表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/11

1章11話 救いの手

 川沿いを歩き始めてから、どれくらい経ったのか分からなかった。


 川の音は、ずっと隣にあった。

 低く、重く、途切れない音。

 初めは水を見失わないための目印だったはずなのに、今は耳の奥に張りついて、少しずつ頭をぼんやりさせていく。


 道はない。

 川辺に沿って、木の根を避け、濡れた石を踏まないように進むだけだ。

 近づきすぎれば流される。

 離れすぎれば森に飲まれる。

 その中間を選んでいるつもりだった。


 けれど、もう足が上がらなかった。


「ケイ?」


 ミナが不安そうに名前を呼ぶ。


 珪は返事をしようとして、足を前に出した。

 その瞬間、膝から力が抜けた。


「っ……」


 手をつく。

 地面に膝が落ちる。

 背中の火傷が引きつり、手首の傷がずきりと痛んだ。


「ケイ!」


 ミナが慌てて駆け寄る。


「大丈夫」


 反射的にそう言いかけて、珪は言葉を飲み込んだ。

 大丈夫ではない。

 全然、大丈夫ではなかった。


「……少し、休む」


 やっとそれだけ言った。


 ミナは何度も頷いた。


「うん。休もう。休んでいい」


 まるで、珪に許可を出すみたいな言い方だった。

 その声が少し震えていて、珪は余計に申し訳なくなる。


 川から少し離れた木の根元に、二人は座った。

 座った瞬間、緊張で無理やり押さえ込んでいたものが、一気に襲ってきた。


 空腹。

 疲労。

 喉の痛み。

 背中の熱。

 手首の傷。

 足の重さ。


 腹の奥が、空っぽを通り越して痛い。

 この身体が最後に何かを食べたのがいつなのか、珪には分からない。

 檻の中でも、まともに食べ物を与えられた記憶はない。

 記憶がないのだから、分かるはずもない。

 ただ、身体だけが限界を訴えていた。


 休んだら、もう立てなくなるかもしれない。


 そんな考えが頭をよぎる。

 珪は慌てて息を整えた。


 ミナがこちらを見ている。

 不安そうに。

 泣きそうに。

 自分よりずっと小さな女の子が、珪の顔色をうかがっている。


 何か話さないと。


 そう思った。


 黙っていると、ミナを不安にさせる。

 それに、珪自身も沈黙が怖かった。

 話していれば、少なくとも今はまだ自分たちが生きていると分かる。


「ミナ」


「なに?」


「この川、下れば町に出ると思うか」


 ミナは少し考えてから首を傾げた。


「分からない。でも、川の近くには人が住むって、お父さんが言ってた」


「お父さんは、何をしてたんだ」


「羊を飼ってた。あと、畑」


「羊か」


「うん。白くて、ふわふわしてる」


 ミナの声が、少しだけ柔らかくなった。


「春になると、子羊が生まれるの。すごく小さい。ミナが触ろうとすると、お母さん羊が怒る」


「噛むのか?」


「頭で押してくる」


 ミナは小さく両手を前に出した。


「どんって」


 その仕草が少しおかしくて、珪はほんの少しだけ口元を緩めた。

 ミナも、それを見て小さく笑った。


 笑える。

 まだ、この子は笑える。


 そう思った瞬間、胸の奥が痛くなった。

 ミナには村があった。

 家があった。

 父親がいて、母親がいて、羊がいて、春には子羊が生まれていた。

 白い花を踏んで怒られたり、羊に押されたり、そんな日常があった。


 それが全部、奪われた。


 珪は何か言おうとして、うまく言葉が出なかった。

 だから、別の質問をした。


「この辺りって、何か怖い獣とか出るのかな」


 できるだけ軽い声で聞いたつもりだった。


 ミナは膝を抱えたまま、少し考えた。


「狼の魔獣が出るよ」


「魔獣……」


 珪はその言葉を口の中で繰り返した。


 魔獣。


 普通なら、馬鹿らしいと笑っていたかもしれない。

 だが、今さら疑う方が馬鹿だった。


 断頭台で首を落とされた。

 死んだはずなのに、別の身体で目覚めた。

 昼なのに星が降る草原で、わけの分からない女に会った。

 狼の獣人の兵士も見た。

 あれを見ておいて、魔獣だけは存在しないと考える方が無理がある。


 そういえば。


 珪は、ぼんやりと断頭台の景色を思い出した。


 あの時は恐怖でほとんど何も見えていなかった。

 けれど、今になって思い返せば、処刑台の周りに集まっていた人々の中には、人間とは少し違う姿も混じっていた気がする。

 耳の長い者。

 顔に獣の毛が残る者。

 角のようなものを持つ者。


 あれは、エルフや獣人のような種族だったのかもしれない。


 異世界。


 その言葉が、今さら重みを持って胸に落ちた。


 ここは、自分のいた世界ではない。


 分かっていたはずなのに、改めてそう思うと、背筋が冷えた。


「普通の狼より大きいの」


 ミナの声で、珪は我に返った。


「灰色で、目が黄色い」


「見たことあるのか」


「ない。でも、村ではたまに、お父さんたちが狩りに行ってた」


「狩り?」


「羊さんたちが襲われちゃうから」


 ミナはそう言って、少しだけ目を伏せた。


「夜に鳴き声がすると、みんな家に入るの。お父さんは槍を持って外に出てた。お母さんは、窓を閉めて、星の女神さまにお願いしてた」


「その魔獣って、人も襲うのか」


 ミナは小さく頷いた。


「ひとりで森に入っちゃだめって言われてた。子供は、特に」


「……そうか」


 珪は森の奥を見た。


 見る。

 考える。


 そう決めていたはずだった。

 けれど、今の頭は鈍い。

 空腹で腹の奥が痛い。

 疲れでまぶたが重い。

 背中の火傷が、座っていてもじくじくと存在を主張してくる。

 その上、魔獣だの、獣人だの、エルフだの、今さら異世界らしい言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。


 だから、気づかなかった。


 川の音に紛れて、茂みの奥で草が擦れたことに。


「ケイ」


 ミナの声が、急に細くなった。


「何だ」


 珪は顔を向ける。

 ミナは答えなかった。


 ただ、珪の背後を見ていた。


 顔から、血の気が引いている。


 珪はゆっくりと振り返った。


 灰色の狼がいた。


 狼、というには大きい。

 痩せているのに、背が高い。

 肋骨が浮き、灰色の毛は泥のように汚れている。

 濁った黄色い目が、こちらを見ていた。


 口元から、黒っぽい涎が垂れている。


 一匹ではない。


 茂みの奥に、もう一つ。

 倒れた木の影に、もう一つ。

 川上側の木の間に、もう一つ。


 四匹。


 灰色の影が、音もなくこちらを囲んでいた。


「ミナ」


 珪は低く言った。


「ゆっくり立て」


 ミナは震えながら頷いた。

 だが、立とうとした瞬間、足が震えてうまく動かない。


 珪も同じだった。

 膝に力が入らない。

 疲れ切った身体が、今さら立つことを拒んでいる。


 それでも、立たなければ死ぬ。


 珪は木の幹に手をつき、歯を食いしばって立ち上がった。


 灰色の狼たちは、すぐには飛びかかってこなかった。

 じりじりと距離を詰めてくる。

 逃げ道を探るように。

 獲物がどちらへ動くかを待つように。


 森側は塞がれている。

 川上側にもいる。

 下流側へ走るには、足がもたない。

 ミナを連れて逃げ切れるわけがない。


 残っているのは、川だけだった。


 珪は横目で流れを見る。


 速い。

 深い。

 落ちたら戻れない。


 自分でミナに言った言葉が、頭の中に蘇る。


 だが、森側には灰色の影が四つ。

 戦う力はない。

 木の枝一本持っていない。

 たとえ持っていたとしても、勝てるわけがない。


 ここにいれば、食われる。

 川に入れば、流される。


 どちらも死ぬ。


 けれど、川の先には何かがあるかもしれない。

 岩にぶつかって死ぬかもしれない。

 水を飲んで死ぬかもしれない。

 それでも、流れ着いた先で助かる可能性が、ほんの少しだけあるかもしれない。


 魔獣の牙には、それすらない。


「ミナ」


 珪は低く言った。


「息、止めろ」


「え?」


「俺を離すな」


 ミナの目が見開かれる。


「ケイ、何を」


 答える時間はなかった。


 灰色の狼の一匹が、地面を蹴った。


 珪はミナの手を掴み、川へ飛び込んだ。


 冷たさが、全身を殴った。


 音が消える。

 息が止まる。

 上下が分からなくなる。


 流れが強すぎる。

 泳ぐどころではない。

 身体が木の葉みたいに回される。

 石にぶつかり、肺の中の空気が勝手に吐き出される。


 ミナの手が離れかけた。


 珪は反射的に掴み直す。


 離すな。

 離したら終わる。

 この手だけは、絶対に離すな。


 水面に顔が出た。

 珪は空気を吸おうとして、水を飲んだ。


「がっ……!」


 咳をする暇もなく、また流れに引きずり込まれる。


 ミナの身体が軽かった。


 さっきまで必死に握り返していた手から、力が抜けている。


 珪は目を見開いた。


 ミナの顔が水に沈みかけている。

 目を閉じていた。

 口元から泡が漏れている。


 気を失っている。


 その事実が、珪の頭を殴った。


 まずい。

 このままだと死ぬ。

 ミナが死ぬ。


 珪はミナの手ではなく、服を掴んだ。

 手は滑る。

 服なら、まだ掴める。


 片腕でミナの身体を抱え込むようにして、水面へ引き上げる。


「ミナ!」


 叫んだつもりだった。

 だが、声は水に潰れた。


 泳げ。


 珪は必死に足を動かした。


 泳げ。

 岸へ。

 岸へ行け。


 けれど、身体は思うように動かない。

 火傷した背中が引きつる。

 手首の傷が開く。

 足は重く、流れは強く、どちらが岸なのかさえ分からなくなる。


 それでも、珪はもがいた。


 泳ぐというより、溺れながら暴れているだけだった。

 それでも、何もしないよりはましだった。


 川は曲がっていた。

 流れに運ばれながら、視界の端に岸が見える。

 遠い。

 届かない。

 濡れた岩と、崩れた土の斜面ばかりだ。


 その先に、少しだけ開けた場所が見えた。


 川岸が低くなっている。

 泥の浅瀬。

 その奥に、踏み固められた道のようなものがある。


 道。


 人が通る場所。


 あそこだ。


 あそこへ行ければ。


 珪は流れに逆らうのをやめた。

 逆らえない。

 なら、流れを使うしかない。


 ミナの身体を自分の前に押し出す。

 片腕で抱え、もう片方の腕で水を掻く。

 水を掻いているのか、ただ暴れているのか、自分でも分からない。


 それでも、岸側へ。


 少しでも、岸側へ。


 ミナの足が浅瀬に触れた。


 珪は最後の力で、ミナの身体を押した。


 押す。


 もう一度、押す。


 ミナの身体が泥の浅瀬に乗り上げた。

 小さな身体が、ぐったりと横たわる。


 動かない。


 珪の喉が凍った。


 生きてるのか。

 息をしてるのか。


 確かめたい。

 岸へ上がりたい。

 ミナの顔を見たい。


 だが、次の瞬間、自分の足元が消えた。


 浅瀬のすぐ横で、流れが急に深くなっていた。

 身体が本流に引き戻される。


 珪は岸へ手を伸ばした。


 届かない。


 水が口に入る。

 肺が痛い。

 流れが身体をさらう。


 その時、別の声がした。


「おい! 子供だ!」


 男の声だった。


 珪は霞む視界で、道の方を見た。


 荷馬車。

 馬。

 車輪。

 人影。


 誰かが走ってくる。


「こっちにもいる! 浅瀬の方だ!」


 男たちがミナの方へ向かう。


 頼む。


 声にはならなかった。


 そいつを。

 その子を。


 助けてくれ。


 珪はまた沈みかけた。


 その瞬間、誰かが腕を掴んだ。


「こいつも生きてる! 引け!」


 強い力で引かれる。

 水面に顔が出る。

 空気が入る前に、咳と水が喉を詰まらせた。


「げほっ、がっ……!」


 複数の手が伸びてくる。

 服を掴まれる。

 腕を掴まれる。

 背中に触れられた瞬間、火傷が悲鳴を上げた。


「あああっ!」


「悪い、我慢しろ!」


 身体が川から引きずり上げられる。

 石の上を転がり、泥の上に倒れ込んだ。


 息ができない。

 咳が止まらない。

 口から川の水がこぼれる。

 喉が焼けるように痛む。


 それでも、珪は顔を上げようとした。


「ミ、ナ……」


 声は掠れて、ほとんど音にならなかった。


 少し離れたところで、誰かがミナを抱き起こしている。

 ぐったりした小さな身体。

 濡れた髪。

 青白い顔。


 男がミナの背を叩いた。


 ミナの身体が跳ねる。


 次の瞬間、ミナが水を吐いた。


「っ、げほっ……!」


 咳。


 小さな咳だった。


 けれど、確かに聞こえた。


 生きている。


 珪はそれを聞いた瞬間、全身から力が抜けた。


「……よ、かった」


 言葉になったかどうかも分からない。


 髭のある中年の男が、珪の顔を覗き込んだ。


「おい、寝るな。寝るなら荷台に乗ってからにしろ」


 誰だ。


 そう聞こうとした。


 だが、もう口が動かなかった。


 ミナが咳き込む音だけが、遠くで聞こえている。


 生きている。


 それだけ分かれば、もう限界だった。


 珪の意識は、そこで途切れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ