。
怒鳴らない。
憐れむ。
そして、処刑する。
この兵士にとって、それらは矛盾していないのだと分かった。
牢を出ると、石造りの通路が続いていた。
壁には松明が等間隔に刺さっている。天井は低く、空気は湿っていた。足元の石は冷たい。裸足の足に、ひび割れた床の感触が刺さる。
歩けなかった。
身体が弱っている。子供の身体だからというだけではない。何日もまともに食べていないのか、膝に力が入らない。喉は渇き、腹は空っぽで、頭はふらついている。
それでも、兵士たちは進む。
俺は何度も転びかけた。
そのたびに狼の兵士が支えた。
若い兵士は笑った。
「優しいな、犬っころ」
狼の兵士は答えなかった。
「そんなに可哀想なら代わりに焼かれてやればいい」
それでも、答えなかった。
ただ、俺の腕を支える手に、少しだけ力が入った。
外へ出る階段を上ると、空気が変わった。
冷たい朝の空気だった。
夜明け前の、青白い光。
空はまだ暗い。けれど、地平線の向こうが薄く白んでいる。遠くで鳥の声がした。こんな時でも朝は来るのだと思った。
広場に出た。
人がいた。
大勢の人がいた。
石造りの広場を囲むように、群衆が集まっている。大人も、老人も、子供もいる。誰もがこちらを見ていた。眠そうな顔。険しい顔。好奇心に満ちた顔。嫌悪に歪んだ顔。
その視線が、一斉に俺へ向けられる。
俺は思わず足を止めた。
鎖が引かれる。
「歩け」
若い兵士が言った。
広場の中央には、木の杭が立っていた。
その周りに、薪が積まれている。
見た瞬間、身体が動かなくなった。
あれだ。
あそこで焼かれる。
俺は呼吸の仕方を忘れた。
「嫌だ……」
声が漏れる。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……!」
逃げようとした。
だが、鎖を引かれ、腕を掴まれ、身体は簡単に押さえ込まれた。子供の身体では、大人の兵士三人に抗えるはずがなかった。
俺は泣き叫びながら、杭の前まで連れていかれた。
「やめて! やめてください! お願い、お願いします! 俺は何もしてない! 魔女なんて知らない!」
群衆がざわめいた。
「見ろ、魔女の子が喋っている」
「怖いねえ」
「あんな小さいのに、もう人を騙そうとしてる」
「焼かないと、また黒い雨が降る」
黒い雨。
その言葉が、耳に引っかかった。
だが、考える余裕はなかった。
杭に背中を押しつけられる。縄が回される。胸、腹、腕、足。何重にも縛られていく。身動きが取れなくなる。逃げられない形に、俺の身体が固定されていく。
足元には薪。
乾いた木。
油の匂い。
火がつけば、よく燃える。
そのために用意されたものだと、嫌でも分かった。
「やだ……」
声が震えた。
「助けて……誰か……助けて……」
誰も来なかった。
母親も。
この身体の母親も。
俺の母親も。
誰も来ない。
広場の反対側から、白い法衣を着た男が歩いてきた。
神官。
そう思った。
頭に浮かんだ言葉なのか、この世界の常識なのかは分からない。ただ、その男の姿を見て、周囲の人々が静かになった。兵士たちも姿勢を正す。
神官は俺を一瞥した。
子供を見る目ではなかった。
人を見る目でもなかった。
薪の上に置かれた、燃やすべきものを見る目だった。
神官が広場に向かって両手を広げる。
「ヴァエストリア聖王国に黒き雨が降り、麦は腐り、家畜は腹を裂いて死に、子らは熱に焼かれた」
声が、広場に響いた。
ヴァエストリア聖王国。
その言葉だけが、頭の奥に深く刺さった。
国の名前。
ここは、ヴァエストリア聖王国。
「すべては魔女の血が厄災を呼ぶゆえである」
厄災。
その言葉が、炎より先に胸へ刺さった。
俺はその時、初めて知った。
この子供は、何かをしたから殺されるのではない。
厄災を呼ぶ血。
そう信じられているから、殺されるのだ。
魔女。
厄災。
血を残してはならない。
その言葉だけが、熱を帯びて頭の中に残っていく。
神官は続ける。
「魔女は災いを産む。魔女の血は災いを継ぐ。ゆえに、その血を残してはならぬ」
群衆が頷いていた。
誰も疑っていなかった。
神官も。
兵士も。
広場に集まった人々も。
この子供が何をしたのか。
母親が本当に何をしたのか。
黒い雨がなぜ降ったのか。
麦がなぜ腐ったのか。
家畜がなぜ死んだのか。
誰も考えていなかった。
魔女。
厄災。
血。
それだけで十分なのだ。
魔女の子。
ただそれだけで、俺は燃やされる。
「違う……」
俺は呟いた。
「違う……違うんだ……」
声は群衆に届かなかった。
届いたところで、何も変わらなかった。
神官の目も、兵士たちの手も、群衆の沈黙も、すべてが同じ方向を向いている。俺一人だけが、違うと叫んでいる。
誰も聞いていない。
「この者は、逃げた魔女の腹より生まれし子である」
神官が俺を指差した。
「母たる魔女は姿を隠した。だが、その血はここにある。厄災の種はここにある。ヴァエストリア聖王国の安寧のため、ここに焼き清める」
逃げた魔女。
この身体の母親。
厄災の種。
情報だけが、痛みよりも先に頭へ残っていく。
ヴァエストリア聖王国。
魔女は厄災を産むと信じられている。
魔女の子も殺される。
何をしたかではない。
何だと信じられているかで、人は殺される。
覚えろ。
俺は、震えながら思った。
覚えろ。
もし次があるなら。
また別の身体で目を覚ますなら。
この国の名前だけは忘れるな。
この世界の人間が、何を信じて人を殺すのかを忘れるな。
神官が手を下ろした。
兵士が松明を持って近づいてくる。
俺は首を振った。
「やめて……」
声はかすれていた。
「やめて……やめて……お願い……」
若い兵士が、薪の端に火をつけた。
油を吸った布に炎が移る。
火は、思ったよりも小さかった。
最初は。
小さく、赤く、頼りない炎だった。
それが薪を舐める。じりじりと広がる。乾いた木がぱち、と音を立てる。煙が上がる。足元から熱が生まれる。
火が近づいてくる。
俺は縄の中で暴れた。
「いやだ! いやだ! 助けて! 助けてください! 誰か! 誰か!」
誰も動かない。
群衆の顔が並んでいる。
憐れむ顔もあった。
目を逸らす顔もあった。
けれど、誰も止めない。
火が足元に触れた。
最初は、熱いと思った。
けれど、それはすぐに間違いだと分かった。
熱い、なんて言葉で済むものではなかった。
足先に触れた炎が、皮膚を舐める。爪の奥に熱が入り込み、肉の内側で何かが弾けた。逃げようとしても、縄が身体を縛っている。足を引こうとしても、杭に縛られた身体は少しも動かない。
「あ、ああああああっ!」
喉が裂けるほど叫んだ。
けれど、その声はすぐに煙に潰された。
黒い煙が口の中へ入り込む。喉を焼く。肺の奥に焦げた空気が流れ込み、咳をしようとしても、吸い込むものすべてが熱かった。
苦しい。
熱い。
痛い。
怖い。
どれも正しいのに、どれも足りなかった。
足先が黒くなっていくのが見えた。
自分の足だった。
いや、俺の足ではない。
名前も知らない子供の足だった。
その足が、炎の中で少しずつ形を失っていく。皮膚が縮み、肉が焦げ、爪が割れ、黒く炭のように崩れていく。
見たくなかった。
けれど、目を逸らせなかった。
意識なんて、とっくに消えていてもおかしくなかった。
これだけ煙を吸った。これだけ熱を浴びた。これだけ痛みに晒された。身体はもう、人として保てる限界を越えているはずだった。
それなのに、意識は落ちなかった。
落ちてくれなかった。
身を焦がす激痛が、俺を無理やりこの場所に縫い止めていた。気を失おうとするたび、炎が新しい痛みを生んで、俺を現実へ引き戻す。
終わらない。
終わってくれない。
死にたいわけじゃない。
けれど、早く終わってほしかった。
死ぬのが怖いのに、死なないことがもっと怖かった。
煙の向こうで、神官の声がまだ響いている。
「魔女の血は厄災を産む」
違う。
「その子は災いを継ぐ」
違う。
「灰となり、清められよ」
違う。
違う、違う、違う。
俺は魔女なんて知らない。
厄災なんて知らない。
この身体が誰なのかも、母親が誰なのかも、何も知らない。
なのに、燃えている。
魔女の子だと呼ばれただけで。
厄災を産むと信じられただけで。
ただ、それだけで。
ヴァエストリア聖王国。
魔女。
厄災。
血を残してはならない。
覚えておけ。
焼け落ちる意識の端で、俺は必死にそれだけを握りしめた。
もし次があるなら。
もし、また目を覚ますなら。
この国の名前だけは忘れるな。
炎が膝まで這い上がってきた。
悲鳴はもう出なかった。
喉が焼けて、声にならなかった。
涙も乾いていた。
視界の端に、灰色の耳が見えた。
狼の獣人。
笑わなかった兵士。
彼は広場の端に立っていた。
最後まで笑っていなかった。
同情していたのかもしれない。
罪悪感があったのかもしれない。
俺の中身が、この身体の子供とは違うことに気づいていたのかもしれない。
それでも、彼はそこに立っているだけだった。
助けない。
止めない。
命令に逆らわない。
ただ、笑わない。
それだけだった。
それだけで、救われるはずがなかった。
火が腹まで届いた。
身体が反り返る。
縄が食い込む。
皮膚が裂ける。
意識が白く弾ける。
それでも、まだ終わらない。
終わらない。
終わらない。
やがて、痛みが痛みとして分からなくなった。
熱も、煙も、声も、群衆も、神官も、狼の兵士も、全部が遠ざかっていく。
ただ、焦げた匂いだけが残っていた。
俺の匂いだった。
この身体の匂いだった。
灰になっていく、誰かの命の匂いだった。
最後に思った。
断頭台の方が、まだましだった。
その直後、世界が燃え尽きた。




