1章3話 夜明けまでの牢
ここはどこだ。
目を覚まして、最初に浮かんだのはそれだった。
冷たい石の床に頬が触れている。湿っていて、硬い。どこかから水の滴る音が聞こえる。鼻を刺すのは腐った藁と、錆びた鉄の匂いだった。
ここは、さっきの草原ではない。
昼間なのに星が降っていた、あの幻想的な場所ではない。海の色をしたドレスの女もいない。風に揺れる草も、音もなくほどける星の光も、どこにもない。
もちろん、元の世界でもない。
俺の部屋ではない。通い慣れた道でもない。地震でひび割れたアスファルトも、赤いランドセルの子供も、崩れ落ちた外壁もない。
そして、最初に目覚めた断頭台でもなかった。
青すぎる空も、熱狂する群衆も、黒い布を被った処刑人も、首に落ちた斧の影もない。
元の世界とは違う。
草原とも違う。
断頭台とも違う。
なら、ここはどこだ。
異世界。
そう考えてはいた。
少なくとも、断頭台で目を覚ました時点で、ここは俺の知っている世界ではないと思っていた。剣だの処刑台だの、見慣れない服装だの、理解できるのに聞いたことのない言葉だの、普通に考えれば異世界と呼ぶしかない。
けれど。
まさか、全部違う世界なのか。
死ぬたびに、まったく別の世界へ飛ばされるのか。
断頭台の世界。星降る草原の世界。そして、この牢の世界。
それぞれが別々の場所で、別々の決まりで動いていて、俺は死ぬたびに知らない場所へ放り込まれるのか。
そう考えた瞬間、頭の奥が遠くなった。
もしそうなら、どうしようもない。
世界が一つなら、まだ何かを覚えられるかもしれない。言葉も、地名も、危険なものも、安全な場所も、少しずつ分かるかもしれない。
でも、死ぬたびに世界ごと変わるなら。
学んだことも、覚えたことも、築いたものも、全部置き去りになる。
考えれば考えるほど、意味がなかった。
そもそも、世界が同じか違うかなんて、今の俺に確かめる方法はない。
名前も知らない。
場所も知らない。
この身体が誰なのかも知らない。
何も知らないまま、ただ石の床に転がされているだけだ。
なのに、頭は勝手に考え続けていた。
異世界なのか。
別世界なのか。
転生なのか。
呪いなのか。
あの女は何なのか。
どうして俺なのか。
そんなことばかりが、ぐるぐると頭の中を回る。
考えているふりをしているだけだった。
現実から目を逸らしているだけだった。
そんなことを考えても、今の状況は何一つ変わらない。
分かっている。
分かっているのに、やめられなかった。
目の前の現実を見るのが怖かった。
断頭台で死んだ記憶は、まだ身体の奥に残っている。首筋に落ちた影。世界が横にずれた感覚。自分の身体を見た瞬間の、あの喪失感。
あれを思い出したくなくて。
次に何が起きるのかを知りたくなくて。
俺は、答えの出ないことばかり考えていた。
けれど、冷たい床の感触は消えなかった。
腐った藁の匂いも、錆びた鉄の匂いも、喉の渇きも、手首の重さも、全部そこにあった。
これは夢じゃない。
確かめるまでもなく、分かっていた。
それでも俺は、震える指先を動かして、石の床を掻いた。
爪の先に硬い感触が返ってくる。冷たく、ざらついて、湿っている。指に泥のようなものがついた。臭い。気持ち悪い。
次に、自分の頬をつねった。
痛かった。
小さく息が漏れるくらいには、ちゃんと痛かった。
夢ではない。
悪夢なら、どれだけよかっただろう。
目を閉じて、開ければ、自分の部屋の天井がある。母親の声がする。学校に行けなかった日々が続く。そんな現実でさえ、今よりはずっとマシだった。
でも、戻らない。
ここは現実だった。
なら、見なければいけない。
俺はゆっくりと息を吸った。
喉が痛い。空気は冷たく、ひどく湿っている。吸うだけで肺の奥がざらつくようだった。
それでも、息を吸った。
吐いた。
もう一度、吸った。
少しだけ、目の焦点が合う。
俺は初めて、周囲を見た。
牢だった。
狭い石造りの部屋だった。壁は黒ずみ、隙間には苔のようなものがこびりついている。床には腐った藁が散らばり、隅には水たまりができていた。
暗い。
明かりは、鉄格子の向こうで揺れる松明だけだった。
その火が壁を照らすたび、影が伸びたり縮んだりする。牢全体が、ゆっくり呼吸しているように見えた。
俺は自分の手を見た。
小さかった。
泥で汚れ、爪が割れた、子供の手だった。
俺の手ではない。
断頭台で見た男の手でもない。
また、違う誰かの身体だった。
手首には鉄の枷がはめられている。そこから伸びた鎖が、壁の金具に繋がっていた。少し動かすだけで、じゃらり、と音が鳴る。
その音に、身体がびくりと跳ねた。
鉄格子の向こうに、人影があった。
兵士がいた。
一人ではない。
松明の明かりに照らされて、革の鎧と、腰に下げた剣が見えた。
俺は息を殺した。
ここがどこかは、まだ分からない。
でも、一つだけ分かった。
俺はまた、捕まっている。




