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夕焼けを見るたび、あの頃の自分に会いたくなる  作者: ちょこまろ


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3/3

最終話 あの頃の私は、ここまで来ていた

最終話です。


夕焼けに呼び戻された記憶と向き合うため、主人公はしまっていた写真を取り出します。


戻れない季節。

捨てられない思い出。

そして、あの頃の自分。


過去を忘れるのではなく、なくさないまま少し前へ進む最終話です。

 マンションへ戻るころには、空はすっかり群青色になっていた。


 部屋の灯りをつけても、どこか落ち着かなかった。


 私はコートも脱がずにソファへ腰を下ろし、そのまましばらく動けなかった。


 思い出す必要なんてないと思っていた。


 もう十分昔のことだし、今さら振り返ったところで何も変わらない。


 そうやって見ないふりをしてきたものが、夕焼けひとつで簡単にほどけてしまう自分が、少し情けなかった。


 それでも、今日は逃げずに見てみようと思った。


 クローゼットの下にしまってあった収納ケースを引っぱり出す。


 保証書、古い手帳、学生時代のノート、引っ越しのたびに捨てそびれた文庫本。


 そんな“なくても困らないのに捨てられないもの”のいちばん下に、薄い封筒が入っていた。


 指先だけで、それとわかった。


 封を開けると、写真が数枚、膝の上に滑り落ちる。


 夏祭り。


 文化祭のあと。


 河川敷。


 制服姿のままコンビニの前で笑っているものまである。


 どの写真の中にも、今より少し丸い顔をした私がいた。


 笑い方が無防備で、肩の力が抜けていて、こちらを見ているのに、まだ世界の方を強く信じている目をしている。


 彼の顔を見ているうちに、胸が痛くなるだろうと思っていた。


 でも実際に苦しかったのは、その隣にいる自分の方だった。


 こんな顔で笑っていたんだ、と私は思う。


 こんなふうに、何も決まっていないことを怖がりきらずにいられたんだ、と。


 写真の中の私は、今の私が思っているより、ずっと無防備だった。


 傷つくことを知らないわけじゃないのに、それでも明日の方を向いて笑っていた。


 そんなふうに笑える時期が、自分にもたしかにあったのだと思うと、胸の奥で何かが静かにほどけた。


 あのころの私は、未熟で、頼りなくて、思い込みも激しかっただろう。


 今の自分から見れば、危なっかしいところばかりだったはずだ。


 それでも、嫌いになれなかった。


 むしろ、少しだけ守りたいと思った。


 うまく大人になれなかった今の自分が、せめてあのころの自分まで否定してしまったら、本当に何も残らない気がした。


 忘れられなかったのは恋そのものではなく、あのころの私の輪郭だったのかもしれない。


 私は写真を一枚ずつ揃えて、元の封筒へ戻した。


 捨てることはできなかった。


 でも、すぐ手の届くところに置いておくのも違う気がした。


 本棚の上に、小さな木箱がある。


 昔、雑貨屋で買ったもので、封も切っていない手紙や、使えなくなった鍵や、旅先で拾った小さな貝殻なんかを入れている箱だ。


 誰に見せるわけでもない、でもなくしたくはないものだけが入っている。


 私はその中に封筒を入れた。


 忘れるためではなかった。


 毎日、触れなくていいようにするためだと思った。


 なくさないまま、しまっておく。


 手放すのでも、抱え続けるのでもない、その間の場所があってもいいのだと、ようやく思えた。


 箱のふたを閉めると、不思議なくらい部屋が静かになった。



     *



 翌朝、私はいつもより少し早く目が覚めた。


 カーテンの隙間から入ってくる光が、昨日の夕焼けのつづきみたいに見えた。


 顔を洗って、コーヒーを飲んで、いつもより十分早く家を出る。


 空はまだ淡い青だった。


 通勤途中、私は少しだけ遠回りをして、昨日の踏切へ向かった。


 朝の踏切は、夕方とは別の場所みたいに見える。


 感傷の入り込む隙なんてない顔で、ただ時間どおりに開いて、閉じて、電車を通していく。


 それでも、私は白線の手前で足を止めた。


 警報音が鳴り、遮断機が下りる。


 前には自転車の高校生、後ろにはスーツ姿の男の人。


 どこにでもある平日の朝だ。


 昨日みたいに胸が波立つわけではない。


 ただ、ここに立っている自分を、少しだけ静かに見ていられた。


 十年。


 たった十年で、何もかも変わったとも言えるし、まだこれしか経っていないとも言える。


 あのころ思い描いていた大人には、なれていない。


 自分にとって何がいちばん大事なのか、まだうまく言葉にできない。


 これから先の十年で、それがはっきりする保証もない。


 それでも昨夜、私は一つだけ拾い直した気がした。


 もう戻れない季節のことを、無理に忘れなくていいということ。


 彼のことも、その隣で笑っていた自分のことも、なかったことにしなくていいということ。


 警報音が止んだ。


 電車が通り過ぎ、遮断機がゆっくりと上がっていく。


 向こう側で待っていた人たちが、何事もなかったように歩き出す。


 学生服の裾、自転車の車輪、買い物袋の揺れ。


 朝は、誰かの迷いを待たずに進んでいく。


 昨夜、本棚の上の木箱にしまった封筒のことを思う。


 なくしたわけじゃない。


 もう、毎日取り出さなくていいだけだ。


 私は小さく息をついて、足を踏み出した。


 白線を越える。


 線路を渡る。


 踏切の向こう側には、いつもと変わらない朝があった。


 それでも今日は、そのありふれた光の中へ、少しだけまっすぐ入っていける気がした。


 あのころの私は、ちゃんとここまで来ていた。


 遠回りをしても、迷いながらでも、今日の朝まで。


 夕焼けを見るたび、きっとまた思い出す。


 彼のことを。


 あのころの町を。


 そして、世界の方をまだ強く信じていた、昔の私を。


 でももう、それは戻りたいという痛みだけではなかった。


 ここまで歩いてきた自分を、少しだけ確かめるための光だった。


― 完 ―

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


この物語は、昔の恋そのものよりも、夕焼けを見るたびに思い出してしまう「あの頃の自分」を描いたお話でした。


過去に戻ることはできません。

けれど、あの頃の自分を否定せず、なくさないまま、今の場所からまた歩き出すことはできるのかもしれません。


主人公が踏切を渡った朝の光が、読んでくださった方の心にも、少しだけ残っていたら嬉しいです。

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