第2話 戻れない踏切
第2話では、高校時代の恋が少しずつ終わっていく記憶と、十年後の主人公の現在が描かれます。
あの頃に戻りたいわけではない。
けれど、夕焼けを見るたびに胸がざわつく。
彼のことを思い出しているようで、本当は「あの頃の自分」に会いたかったのかもしれない。
そんな気づきに近づいていくお話です。
別れは、思っていたより静かに来た。
高校を卒業したら、彼は県外の大学へ行くことになっていた。
私は地元の短大へ進学が決まっていた。
遠距離になる、という言い方はできたけれど、ほんとうはその時点で、二人の時間の流れ方が変わってしまうことを、どちらも何となくわかっていた。
卒業式の少し前、踏切が閉まるのを待ちながら、私は聞いた。
「離れても、うまくいくかな」
彼はすぐには答えなかった。
赤いランプが点滅して、警報音がやけに近く聞こえる。
通過電車の風で、彼の前髪が少しだけ揺れた。
「うまくいく人もいると思う」
「私たちは?」
その問いに、彼は困ったように笑った。
それで十分だった。
ああ、もう終わるんだ、と思った。
いや、本当はそこで終わったわけじゃない。
卒業して、少し連絡を取り合って、返事が遅くなって、会えないまま季節が変わって、自然にほどけるみたいに終わったのだと思う。
けれど私の中では、あの困ったような笑顔を見た瞬間に、もう帰れない場所になった。
泣いた記憶はない。
泣けるほど劇的な恋ではなかったのかもしれないし、十代の私には、別れを大げさに悲しむより、平気な顔をしていたい意地の方が強かったのかもしれない。
それでもしばらくは、踏切の音を聞くたびに胸がつまった。
あの人に会いたい、というより、あの時間がまだ続いている町に戻りたい気持ちの方が強かった。
*
歩道橋の上で、私は現実に引き戻される。
電車が通り過ぎていく。
窓に夕焼けが映り、光の帯みたいに流れていく。
遮断機が上がると、車も人も何事もなかったように動き出した。
スマホが震えた。
会社のグループチャットに、明日の確認事項が流れてくる。
私は通知だけ見て、画面を伏せた。
二十八歳。
高校生だったあのころから、ほぼ十年だ。
十年、と言うと短い気もするし、長い気もする。
地元の信用金庫に就職して三年勤めて辞め、今は不動産会社の事務をしている。
人並みに働いて、人並みに疲れて、人並みに休日を待って暮らしている。
取り立てて不幸ではないし、毎日が耐えられないほどつらいわけでもない。
けれど、ときどき、自分がどこへ向かっているのかわからなくなる。
仕事をこなして、帰って、ごはんを食べて、眠る。
週末が来れば少し息をついて、また月曜日が来る。
生活はちゃんと回っているのに、自分の人生を自分で進めている感覚だけが薄い。
選んできたつもりの道も、振り返ると、ただそのとき選びやすかった方へ流されてきただけに見える日がある。
何か大きく間違えたわけではない。
むしろ周りから見れば、それなりにちゃんとしている方なのだと思う。
遅刻も少ないし、頼まれたことはやるし、部屋だってひどく散らかってはいない。
だからこそ、自分の中の曖昧さを、うまく説明できない。
何も問題がないことと、満たされていることは、同じではなかった。
高校生のころ思い描いていた“大人”は、もっと輪郭のはっきりしたものだった。
迷わないと思っていたわけじゃない。
でも、迷ったとしても、もっときれいに選び取って、きちんと自分の人生を進んでいけると思っていた。
現実の私は、そんなに器用じゃない。
うまくやれている人の顔を見て、自分だけがまだ入り口に立ったままのような気持ちになることもある。
この十年で私は、母の見ていた景色に少し近づいた。
子どものころ、母は何でも知っていて、迷いなんてない人に見えていた。
けれど、いまの年齢になってようやくわかる。
あの人もたぶん、答えを知っていたわけじゃない。
ただ、朝になれば起きて、目の前のことを片づけて、疲れても次の日を始めていただけなのだ。
大人になるって、完成することじゃなかったのだと知る。
迷わなくなることじゃなく、迷ったままでも朝を迎えることだったのかもしれない。
歩道橋を下りた私は、そのまま駅には向かわず、反対方向へ歩き出した。
夕焼けに引っぱられるみたいに、昔の家があった方へ足が向く。
実家はもうない。
母は数年前、祖母の近くへ引っ越した。
私は駅前の小さなマンションで一人暮らしをしている。
それでも、この町のどこかには、まだ高校生だった私が置き去りのまま残っている気がして、たまに確かめに行きたくなる。
文房具店は閉まっていた。
よく立ち読みした書店は、二年前にカフェになった。
公園のブランコは新しくなっていて、錆びた鉄のにおいはしなくなっていた。
変わったものばかり目につくのに、踏切の音だけは昔と同じだった。
警報音が鳴る。
遮断機が下りる。
私は足を止め、白線の手前で待つ。
隣には買い物帰りらしい老夫婦、その向こうに、自転車をまたいだ高校生。
制服の裾が風で揺れるのを見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。
もう彼に会いたいわけじゃないのだと思う。
そのことは、ずっと前から知っていたのかもしれない。
会えたところで、あのころの二人には戻れない。
もし偶然再会しても、きっと当たり障りのない会話をして、少し気まずく笑って終わるだけだ。
思い出は、会いに行くためのものじゃない。
それでも、ときどき苦しくなるのは、彼のことを思い出しているようで、ほんとうは彼の隣にいたころの自分を思い出しているからなのだと思う。
夕焼けの中で、世界が今よりずっと大きく見えていた自分。
何者でもなかったくせに、何かになれるかもしれないと、完全には諦めていなかった自分。
帰り道を並んで走るだけで、一日がちゃんと終わった気がしていた自分。
あの自分は、もういない。
たぶん二度と戻らない。
だからこそ、彼の記憶の中に、あの季節ごと閉じ込められている気がするのだ。
遮断機が上がる。
人の流れが動き出す。
けれど私は、すぐには足を踏み出せなかった。
このまま帰ったら、また何もなかったふりをしてしまう。
夕焼けに呼び戻されたものを、また胸の奥に押し込めてしまう。
それでいいのだと思ってきた。
でも、今夜だけは。
今夜だけは、あのころの自分に、ちゃんと会いに行かなければいけない気がした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第2話では、かつての恋が「戻れない季節」になっていく過程と、現在の主人公が抱えている曖昧な寂しさを書きました。
昔の恋を思い出すとき、本当に恋しいのは相手だけではなく、その頃の自分自身なのかもしれません。
次話は最終話です。
主人公はしまっていた写真を取り出し、夕焼けに呼び戻された記憶と向き合います。




