1章11話 救いの手
川沿いを歩き始めてから、どれくらい経ったのか分からなかった。
川の音は、ずっと隣にあった。
低く、重く、途切れない音。
初めは水を見失わないための目印だったはずなのに、今は耳の奥に張りついて、少しずつ頭をぼんやりさせていく。
道はない。
川辺に沿って、木の根を避け、濡れた石を踏まないように進むだけだ。
近づきすぎれば流される。
離れすぎれば森に飲まれる。
その中間を選んでいるつもりだった。
けれど、もう足が上がらなかった。
「ケイ?」
ミナが不安そうに名前を呼ぶ。
珪は返事をしようとして、足を前に出した。
その瞬間、膝から力が抜けた。
「っ……」
手をつく。
地面に膝が落ちる。
背中の火傷が引きつり、手首の傷がずきりと痛んだ。
「ケイ!」
ミナが慌てて駆け寄る。
「大丈夫」
反射的にそう言いかけて、珪は言葉を飲み込んだ。
大丈夫ではない。
全然、大丈夫ではなかった。
「……少し、休む」
やっとそれだけ言った。
ミナは何度も頷いた。
「うん。休もう。休んでいい」
まるで、珪に許可を出すみたいな言い方だった。
その声が少し震えていて、珪は余計に申し訳なくなる。
川から少し離れた木の根元に、二人は座った。
座った瞬間、緊張で無理やり押さえ込んでいたものが、一気に襲ってきた。
空腹。
疲労。
喉の痛み。
背中の熱。
手首の傷。
足の重さ。
腹の奥が、空っぽを通り越して痛い。
この身体が最後に何かを食べたのがいつなのか、珪には分からない。
檻の中でも、まともに食べ物を与えられた記憶はない。
記憶がないのだから、分かるはずもない。
ただ、身体だけが限界を訴えていた。
休んだら、もう立てなくなるかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
珪は慌てて息を整えた。
ミナがこちらを見ている。
不安そうに。
泣きそうに。
自分よりずっと小さな女の子が、珪の顔色をうかがっている。
何か話さないと。
そう思った。
黙っていると、ミナを不安にさせる。
それに、珪自身も沈黙が怖かった。
話していれば、少なくとも今はまだ自分たちが生きていると分かる。
「ミナ」
「なに?」
「この川、下れば町に出ると思うか」
ミナは少し考えてから首を傾げた。
「分からない。でも、川の近くには人が住むって、お父さんが言ってた」
「お父さんは、何をしてたんだ」
「羊を飼ってた。あと、畑」
「羊か」
「うん。白くて、ふわふわしてる」
ミナの声が、少しだけ柔らかくなった。
「春になると、子羊が生まれるの。すごく小さい。ミナが触ろうとすると、お母さん羊が怒る」
「噛むのか?」
「頭で押してくる」
ミナは小さく両手を前に出した。
「どんって」
その仕草が少しおかしくて、珪はほんの少しだけ口元を緩めた。
ミナも、それを見て小さく笑った。
笑える。
まだ、この子は笑える。
そう思った瞬間、胸の奥が痛くなった。
ミナには村があった。
家があった。
父親がいて、母親がいて、羊がいて、春には子羊が生まれていた。
白い花を踏んで怒られたり、羊に押されたり、そんな日常があった。
それが全部、奪われた。
珪は何か言おうとして、うまく言葉が出なかった。
だから、別の質問をした。
「この辺りって、何か怖い獣とか出るのかな」
できるだけ軽い声で聞いたつもりだった。
ミナは膝を抱えたまま、少し考えた。
「狼の魔獣が出るよ」
「魔獣……」
珪はその言葉を口の中で繰り返した。
魔獣。
普通なら、馬鹿らしいと笑っていたかもしれない。
だが、今さら疑う方が馬鹿だった。
断頭台で首を落とされた。
死んだはずなのに、別の身体で目覚めた。
昼なのに星が降る草原で、わけの分からない女に会った。
狼の獣人の兵士も見た。
あれを見ておいて、魔獣だけは存在しないと考える方が無理がある。
そういえば。
珪は、ぼんやりと断頭台の景色を思い出した。
あの時は恐怖でほとんど何も見えていなかった。
けれど、今になって思い返せば、処刑台の周りに集まっていた人々の中には、人間とは少し違う姿も混じっていた気がする。
耳の長い者。
顔に獣の毛が残る者。
角のようなものを持つ者。
あれは、エルフや獣人のような種族だったのかもしれない。
異世界。
その言葉が、今さら重みを持って胸に落ちた。
ここは、自分のいた世界ではない。
分かっていたはずなのに、改めてそう思うと、背筋が冷えた。
「普通の狼より大きいの」
ミナの声で、珪は我に返った。
「灰色で、目が黄色い」
「見たことあるのか」
「ない。でも、村ではたまに、お父さんたちが狩りに行ってた」
「狩り?」
「羊さんたちが襲われちゃうから」
ミナはそう言って、少しだけ目を伏せた。
「夜に鳴き声がすると、みんな家に入るの。お父さんは槍を持って外に出てた。お母さんは、窓を閉めて、星の女神さまにお願いしてた」
「その魔獣って、人も襲うのか」
ミナは小さく頷いた。
「ひとりで森に入っちゃだめって言われてた。子供は、特に」
「……そうか」
珪は森の奥を見た。
見る。
考える。
そう決めていたはずだった。
けれど、今の頭は鈍い。
空腹で腹の奥が痛い。
疲れでまぶたが重い。
背中の火傷が、座っていてもじくじくと存在を主張してくる。
その上、魔獣だの、獣人だの、エルフだの、今さら異世界らしい言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。
だから、気づかなかった。
川の音に紛れて、茂みの奥で草が擦れたことに。
「ケイ」
ミナの声が、急に細くなった。
「何だ」
珪は顔を向ける。
ミナは答えなかった。
ただ、珪の背後を見ていた。
顔から、血の気が引いている。
珪はゆっくりと振り返った。
灰色の狼がいた。
狼、というには大きい。
痩せているのに、背が高い。
肋骨が浮き、灰色の毛は泥のように汚れている。
濁った黄色い目が、こちらを見ていた。
口元から、黒っぽい涎が垂れている。
一匹ではない。
茂みの奥に、もう一つ。
倒れた木の影に、もう一つ。
川上側の木の間に、もう一つ。
四匹。
灰色の影が、音もなくこちらを囲んでいた。
「ミナ」
珪は低く言った。
「ゆっくり立て」
ミナは震えながら頷いた。
だが、立とうとした瞬間、足が震えてうまく動かない。
珪も同じだった。
膝に力が入らない。
疲れ切った身体が、今さら立つことを拒んでいる。
それでも、立たなければ死ぬ。
珪は木の幹に手をつき、歯を食いしばって立ち上がった。
灰色の狼たちは、すぐには飛びかかってこなかった。
じりじりと距離を詰めてくる。
逃げ道を探るように。
獲物がどちらへ動くかを待つように。
森側は塞がれている。
川上側にもいる。
下流側へ走るには、足がもたない。
ミナを連れて逃げ切れるわけがない。
残っているのは、川だけだった。
珪は横目で流れを見る。
速い。
深い。
落ちたら戻れない。
自分でミナに言った言葉が、頭の中に蘇る。
だが、森側には灰色の影が四つ。
戦う力はない。
木の枝一本持っていない。
たとえ持っていたとしても、勝てるわけがない。
ここにいれば、食われる。
川に入れば、流される。
どちらも死ぬ。
けれど、川の先には何かがあるかもしれない。
岩にぶつかって死ぬかもしれない。
水を飲んで死ぬかもしれない。
それでも、流れ着いた先で助かる可能性が、ほんの少しだけあるかもしれない。
魔獣の牙には、それすらない。
「ミナ」
珪は低く言った。
「息、止めろ」
「え?」
「俺を離すな」
ミナの目が見開かれる。
「ケイ、何を」
答える時間はなかった。
灰色の狼の一匹が、地面を蹴った。
珪はミナの手を掴み、川へ飛び込んだ。
冷たさが、全身を殴った。
音が消える。
息が止まる。
上下が分からなくなる。
流れが強すぎる。
泳ぐどころではない。
身体が木の葉みたいに回される。
石にぶつかり、肺の中の空気が勝手に吐き出される。
ミナの手が離れかけた。
珪は反射的に掴み直す。
離すな。
離したら終わる。
この手だけは、絶対に離すな。
水面に顔が出た。
珪は空気を吸おうとして、水を飲んだ。
「がっ……!」
咳をする暇もなく、また流れに引きずり込まれる。
ミナの身体が軽かった。
さっきまで必死に握り返していた手から、力が抜けている。
珪は目を見開いた。
ミナの顔が水に沈みかけている。
目を閉じていた。
口元から泡が漏れている。
気を失っている。
その事実が、珪の頭を殴った。
まずい。
このままだと死ぬ。
ミナが死ぬ。
珪はミナの手ではなく、服を掴んだ。
手は滑る。
服なら、まだ掴める。
片腕でミナの身体を抱え込むようにして、水面へ引き上げる。
「ミナ!」
叫んだつもりだった。
だが、声は水に潰れた。
泳げ。
珪は必死に足を動かした。
泳げ。
岸へ。
岸へ行け。
けれど、身体は思うように動かない。
火傷した背中が引きつる。
手首の傷が開く。
足は重く、流れは強く、どちらが岸なのかさえ分からなくなる。
それでも、珪はもがいた。
泳ぐというより、溺れながら暴れているだけだった。
それでも、何もしないよりはましだった。
川は曲がっていた。
流れに運ばれながら、視界の端に岸が見える。
遠い。
届かない。
濡れた岩と、崩れた土の斜面ばかりだ。
その先に、少しだけ開けた場所が見えた。
川岸が低くなっている。
泥の浅瀬。
その奥に、踏み固められた道のようなものがある。
道。
人が通る場所。
あそこだ。
あそこへ行ければ。
珪は流れに逆らうのをやめた。
逆らえない。
なら、流れを使うしかない。
ミナの身体を自分の前に押し出す。
片腕で抱え、もう片方の腕で水を掻く。
水を掻いているのか、ただ暴れているのか、自分でも分からない。
それでも、岸側へ。
少しでも、岸側へ。
ミナの足が浅瀬に触れた。
珪は最後の力で、ミナの身体を押した。
押す。
もう一度、押す。
ミナの身体が泥の浅瀬に乗り上げた。
小さな身体が、ぐったりと横たわる。
動かない。
珪の喉が凍った。
生きてるのか。
息をしてるのか。
確かめたい。
岸へ上がりたい。
ミナの顔を見たい。
だが、次の瞬間、自分の足元が消えた。
浅瀬のすぐ横で、流れが急に深くなっていた。
身体が本流に引き戻される。
珪は岸へ手を伸ばした。
届かない。
水が口に入る。
肺が痛い。
流れが身体をさらう。
その時、別の声がした。
「おい! 子供だ!」
男の声だった。
珪は霞む視界で、道の方を見た。
荷馬車。
馬。
車輪。
人影。
誰かが走ってくる。
「こっちにもいる! 浅瀬の方だ!」
男たちがミナの方へ向かう。
頼む。
声にはならなかった。
そいつを。
その子を。
助けてくれ。
珪はまた沈みかけた。
その瞬間、誰かが腕を掴んだ。
「こいつも生きてる! 引け!」
強い力で引かれる。
水面に顔が出る。
空気が入る前に、咳と水が喉を詰まらせた。
「げほっ、がっ……!」
複数の手が伸びてくる。
服を掴まれる。
腕を掴まれる。
背中に触れられた瞬間、火傷が悲鳴を上げた。
「あああっ!」
「悪い、我慢しろ!」
身体が川から引きずり上げられる。
石の上を転がり、泥の上に倒れ込んだ。
息ができない。
咳が止まらない。
口から川の水がこぼれる。
喉が焼けるように痛む。
それでも、珪は顔を上げようとした。
「ミ、ナ……」
声は掠れて、ほとんど音にならなかった。
少し離れたところで、誰かがミナを抱き起こしている。
ぐったりした小さな身体。
濡れた髪。
青白い顔。
男がミナの背を叩いた。
ミナの身体が跳ねる。
次の瞬間、ミナが水を吐いた。
「っ、げほっ……!」
咳。
小さな咳だった。
けれど、確かに聞こえた。
生きている。
珪はそれを聞いた瞬間、全身から力が抜けた。
「……よ、かった」
言葉になったかどうかも分からない。
髭のある中年の男が、珪の顔を覗き込んだ。
「おい、寝るな。寝るなら荷台に乗ってからにしろ」
誰だ。
そう聞こうとした。
だが、もう口が動かなかった。
ミナが咳き込む音だけが、遠くで聞こえている。
生きている。
それだけ分かれば、もう限界だった。
珪の意識は、そこで途切れた。




