1章4話 魔女の子
火刑は朝だ。
その言葉が、頭の中で何度も反響していた。
火刑。
朝。
焼かれる。
意味は分かっているのに、理解したくなかった。理解した瞬間、次に待っている死が形を持ってしまう気がした。
けれど、鉄格子の向こうに人がいた。
人だ。
そう分かった瞬間、俺は床を這っていた。
自分がどう動いたのかも分からない。冷たい石に頬を擦り、腐った藁を押しのけ、両手を前に出そうとして、手首の枷に引き戻される。鎖が耳障りな音を立てた。皮膚に鉄が食い込む。痛い。けれど、そんなことはどうでもよかった。
「たすけて……」
喉から漏れた声は、ほとんど息だった。
「助けて、助けてください……お願いします……殺さないで……」
言葉が出た。
それだけで、何かが救われる気がした。
意味が通じているのかも、この世界の言葉になっているのかも分からない。そんなことを考える余裕はなかった。目の前に人がいる。俺を見ている。だったら縋るしかない。頼むしかない。泣いて、叫んで、頭を下げて、それで一秒でも死が遠ざかるなら何でもよかった。
俺は石の床に額を擦りつけた。
「お願いします……何でもします……何でもするから……殺さないで……!」
涙が出ていた。
鼻水も出ていた。
唾液が喉に絡み、声が何度も裏返った。息を吸おうとして咳き込み、咳き込むたびに腹の奥が引きつった。それでも止まれなかった。
みっともない、なんて思わなかった。
情けない、とも思わなかった。
そんなことを考える場所に、俺はもういなかった。
断頭台で首を落とされた記憶が、まだ魂にこびりついている。
首筋に落ちた斧の影。世界が横にずれた瞬間。落ちていく視界。自分の身体が、自分ではなくなっていく感覚。たった一振りで、俺というものが世界から切り離された喪失感。
あれは終わっていなかった。
身体は変わった。
首も繋がっている。
手も、足もある。
それなのに、俺の中ではまだ斧が振り下ろされ続けていた。何度も、何度も、何度も。目を閉じれば空が回る。息を吸えば血の匂いが蘇る。床に触れれば、断頭台の木の冷たさが戻ってくる。
もう一度死ぬ。
その予感だけで、頭の中が壊れそうだった。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……死にたくない……死にたくない……!」
俺は鉄格子に縋ろうとした。
手を伸ばす。届かない。鎖が短い。壁に繋がれた枷が、俺の腕を無理やり引き戻す。肩が抜けそうに痛んだ。それでも手を伸ばした。爪が石床を掻いた。指先が擦れて、何かぬるいものが滲んだ。
血かもしれない。
どうでもよかった。
「出して……ここから出して……お願いします……お願いします……!」
声は掠れ、途中から泣き声になった。
自分がどんな声をしているのかも分からなかった。高いのか、低いのか。男なのか、女なのか。子供なのか、大人なのか。そんなことはどうでもよかった。自分がどんな姿をしているのかさえ、気にする余裕はなかった。
今の俺に分かることは一つだけだった。
このままでは、また死ぬ。
それだけだった。
鉄格子の向こうで、松明が揺れた。
兵士が俺を見下ろしていた。
一人ではない。ぼやけた視界の中に、いくつもの影がある。革の鎧。腰の剣。火に照らされた顔。どれも人間の形をしている。だから余計に縋った。
「助けてください……俺、何も知らないんです……ここがどこかも、何で捕まってるのかも、この身体が誰なのかも……何も、何も知らない……!」
言ってから、自分でも訳の分からないことを口走っていると気づいた。
この身体。
そんなことを言って、誰が理解する。
誰が信じる。
目の前の兵士たちからすれば、俺はこの身体の持ち主でしかない。今この牢に繋がれている、みすぼらしい何かでしかない。
それでも言葉を止められなかった。
「違うんです……俺じゃない……俺は……俺は……!」
俺は何だ。
灰原珪。
そうだ。
俺は灰原珪だ。
高校二年で、ろくに学校にも行けなくて、母親に頼まれてコンビニへ行って、地震で崩れた外壁から子供を庇って、それで死んだ。
死んだ。
そして、首を落とされた。
今度は、何だ。
何で、また死ななきゃいけない。
「お願いします……助けて……助けて……!」
額を床に打ちつけた。
一度。
二度。
三度。
痛みがあった。だが、それすら何かに縋るための動作でしかなかった。頭を下げれば許されるかもしれない。泣けば哀れんでもらえるかもしれない。何も知らないと言えば、見逃してもらえるかもしれない。
そんな馬鹿みたいな希望に、俺は全身でしがみついていた。
兵士の一人が笑った。
「今さら命乞いか」
聞いたことのない音だった。
だが、意味だけは頭の奥に流れ込んできた。
命乞い。
その言葉が、ひどく正しかった。
そうだ。
これは命乞いだった。
みっともなく、醜く、何の誇りもない、生きたいだけの声だった。
けれど、それの何が悪い。
死にたくない。
死にたくないのだ。
首を落とされるのも嫌だった。火で焼かれるのも嫌だった。知らない場所で、知らない身体で、知らない罪を背負わされて、知らない人間たちに殺されるのなんて、もう嫌だった。
「命乞いでも何でもいい……助けてください……お願いします……!」
俺は叫んだ。
兵士たちが笑った。
「魔女の子が泣いているぞ」
「泣けば火が消えると思っているんだろう」
「母親にそう教わらなかったのか。魔女は灰になるまで死ねないって」
笑い声が落ちてくる。
意味だけが分かる。
魔女の子。
火。
灰。
母親。
単語がばらばらに頭へ刺さってくる。意味は分かるのに、理解したくなかった。理解した瞬間、逃げ道がまた一つ消える気がした。
「違う……違う……俺は魔女なんかじゃ……」
「お前が魔女かどうかは関係ない」
松明を持った兵士が言った。
火の明かりが、その男の顔を下から照らしていた。頬に深い皺があり、目は濁っていた。疲れた顔だった。けれど、その疲れは俺に向ける憐れみではなかった。
「魔女の血は残すな。そういう命令だ」
命令。
その一言で、俺の中にあった何かが一段冷えた。
この人たちは、俺を見ていない。
泣いている子供も。
何も知らないと叫ぶ俺も。
床に額を擦りつける醜い姿も。
関係ない。
命令だから殺す。
そう決まっている。
「朝になれば広場で焼く」
別の兵士が、面白くもなさそうに言った。
「母親が戻れば一緒に焼く。戻らなければ、その子だけだ」
朝。
広場。
焼く。
母親。
一緒に。
言葉が頭の中で形になっていく。
俺は息を吸おうとした。
吸えなかった。
喉が詰まる。胸が苦しい。声が出ない。さっきまであれほど喚いていたのに、突然、音が途切れた。
助からない。
その事実が、ようやく俺の中に落ちてきた。
どれだけ泣いても。
どれだけ頭を下げても。
何も知らないと叫んでも。
違う身体なんだと、俺は別人なんだと、どれだけ訴えても。
この人たちは、俺を助けない。
俺が何者かなんて、関係ない。
魔女の子。
ただそれだけで、朝になれば燃やされる。
「あ……」
口が開いた。
けれど、声は出なかった。
縋る相手が目の前にいるのに、その相手が人間の形をしているのに、どこにも届かない。言葉が壁にぶつかって落ちていく。涙も、叫びも、土下座も、何の意味も持たない。
その瞬間、俺は急に静かになった。
冷静になったわけではない。
諦めたわけでもない。
ただ、叫ぶための力が切れた。
胸の中にあった熱が、底から抜け落ちていく。手足の震えは残っている。呼吸も乱れたままだ。涙も止まらない。それでも、頭の表面だけが妙に冷たくなった。
泣いても駄目だ。
叫んでも駄目だ。
縋っても駄目だ。
なら、他に何がある。
何もない。
そう思いかけて、俺は床に伏せたまま、ゆっくりと目を動かした。
見るしかなかった。
助けを求めても助からないなら、せめて目を逸らさずに見るしかなかった。
涙で歪んだ視界の中に、狭い牢があった。黒ずんだ石壁。腐った藁。濁った水たまり。手首の枷から壁へ伸びる鎖。鉄格子の向こうで揺れる松明。
そして、兵士。
俺を笑った兵士たち。
俺を焼くことに、何の迷いもなさそうな人間たち。
その時になってようやく、俺は自分の手を見た。
小さかった。
泥で汚れ、爪が割れた、子供の手だった。
子供の手。
俺の手ではない。
断頭台で見た男の手でもない。
また、違う誰かの身体だった。
手首には、大きすぎる鉄の枷がはめられている。細い腕。軽すぎる身体。高く掠れた声。裸足の足。膝に浮いた痣。服は粗末な布一枚に近く、破れた裾から骨ばった足が覗いていた。
男なのか女なのかも分からない。
年齢も分からない。
顔も分からない。
俺は、誰かも分からない子供の身体で、牢に繋がれていた。
鉄格子の向こうに、兵士は三人いた。
一人は松明を持っている。さっき命令だと言った男。年は中年くらいだろうか。目が濁っていて、俺の泣き声を聞いても表情を変えなかった。
もう一人は若い。俺を見て笑っていた兵士だ。腰に剣を下げ、槍を壁に立てかけている。緊張感はない。朝になれば予定通り仕事をするだけ、そんな顔だった。
そして、もう一人。
松明の光から少し外れたところに立つ兵士がいた。
最初、人間だと思った。
けれど違った。
その男の頭には、獣の耳があった。
狼に似た、灰色の耳。火の明かりを受けて、短い毛並みが鈍く光っている。顔つきも、人間とは少し違う。鼻筋が高く、口元には鋭い牙が覗いていた。腰からは太い尾が垂れていて、その先がわずかに揺れている。
狼の獣人。
そんな言葉が、場違いなほど冷静に頭をよぎった。
ああ、本当に異世界なんだな。
どうしようもない感想だった。
首を落とされ、星の降る草原に立ち、今は知らない子供の身体で牢に繋がれている。ここまで来て、まだどこかで現実の続きみたいに考えていたのかもしれない。
けれど、鉄格子の向こうに立つ狼の耳と尾が、その逃げ道を雑に踏み潰した。
ここは、俺の知っている世界ではない。
その狼の獣人だけは、笑っていなかった。
顔の半分が影に沈んでいて、表情はよく見えない。けれど、笑っていないことだけは分かった。俺の泣き声に苛立つでもなく、面白がるでもなく、ただ黙ってこちらを見ていた。
いや。
見ていたというより、見てしまっていた。
そんな目だった。
灰色の耳が、わずかに伏せられている。
鼻先が小さく動いた。
俺の涙や汗や血の匂いを、嗅ぎ取っているのかもしれなかった。俺がどれだけ怯えているのか、どれだけ惨めに縋っているのか、言葉よりも先に分かってしまうのかもしれなかった。
俺は、ほとんど反射でその男に手を伸ばした。
鎖が鳴る。
届かない。
当たり前だ。
それでも、伸ばした。
「お願い……」
声はもう、ほとんど残っていなかった。
「助けて……」
狼の獣人の目が、わずかに揺れた。
男は何も言わなかった。
ただ、灰色の耳を伏せて、目を逸らした。
それだけだった。
それだけなのに。
その時の俺には、それが唯一、死以外のものに見えた。




