最終話 あの頃の私は、ここまで来ていた
最終話です。
夕焼けに呼び戻された記憶と向き合うため、主人公はしまっていた写真を取り出します。
戻れない季節。
捨てられない思い出。
そして、あの頃の自分。
過去を忘れるのではなく、なくさないまま少し前へ進む最終話です。
マンションへ戻るころには、空はすっかり群青色になっていた。
部屋の灯りをつけても、どこか落ち着かなかった。
私はコートも脱がずにソファへ腰を下ろし、そのまましばらく動けなかった。
思い出す必要なんてないと思っていた。
もう十分昔のことだし、今さら振り返ったところで何も変わらない。
そうやって見ないふりをしてきたものが、夕焼けひとつで簡単にほどけてしまう自分が、少し情けなかった。
それでも、今日は逃げずに見てみようと思った。
クローゼットの下にしまってあった収納ケースを引っぱり出す。
保証書、古い手帳、学生時代のノート、引っ越しのたびに捨てそびれた文庫本。
そんな“なくても困らないのに捨てられないもの”のいちばん下に、薄い封筒が入っていた。
指先だけで、それとわかった。
封を開けると、写真が数枚、膝の上に滑り落ちる。
夏祭り。
文化祭のあと。
河川敷。
制服姿のままコンビニの前で笑っているものまである。
どの写真の中にも、今より少し丸い顔をした私がいた。
笑い方が無防備で、肩の力が抜けていて、こちらを見ているのに、まだ世界の方を強く信じている目をしている。
彼の顔を見ているうちに、胸が痛くなるだろうと思っていた。
でも実際に苦しかったのは、その隣にいる自分の方だった。
こんな顔で笑っていたんだ、と私は思う。
こんなふうに、何も決まっていないことを怖がりきらずにいられたんだ、と。
写真の中の私は、今の私が思っているより、ずっと無防備だった。
傷つくことを知らないわけじゃないのに、それでも明日の方を向いて笑っていた。
そんなふうに笑える時期が、自分にもたしかにあったのだと思うと、胸の奥で何かが静かにほどけた。
あのころの私は、未熟で、頼りなくて、思い込みも激しかっただろう。
今の自分から見れば、危なっかしいところばかりだったはずだ。
それでも、嫌いになれなかった。
むしろ、少しだけ守りたいと思った。
うまく大人になれなかった今の自分が、せめてあのころの自分まで否定してしまったら、本当に何も残らない気がした。
忘れられなかったのは恋そのものではなく、あのころの私の輪郭だったのかもしれない。
私は写真を一枚ずつ揃えて、元の封筒へ戻した。
捨てることはできなかった。
でも、すぐ手の届くところに置いておくのも違う気がした。
本棚の上に、小さな木箱がある。
昔、雑貨屋で買ったもので、封も切っていない手紙や、使えなくなった鍵や、旅先で拾った小さな貝殻なんかを入れている箱だ。
誰に見せるわけでもない、でもなくしたくはないものだけが入っている。
私はその中に封筒を入れた。
忘れるためではなかった。
毎日、触れなくていいようにするためだと思った。
なくさないまま、しまっておく。
手放すのでも、抱え続けるのでもない、その間の場所があってもいいのだと、ようやく思えた。
箱のふたを閉めると、不思議なくらい部屋が静かになった。
*
翌朝、私はいつもより少し早く目が覚めた。
カーテンの隙間から入ってくる光が、昨日の夕焼けのつづきみたいに見えた。
顔を洗って、コーヒーを飲んで、いつもより十分早く家を出る。
空はまだ淡い青だった。
通勤途中、私は少しだけ遠回りをして、昨日の踏切へ向かった。
朝の踏切は、夕方とは別の場所みたいに見える。
感傷の入り込む隙なんてない顔で、ただ時間どおりに開いて、閉じて、電車を通していく。
それでも、私は白線の手前で足を止めた。
警報音が鳴り、遮断機が下りる。
前には自転車の高校生、後ろにはスーツ姿の男の人。
どこにでもある平日の朝だ。
昨日みたいに胸が波立つわけではない。
ただ、ここに立っている自分を、少しだけ静かに見ていられた。
十年。
たった十年で、何もかも変わったとも言えるし、まだこれしか経っていないとも言える。
あのころ思い描いていた大人には、なれていない。
自分にとって何がいちばん大事なのか、まだうまく言葉にできない。
これから先の十年で、それがはっきりする保証もない。
それでも昨夜、私は一つだけ拾い直した気がした。
もう戻れない季節のことを、無理に忘れなくていいということ。
彼のことも、その隣で笑っていた自分のことも、なかったことにしなくていいということ。
警報音が止んだ。
電車が通り過ぎ、遮断機がゆっくりと上がっていく。
向こう側で待っていた人たちが、何事もなかったように歩き出す。
学生服の裾、自転車の車輪、買い物袋の揺れ。
朝は、誰かの迷いを待たずに進んでいく。
昨夜、本棚の上の木箱にしまった封筒のことを思う。
なくしたわけじゃない。
もう、毎日取り出さなくていいだけだ。
私は小さく息をついて、足を踏み出した。
白線を越える。
線路を渡る。
踏切の向こう側には、いつもと変わらない朝があった。
それでも今日は、そのありふれた光の中へ、少しだけまっすぐ入っていける気がした。
あのころの私は、ちゃんとここまで来ていた。
遠回りをしても、迷いながらでも、今日の朝まで。
夕焼けを見るたび、きっとまた思い出す。
彼のことを。
あのころの町を。
そして、世界の方をまだ強く信じていた、昔の私を。
でももう、それは戻りたいという痛みだけではなかった。
ここまで歩いてきた自分を、少しだけ確かめるための光だった。
― 完 ―
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語は、昔の恋そのものよりも、夕焼けを見るたびに思い出してしまう「あの頃の自分」を描いたお話でした。
過去に戻ることはできません。
けれど、あの頃の自分を否定せず、なくさないまま、今の場所からまた歩き出すことはできるのかもしれません。
主人公が踏切を渡った朝の光が、読んでくださった方の心にも、少しだけ残っていたら嬉しいです。




