1章1話 断頭台の上で目を覚ました
目を覚ました瞬間、首が飛ぶのだと分かった。
理由は分からない。名前も分からない。ここがどこなのかも、自分がどんな顔をしているのかさえ分からない。ただ、分かった。
俺は今、死ぬ。
頬に触れていたのは、冷たい木の感触だった。湿っている。汗か、雨か、それとも誰かの血か。鼻を突く鉄臭さが、喉の奥にまとわりついていた。息を吸うたびに、胃の底がひっくり返りそうになる。けれど、吐くことさえ許されない。俺の首は、荒削りの台に押しつけられていた。
動けない。両手は後ろで縛られている。縄が手首の皮膚に食い込み、脈に合わせて鈍く痛んだ。足も固定されているのか、指先ひとつ満足に動かせない。
視界の端で、空が揺れていた。青い空だった。腹が立つほど綺麗な青だった。
その下で、人々が叫んでいる。歓声。罵声。笑い声。祈りのような声。それらが一つに混ざり合い、熱を持った塊となって断頭台へ押し寄せてくる。
空気が踊っていた。群衆の熱狂に煽られた空気が、波のようにうねり、俺の頬を、耳を、むき出しの首筋を叩きつける。見えない手に何度も殴られているようだった。
何だ。何なんだ、これは。
俺は死んだはずだ。
最後に聞いたのは群衆の叫びではなく、割れたガラスの音と、誰かが俺の名前を呼ぶ声だった。最後に嗅いだのは血の匂いではなく、舞い上がった土埃と、崩れたコンクリートの粉っぽい匂いだった。
だから、ここは続きではない。
俺の人生の延長線上に、こんな場所はない。
俺が最後に見たのは、ひび割れたアスファルトと、泣きそうな子供の顔だった。
高校二年の夏、俺は死んだ。
理由は、たぶん運が悪かったからだ。
その日は珍しく、外に出ていた。別に前向きな理由があったわけじゃない。母親に頼まれて、近所のコンビニまで買い物に行っただけだった。
帰り道、交差点の信号が青に変わった。ランドセルを背負った小学生が、俺の少し前を歩いていた。
その時、地面が大きく揺れた。最初は、大型トラックでも通ったのかと思った。けれど違った。電柱が軋み、アスファルトが波打ち、どこかでガラスの割れる音がした。
地震だった。
小学生が立ち止まる。その頭上で、古い建物の外壁が剥がれた。
俺は考えるより先に走っていた。別に、誰かを助けたいとか、そんな立派なことを思ったわけじゃない。ただ、目の前で子供が潰されるのを見たくなかった。
突き飛ばした。間に合った。
小学生は転んで、泣きそうな顔でこちらを見ていた。その顔を見た瞬間、少しだけ安心した。
次の瞬間、背中に衝撃が落ちた。
痛みは遅れてやってきた。息ができなかった。倒れた俺の視界の端で、赤いランドセルが遠ざかっていく。誰かが叫んでいる。サイレンの音が近づいてくる。
ああ、これは駄目だ。
妙に冷静に、そう思った。
死にたいと思ったことはない。けれど、生きるのが得意だったわけでもない。学校にはあまり行けていなかったし、部屋にこもる日も多かった。明日が楽しみだと思える日なんて、ほとんどなかった。
それでも、終わると分かった瞬間、俺は思った。
まだ、死ぬつもりはなかった。
世界が暗くなる。最後に見えたのは、青い空ではなく、ひび割れたアスファルトと、誰かの泣き声だった。
――なのに。
次に目を覚ました場所が、これか。
異世界。そんな言葉が、場違いなほど軽く頭をよぎった。
けれど、剣と魔法の冒険も、女神の祝福も、都合のいい能力も、そこにはなかった。あったのは、首を置くための台。縛られた身体。血の匂い。そして、俺を殺すためだけに立っている男。
処刑人は、すぐそばにいた。
黒い布で顔の半分を覆い、革の手袋をはめ、両手で巨大な斧を握っている。刃は陽の光を受けて白く光っていた。美しいと思ってしまうほど、よく研がれている。
男の目だけが見えた。残酷ではなかった。怒ってもいなかった。楽しんでもいなかった。ただ、冷たい。井戸の底に沈んだ石のように、何の感情も宿していない目だった。
その目を見た瞬間、俺は理解した。
こいつにとって俺は人間ではない。仕事だ。薪を割るように。肉を切るように。落ち葉を払うように。俺の首は、これから処理される。
喉が震えた。
「ま、待っ……」
声が出た。ひどく掠れた声だった。自分の声ではなかった。低い。乾いている。喉の奥に砂を詰められたような、知らない男の声。
誰だ。これは誰の身体だ。俺は、今、どんな顔をしている? 若いのか。老いているのか。罪人なのか。貴族なのか。化け物なのか。
何も分からない。何も分からないまま、死だけが分かる。
処刑人が斧を持ち上げた。
群衆の声が一段と大きくなる。世界が揺れる。踊る空気が、全身に打ちつける。
その瞬間、身体が強ばった。
手足の先から熱が引いていく。反対に、胸の奥だけが異様に熱い。心臓が暴れ、血が全身を駆け巡る感覚があった。呼吸は浅く、喉は干上がり、舌がうまく動かない。
細胞の一つ一つが、これから起こることを知っているみたいだった。
死ぬ。
理屈よりも先に、身体がそれを理解していた。頭ではまだ追いついていないのに、肉も骨も血も、全部が死を予感している。その恐怖を、神経という神経が寄ってたかって俺に送り続けていた。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
その感情だけが、異様なほど鮮明だった。
これは夢ではなかった。
そう思い込もうとしたわけではない。疑う余地がなかった。頬に押しつけられた木の硬さも、手首に食い込む縄の痛みも、肺に入り込む血と汗の匂いも、すべてがあまりに生々しかった。
目を閉じれば覚める悪夢ではない。
誰かが助けに来る都合のいい物語でもない。
ここは現実だった。
そして現実である以上、これから振り下ろされる斧もまた、本物だった。
俺は、全身で叫んでいた。
死にたくない。
斧が、空の青を切り裂くように振り下ろされた。一瞬、刃が太陽を隠した。影が首筋に落ちる。
冷たい。あまりにも冷たい。
俺は叫んだ。声にならない声で、喉が裂けるほど叫んだ。
そして、世界が横にずれた。
痛みはなかった。ただ、空が回った。
青い空。石造りの広場。熱狂する群衆。黒い処刑人。首のない身体。
それを、俺は見た。
俺の身体だった。見知らぬ誰かの身体だった。
視界が落ちていく。ごろり、と地面が近づく。最後に見えたのは、血に濡れた断頭台と、こちらを見下ろす処刑人の冷たい目だった。
そして、暗闇が来た。
死んだ。
異世界に来て、一分も経たずに。
俺は、また死んだ。




