第1話 夕焼けの向こうにいた私
夕焼けを見るたびに、思い出してしまう人がいる。
でも本当は、その人だけではなく、あの頃の自分ごと胸の奥に戻ってくる。
第1話は、現在の主人公が夕焼けをきっかけに、高校時代の帰り道と、まだ未来を信じていた頃の自分を思い出すお話です。
ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。
夕焼けを見ると、たいてい一人のことを思い出す。
けれど本当は、その人だけじゃない。
あのころの私ごと、まとめて胸の奥から戻ってきてしまうのだ。
空一面に夕焼けが広がっていた。
駅前の雑居ビルを出た瞬間、私は思わず立ち止まった。
西の空が、今日だけ別の町のものみたいに見えた。
橙と茜のあいだに、溶けきらない薄紫がにじんでいる。
見慣れた交差点も、ドラッグストアの看板も、駅へ急ぐ人の背中も、その色にいっとき染められて、少しだけ遠いものになっていた。
こんなふうに空を見上げたのは、いつ以来だろう。
信号が変わる。
人の流れがいっせいに動き出す。
スーツ姿の会社員、買い物帰りの親子、制服のまま笑い合っている高校生。
みんなそれぞれの帰る場所へ向かっているのに、私だけが時間の外側に取り残されたみたいだった。
夕焼けを見ると、ときどき胸の奥がざわつく。
誰か一人を思い出す、というより、その色の中に置いてきたものが一度に戻ってくる感じだ。
もう着られない制服の重さとか、駅前の小さな書店のにおいとか、放課後の踏切の警報音とか。
名前をつける前に終わってしまった気持ちまで、夕焼けに引っぱられて浮かび上がってくる。
私は人波から少し外れて、歩道橋の上へ上がった。
町を横切る線路が見える。
ちょうど向こうの踏切が閉まり、遮断機が下りていくところだった。
赤いランプの点滅の向こうで、住宅街の屋根が夕日に照らされている。
逆光のせいで、景色の輪郭がやわらかくぼやけて見えた。
ああ、と胸の中で小さく息が漏れた。
この眺めを、私は知っている。
十年前、毎日のように見ていた景色だった。
*
高校二年の秋から三年の終わりまで、私は放課後になると、あの踏切の前を通った。
彼と待ち合わせをしていたからだ。
先に着くのは、だいたい彼の方だった。
自転車にまたがって、片足を地面につけたまま、ぼんやり線路の向こうを見ている。
私を見つけると、軽く手を上げる。
その何でもなさそうな仕草が、当時の私には特別だった。
「今日、遅かったね」
「進路の紙、まだ出してないだろって呼ばれたの」
「また?」
「また」
「優等生っぽい顔してるのに」
「っぽいって何」
そんな会話をしながら、私たちは踏切が開くのを待った。
遮断機が上がると、並んで自転車を押して渡る。
その先のゆるい坂道に出たら、それぞれまたサドルにまたがって、住宅街の道を並んで帰る。
風の強い日には声が届きにくくて、少し大きな声で話した。
特に意味のないことばかりだった。
古文の小テストが難しかったとか、駅前のパン屋の新作がいまいちだったとか、卒業したら髪を染めるかどうかとか。
たまに、帰り道の途中でコンビニに寄った。
肉まんを半分に割って食べたこともあるし、冬限定のチョコ菓子をどっちが先に見つけるかみたいな、どうでもいい競争をしたこともある。
そういう時間は、あとから思い出すと何の事件も起きていないのに、不思議なくらいきらきらしている。
たぶん私は、特別なことが起きた日より、何も起きなかった日の方を大事に覚えている。
あのころは、町が今よりずっと広かった。
駅前のショッピングモールは都会の入口に見えたし、河川敷はどこまでも続く世界の端みたいだった。
地元のくせに、見慣れた道の全部が、これから始まる何かにつながっている気がしていた。
未来は、まだ閉じていなかった。
「大人になったら、どうなってると思う?」
冬のはじめ、冷たい風の中で、彼が前を向いたまま言った。
「急だね」
「最近、よく聞かれるから」
「先生とか親とか、そういうやつ?」
「そういうやつ」
私はマフラーを鼻先まで引き上げて、少し考えた。
「ちゃんとした人になってたい」
「ちゃんとした人、便利な言葉だな」
「便利じゃないよ。ちゃんとって難しいし」
「たとえば?」
「自分で決めた場所で働いてて、自分のことは自分で何とかできて、毎日を嫌々やってる感じじゃない人」
「厳しいなあ」
「そっちは」
「俺? 俺は……まあ、普通に生きてたい」
「普通って何」
「難しいな。なんか、朝起きるのが嫌じゃない感じ」
彼はそう言って笑った。
私もつられて笑った。
たぶん、その会話の内容より、言い終わったあとに二人で同じ方向を見たことの方を覚えている。
踏切の向こうに続く道。
夕方の空。
家々の窓に灯りがつき始める時間。
あのころの私は、そんな何でもない景色の中に、自分の未来も混ざっていると思っていた。
何にでもなれる気がしていた、というほど強くはなかったかもしれない。
でも、何にもなれないとは思っていなかった。
そういう年齢だった。
彼のことは、今振り返ると、思い出の中心にいるわりに細部が曖昧だ。
髪が少し硬そうだったこと、笑うと目が細くなったこと、自転車の鍵に青いキーホルダーをつけていたこと。
そういう小さなことばかり覚えている。
たぶん私は、彼そのものだけを好きだったわけではない。
彼と一緒にいるときの、あの時間の流れ方が好きだった。
駅前が少しだけ特別に見える感じとか、並んで帰るだけで一日がきれいに終わる気がすることとか、自分の中の頼りない部分まで、夕方の光に溶けてしまう感じとか。
彼の隣にいる自分ごと、私はあの季節を好きだったのだと思う。
だから、残っている写真も、彼を見たいからではなく、そのころの空気を確かめたくて捨てられなかったのかもしれない。
夏祭りの夜に撮った一枚がある。
提灯の明かりの下で、私たちは並んで笑っていた。
私は前髪が湿気で少しうねっていて、彼は浴衣の襟元を気にしている途中みたいな顔をしていた。
背景には屋台の光と人混みがぼやけて映っている。
画面の真ん中だけがやけに明るい。
あとから見返すと、その笑顔が少しまぶしすぎる。
幸福だったのだと思う。
その最中には、たぶん気づいていなかったけれど。
そしてその幸福が、もうすぐ静かに終わっていくことにも、あのころの私はまだ気づいていなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第1話では、夕焼けに引き戻されるように、主人公が高校時代の彼との帰り道を思い出していきました。
何か特別な事件があったわけではなくても、並んで帰るだけで一日がきれいに終わったように感じる時間があります。
次話では、その幸せだった季節が、少しずつ「戻れない場所」になっていきます。




