1章2話 星降る昼の女
死んだ。
そう理解するよりも先に、世界から音が消えた。
群衆の叫びも、処刑人の息遣いも、斧が肉を断つ音も、血が木板に跳ねる音も、何もかもが遠ざかっていく。暗闇は落ちてくるものではなかった。むしろ、俺の方がその底へ沈んでいくようだった。
身体の感覚はなかった。
手も、足も、首も、喉もない。痛みもない。息苦しさもない。ただ、意識だけが取り残されていた。
死んだはずなのに。
終わったはずなのに。
俺というものだけが、まだ消えずに残っていた。
やがて、暗闇の底に光が滲んだ。
最初は小さな点だった。それが少しずつ広がり、白く、青く、銀色に揺れながら、俺の意識を包み込んでいく。
まぶしい、と思った。
そう思った瞬間、俺は草原に立っていた。
見渡す限りの草原だった。
背の低い草が風に揺れ、波のように地平線まで続いている。空は昼の青さをしていた。雲は薄く、太陽もある。明るい。暖かい。さっきまで鼻を満たしていた血の匂いも、湿った木の感触も、首筋に落ちた斧の影も、どこにもない。
なのに、星が降っていた。
昼間の空から、星が降っている。
白く、青く、銀色に光る星々が、雨のように空から落ちてくる。音はない。星は草原に触れる寸前でほどけ、光の粒になって消えていく。
綺麗だった。
あまりにも綺麗で、現実味がなかった。
けれど、夢だとは思えなかった。
断頭台の上で感じた現実とは違う。痛みも匂いも熱もない。だが、ここにはここなりの確かさがあった。風が頬を撫でる感触。足元の草が靴の裏をくすぐる感覚。降り注ぐ星の光が、皮膚の上を冷たく滑っていくような感覚。
ここもまた、現実だった。
少なくとも、俺にとっては。
「……どこだよ、ここ」
声が出た。
今度は、自分の声だった。
さっきの処刑台で聞いた、乾いた男の声ではない。聞き慣れた、頼りない、自分の声。喉に手を当てる。首がある。切られていない。指先も動く。足もある。
俺は自分の身体を見下ろした。
制服を着ていた。
高校の制服。夏服の白いシャツ。少しよれたズボン。履き慣れたスニーカー。
死んだ時の格好だった。
いや、違う。
背中に痛みはない。血もついていない。瓦礫に潰された感覚もない。まるで、死ぬ直前の自分だけを切り取って、ここに置かれたみたいだった。
気味が悪かった。
その時、草原の向こうに人影が見えた。
女だった。
海と同じ色のドレスを着ていた。
深い青。光の角度で緑にも紫にも見える、底の知れない色だった。長い髪が風に流れ、真珠のように白い肌が星の光を受けて淡く輝いている。
美しい、と思った。
その感想は、ほとんど反射だった。
人間離れしている。そう表現するしかなかった。顔立ちも、肌も、立ち姿も、何もかもが作り物のように整っている。けれど、作り物にしては生々しい。絵画の中から抜け出してきた女が、こちらを見て呼吸しているようだった。
女は俺を指差していた。
そして、笑っていた。
無邪気な子供のように。
悪戯を思いついた少女のように。
その表情だけなら、可愛らしいと言えなくもなかった。
だが、目が違った。
瞳に温度がなかった。笑っているのに、こちらを見ているのに、その奥には何の情も浮かんでいない。哀れみも、怒りも、同情も、興味さえも薄い。
まるで、地面を這う虫がどこまで逃げるか眺めているみたいだった。
俺は一歩、後ずさった。
「お前、誰だよ」
声が震えていた。
「俺に何をした。ここはどこだ。さっきのは何だ。何で俺は、あんな場所にいた。何で殺された。俺は……俺は、死んだんじゃなかったのか」
質問が溢れた。
一つずつ尋ねる余裕なんてなかった。頭の中がぐちゃぐちゃだった。現実で死んで、知らない身体で目覚めて、断頭台で首を落とされて、今度は星の降る草原で得体の知れない女と向き合っている。
まともなことなど、一つもない。
女は俺の混乱を眺めながら、楽しそうに目を細めた。
「妾が答えねばならぬ道理は無い」
その声は、草原を吹く風よりも冷たかった。
「……は?」
「問えば返ると思うておるのか。名を尋ねれば名が与えられ、理由を求めれば理が差し出されると。随分と甘やかされた魂じゃ」
「ふざけるなよ。俺は何も分からないまま殺されたんだぞ」
「そうじゃな」
女は軽く頷いた。
その仕草が、あまりにも淡々としていた。
「お前がやったのか」
「問いが多い」
「答えろ」
「くどい」
女が微笑んだ。
その瞬間、喉が詰まった。
見えない指で首を押さえられたように、声が出なくなる。息はできる。だが、言葉だけが奪われていた。口を開いても、喉からは掠れた空気しか漏れない。
女は満足そうに俺を見下ろした。
「其方に許されたのは、問うことではない。聞くことじゃ」
星の降る草原で、女の声だけが静かに響く。
「其方は死んだ。そして、また死んだ。じゃが、終わりではない」
俺は喉を押さえたまま、女を睨んだ。
女は気にした様子もなく続ける。
「其方はこれより、死ぬたびに移る。魂が、別の器へ」
器。
その言葉だけが、やけにはっきりと耳に残った。
「器とは肉体。名前。身分。血筋。罪。病。呪い。借金。婚約。裏切り。怨恨。そういうものを詰め込んだ、誰かの身体じゃ」
女は俺の額を指差した。
「其方が入るのは、今日死ぬはずだった者の身体。断頭台に上げられた男。病床で息絶える娘。獣に腹を裂かれる兵。毒杯をあおる王子。海に沈む奴隷。何であろうと同じじゃ」
息が浅くなる。
今日死ぬはずだった者。
その言葉が、胸の奥に重く沈んだ。
「死ねば移る。移れば背負う。背負えば足掻く。其方に許された道はそれだけじゃ」
女は、いたずらっ子のように笑った。
だが、その声は背筋が凍るほど冷たい。
「世界は其方に都合の悪いようにできておる」
空から降る星が、一瞬だけ止まったように見えた。
「死ぬな。殺されるな。病に負けるな。飢えに倒れるな。裏切られるな。戦で散るな。処刑されるな。獣に食われるな。毒に沈むな。呪いに呑まれるな」
女は指を一本ずつ折りながら、楽しそうに言った。
「どのような身体に入ろうとも、どのような運命を背負おうとも、生き延びよ。今日死ぬはずだった者の身体で、明日を迎えよ。明日死ぬはずなら、その次の日を迎えよ」
喉の奥で、声にならない抗議が震えた。
無理だ。
そう言いたかった。
そんなもの、できるわけがない。
女は俺の表情だけでそれを読み取ったのか、目を細めた。
「無理かどうかは問うておらぬ」
冷たい声だった。
「其方はただ、生きねばならぬ」
女はゆっくりと手を上げた。
空から降る星が、一斉に静止する。音のない草原で、無数の光が宙に浮かんだ。
「天寿をまっとうして見せろ」
その言葉だけが、命令のように降ってきた。
その瞬間、喉を塞いでいた何かが消えた。
「待て……!」
ようやく声が出た。
「天寿って何だよ! 老人になるまで生きろってことか!? どの身体で? 何年? 誰の人生を? 呪いを解く方法は――」
「妾が答えねばならぬ道理は無いと言うた」
女は笑った。
「それを知ることも含めて、其方の生じゃ」
「ふざけるな!」
「ふざけておるとも」
女は悪びれもせずに言った。
そして、俺の額に白い指を向けた。
「じゃが、其方には拒む術がない」
指先が、俺の額に触れる。
冷たかった。
氷に触れられたようだった。
「次は、少し長く保つとよいな」
足元の草原が崩れた。
地面が抜ける。
身体が落ちる。
空が遠ざかる。
星が逆さまに降っていく。
俺は手を伸ばした。だが、掴めるものは何もなかった。草原も、空も、女も、全部が遠ざかっていく。
俺は叫んだ。
今度は声が出た。
けれど、その声は誰にも届かなかった。
落ちる。
落ちる。
落ちる。
そして、目を覚ました。
最初に感じたのは、冷たさだった。
石の床に頬が触れている。湿っていて、硬い。どこかから水の滴る音が聞こえた。
暗い。
狭い。
腐った藁の匂いと、錆びた鉄の匂いが鼻を刺す。
そこまで認識した瞬間、俺は息を詰まらせた。
断頭台。
斧。
首筋に落ちた影。
世界が横にずれた感覚。
首のない身体。
それらが、目覚めたばかりの意識に一気に流れ込んできた。
「あ、ぁ……っ」
喉から、声とも息ともつかない音が漏れた。
痛みはなかった。首は繋がっている。手も足も動く。けれど、失われた感覚だけが残っていた。あるはずの首が、もう一度落ちるような錯覚。身体から自分だけが切り離され、地面へ転がっていく感覚。視界の端で、自分の身体が他人のものみたいに倒れている光景。
死んだ。
俺は、本当に死んだ。
理解した瞬間、胃の奥がねじれた。
「う、ぐ……っ、ぁ……!」
吐き気が込み上げる。けれど、吐くものはほとんどなかった。喉が焼ける。腹が痙攣する。肺が空気を求めて暴れる。
俺は石の床に爪を立てた。
爪が割れるほど力を込めても、身体の震えは止まらなかった。歯が噛み合わない。奥歯が鳴る。息を吸おうとしても、喉の奥で恐怖が詰まって、うまく空気が入ってこない。
死ぬ瞬間には、痛みがなかった。
だが、痛みがなかったことが、余計に恐ろしかった。
何も感じる間もなく終わった。叫ぶ暇も、後悔する暇も、考える暇もなく、俺というものが断ち切られた。たった一振りで、世界から切り離された。
その事実だけが、遅れて俺を殺しに来ていた。
「嫌だ……嫌だ、嫌だ……」
自分でも情けないほど細い声だった。
もう終わったことだ。
分かっている。
さっきの身体はもうない。あの断頭台も、処刑人も、群衆も、今ここにはいない。
それなのに、俺の中ではまだ斧が振り下ろされ続けていた。
何度も。
何度も。
何度も。
首が落ちる。
空が回る。
自分の身体を見る。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
俺は床に額を押しつけ、声を殺して悶えた。
泣いているのか、吐こうとしているのか、叫ぼうとしているのか、自分でも分からなかった。ただ、身体が拒絶していた。死んだ記憶を。終わらなかった現実を。これからまた、別の死に向かわされるかもしれないという予感を。
やがて、手を動かそうとして、金属の音が鳴った。
鎖だった。
その音で、意識が現実に引き戻される。
俺の両手には、鉄の枷がはめられていた。
またか。
そう思った瞬間、遠くで足音がした。
一人ではない。
複数の足音。
硬い靴底が石を叩く音が、暗闇の向こうから近づいてくる。
俺は身体を起こそうとした。
だが、うまく力が入らない。身体が小さい。腕が細い。息が浅い。喉が焼けるように痛む。
視線を落として、息が止まった。
手が、小さかった。
さっきの処刑台の男の手ではない。俺自身の手でもない。泥に汚れ、爪が割れた、子供の手だった。
牢の扉の向こうで、松明の火が揺れた。
誰かが言った。
知らない言葉だった。
けれど、意味だけは頭の奥に流れ込んでくる。
「いたぞ。逃げた魔女の子だ」
鉄格子の向こうで、兵士が笑った。
「夜明けまで生かしておけ。火刑は朝だ」
俺は、三度目の死に向かって目を覚ました。




