1章10話 水の音
吠え声は、森の奥から何度も響いた。
犬なのか、狼なのか、それともこの世界の獣なのか、珪には分からない。ただ、分かることは一つだけだった。
あれに見つかれば、まずい。
追手ではないかもしれない。盗賊の犬でもないかもしれない。けれど、今の自分たちに獣と戦う力などない。
珪はミナの手を握ったまま、足音を殺して森を進んだ。
走りたい。
今すぐ走って、あの吠え声から少しでも遠ざかりたい。
だが、走れば音が出る。枝を踏む。草を揺らす。息が乱れる。転ぶかもしれない。
今は、ゆっくり進むしかなかった。
「こっちで、合ってる?」
ミナが小さな声で聞いた。
「分からない」
珪は正直に答えた。
「でも、水の音はこっちからする」
「うん」
ミナは頷いた。
その手は冷たかった。小さく震えている。
珪も震えていた。
怖い。
けれど、ミナの手を握っていると、自分だけが怖がっているわけではないと分かった。
だから、少しだけ立っていられた。
木々の間を抜ける。
湿った土を踏む。
枝が頬を掠める。
足元には落ち葉が積もり、どこが地面でどこが穴なのか分かりにくい。何度も足を取られ、そのたびに珪は歯を食いしばった。
背中が痛い。
火傷した部分に服が貼りついている気がする。動くたびに皮膚が引き攣り、呼吸が浅くなる。
手首に巻いた布は、もう赤く滲んでいた。
それでも、血が流れ続けるよりはましだった。
ミナも足を引きずっている。足首に巻いた布はずれかけていたが、彼女は何も言わなかった。
「痛かったら言えよ」
珪が言うと、ミナは少しだけ首を横に振った。
「歩ける」
「痛いかどうかを聞いた」
「……痛い」
「じゃあ、もう少しで止まる」
「でも、吠えてる」
「ああ。だから川まで行く」
「川に行けば、大丈夫?」
「分からない」
また、それしか言えなかった。
大丈夫だ、と言ってやれればよかった。
街に着けば助かる。
誰かに会えば守ってもらえる。
水を見つければ、全部どうにかなる。
そんな言葉を、何一つ言えなかった。
水があれば、喉は潤せる。
傷も少しは洗える。
だが、それだけだ。
追手が消えるわけでもない。
獣がいなくなるわけでもない。
街や村の人間が、自分たちを助けてくれる保証もない。
火刑台で見た白い衣。
厄災を魔女のせいだと叫ぶ声。
子供を売れる商品として残したという言葉。
珪はまだ、この世界のことをほとんど知らない。
けれど、何も考えずに誰かを信じていいほど優しい場所ではないことだけは、もう分かっていた。
「でも、水があれば傷を洗える。喉も少しは楽になるかもしれない」
「飲める?」
「流れてる水なら、たぶん」
「たぶん?」
「俺のいたところだと、そのまま飲むなって言われる。でも、今は選べない」
ミナは不思議そうに首を傾げた。
「水って、飲むものだよ」
「俺のいたところは、変なんだよ」
「ハイバラケイのいたところ?」
珪は口を閉じた。
しまった、と思った。
だが、ミナは責めるようには見ていなかった。ただ、知りたそうにしているだけだった。
珪は少し迷ってから、答えた。
「遠いところ」
「ヴァエストリアじゃないの?」
「たぶん、違う」
「グラーベル皇国?」
「それも違う」
「じゃあ、どこ?」
「分からない」
ミナはまた首を傾げた。
分からないことだらけだ。
けれど、ミナはそれ以上聞かなかった。
「ハイバラケイは、変だね」
「自分でもそう思う」
「でも、悪い人じゃない」
その言葉に、珪は少しだけ息を詰まらせた。
「……あと」
「なに?」
「ハイバラケイ、って全部呼ばなくていい」
ミナは首を傾げた。
「違うの?」
「違わないけど、長いだろ」
「うん。長い」
「俺は、ケイ」
「ケイ?」
「灰原が家の名前。ケイが俺の名前。だから、ケイでいい」
ミナは何度か口の中で繰り返した。
「ケイ」
「ああ」
「ケイ」
「……うん」
この世界で、自分の名前だけを呼ばれる。
それは妙に落ち着かなかった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「じゃあ、ミナもミナでいい」
「それは最初からそうだろ」
「うん」
ミナは少しだけ笑った
水の音が、少しずつ近づいていた。
最初は気のせいかと思うほど小さかった音が、今ははっきり聞こえる。
さらさらという軽い音ではない。
ごう、と低く唸るような音だった。
珪は足を止めた。
嫌な予感がした。
「……近い」
ミナが言う。
「ああ」
枝葉の向こうが少し明るい。
森が切れている。
珪はミナの手を引き、慎重に進んだ。
最後の茂みを抜けた瞬間、視界が開ける。
川があった。
思っていたより、ずっと大きい。
幅は広く、向こう岸までかなり距離がある。水は澄んでいるように見えたが、流れは速かった。岩にぶつかるたびに白い泡が立ち、低い音を響かせている。
川辺は石だらけだった。
濡れた石が光り、足を置けばすぐ滑りそうに見える。
珪は思わず唾を飲んだ。
水だ。
ようやく見つけた。
けれど、安心できる水ではなかった。
近づき方を間違えたら、流される。
そう直感した。
「川……」
ミナが小さく呟く。
その声には、少しだけ安堵が混じっていた。
無理もない。
喉は渇いている。傷も痛む。水があるだけで、生き延びた気がする。
だが、珪はミナの手を離さなかった。
「待て」
「飲まないの?」
「飲む。でも、ゆっくりだ。石が濡れてる。滑る」
「うん」
「俺が先に見る」
珪は慎重に川辺へ近づいた。
一歩。
石が少し動く。
足元が不安定だ。
二歩。
流れの音が強くなる。
水面を見ていると、吸い込まれそうな気がした。
珪はしゃがみ込み、手を伸ばす。
指先が水に触れた。
冷たい。
痛いほど冷たい。
その冷たさに、思わず息が漏れた。
「冷たい」
ミナが隣で言った。
いつの間にか、彼女もしゃがみ込んでいた。
珪は慌てて片手でミナの服を掴む。
「近づきすぎるな」
「うん」
ミナは小さく頷き、両手で水をすくった。
飲もうとして、珪が止める。
「少しずつ」
「どうして?」
「一気に飲むと、たぶんよくない」
「たぶんばっかり」
「たぶんしか知らないんだよ」
ミナは少しだけ笑った。
本当に小さな笑いだった。
檻の中でも、森の中でも見なかった顔だった。
珪は少しだけ安心した。
笑えるなら、まだ大丈夫だ。
ミナは水を少し口に含む。
ごくりと飲み込み、目を細めた。
「冷たい」
珪も水をすくい、少しだけ飲んだ。
喉が痛んだ。
それでも、冷たい水が通る感覚に身体が震えた。
今は、それだけで十分だった。
何度か少しずつ飲んでから、珪は手首の布を外した。
傷口に水をかける。
痛みが走った。
「っ……」
「痛い?」
「痛い。でも、たぶん洗った方がいい」
「また、たぶん」
「うるさい」
ミナがまた少しだけ笑った。
珪はその笑い声を聞きながら、手首の血と煤を洗った。
完全に綺麗にはならない。
でも、泥が固まったままよりはましだ。
次にミナの足首も洗う。
ミナは水の冷たさに肩を震わせたが、逃げなかった。
「しみるぅ」
「我慢しろ」
「怒らないって言った」
「怒ってない。お願いしてる」
「お願い?」
「我慢してください」
ミナはきょとんとした後、小さく頷いた。
「はい」
妙に素直な返事に、珪は少しだけ笑いそうになった。
こんな状況なのに。
火傷も痛い。追われるかもしれない。獣もいるかもしれない。どこへ行けばいいのかも分からない。
それでも、少しだけ息ができた。
川辺の石に座り、珪は空を見上げた。
木々の隙間から、白い空が見える。
星は見えない。
昼だから当然だ。
けれど、珪の頭には、星の降る草原が浮かんでいた。
星の女神さまは、弱い人を見てくれるんだって。
ミナの言葉が蘇る。
弱い人。
見てくれる。
あの女が本当に星の女神なのだとしたら、今も見ているのだろうか。
自分たちが泥と血で汚れ、川辺で傷を洗っているところを。
ミナが水を飲んで少し笑ったところを。
珪が怖くて、それでも年下の少女の前で強がっているところを。
考えて、珪は小さく息を吐いた。
「どうしたの?」
ミナが聞いた。
「いや」
「女神さまのこと?」
「……少し」
ミナは空を見上げた。
「星、見えないね」
「昼だからな」
「でも、塔の絵では、昼でも星があったよ」
珪はミナを見る。
「昼でも?」
「うん。青い空に、白い星がいっぱい。女神さまの絵」
青い空。
白い星。
昼なのに星が降る草原。
珪の胸の奥で、また何かが繋がる音がした。
「その絵の女神は、どんな姿だった」
「綺麗な人」
「服は?」
「青い服。水みたいな色」
珪は黙った。
ミナが祈っていた星の女神。
そして、あの草原で珪を見下ろしていた女。
まだ同じものだとは言い切れない。
けれど、無関係だとも思えなかった。
「ハイバラケイ?」
「何でもない」
そう言ったが、何でもなくはなかった。
この世界で祈られている星の女神。
弱い人を見てくれる女神。
救ってくれる存在として、ミナの村では祈られていた。
だが、珪が知っているあの女は、救ってくれるようには見えなかった。
見ている。
それだけは、たぶん本当だ。
ただし、何のために見ているのかは分からない。
少なくとも、優しさではない気がした。
「ミナは、女神さまを信じてるのか」
珪が聞くと、ミナは少し黙った。
「分からない」
「分からない?」
「お母さんは信じてた。お父さんも、村の人も。黒い雨が降った時、みんな塔に行った。お願いした。でも、神官さまが来て、大人たちは連れていかれた」
ミナは水面を見た。
「女神さまは、見てたのかな」
珪は答えられなかった。
「見てたなら、どうして助けてくれなかったのかな」
子供の声だった。
責めるというより、本当に分からないという声。
珪は口を開きかけて、閉じた。
あの女なら、何と言うだろう。
世界は其方に都合の悪いようにできておる。
そう笑うかもしれない。
それをミナに言う気にはなれなかった。
「分からない」
珪は言った。
「俺にも、分からない」
「そっか」
ミナはそれ以上聞かなかった。
少しの間、二人は黙っていた。
川の音が、二人の間を埋めていた。
安心できる状況ではない。
それでも、立ち止まって息を整えるだけの時間はあった。
けれど、長くは続かなかった。
森の奥で、また吠え声がした。
さっきより近い。
ミナがびくりと震える。
珪は顔を上げた。
音の方向は、来た道の方だった。
追ってきている。
獣か。
盗賊か。
どちらにしても、ここに留まるのは危険だ。
「行くぞ」
「うん」
ミナが立ち上がる。
その時、足元の石が小さく滑った。
「あっ」
ミナの身体が川の方へ傾く。
珪は反射的に手を伸ばした。
服の袖を掴む。
間に合った。
ミナは川へ落ちず、石の上に膝をつく。
珪の心臓が激しく鳴った。
「危ないだろ!」
思わず声が荒くなる。
「ご、ごめんなさい」
ミナは泣きそうな顔で謝った。
珪はすぐに息を吐く。
「……怒ってない。今のは、本当に危なかった」
「うん」
「川に近づきすぎるな。流れが速い。落ちたら、たぶん戻れない」
ミナは青い顔で川を見る。
水は変わらず流れていた。
何事もなかったように。
ただ、冷たく、速く。
珪はその流れを見つめる。
嫌な感覚が消えなかった。
この川は水をくれた。
傷を洗わせてくれた。
けれど、同時に口を開けている。
少しでも足を滑らせれば、簡単に飲み込む。
世界は都合よくできていない。
その言葉が、また耳の奥で響いた。
「川沿いに下る」
珪は言った。
「街や村があるかもしれない。でも、水際には近づきすぎない」
「分かった」
「足元を見る。急がない。でも止まらない」
「うん」
ミナは珪の手を握った。
今度は、服の裾ではなく手だった。
珪はその手を握り返す。
小さくて、冷たい手。
さっき川に落ちかけた手。
珪は離さないように、少し強く握った。
森の奥で、また吠え声がした。
川は低く唸りながら流れている。
森は暗い。
道はない。
それでも、二人は川沿いを歩き始めた。
水の音は、ずっと隣にあった。
助けのように。
警告のように。
珪はその音を聞きながら、ただ前を見た。




