第6話 さがさぬ印
他人の金で飲む酒がうまいのは、自分の懐が痛まないので、一杯飲むごとにいちいちこれはいくらだとか、所持金で足りるかなとか、やばいかもなとか、そういった心配なしに飲みたいだけ飲めるからだろうか。
だとすると、金持ちで金を払うことに一切ためらいがない人間なら、いつでもうまい酒を飲めることになるが、そういうことでもないような気がする。
だったらいったい、どうしてただ洒はあんなにうまいのか。
うまいもへったくれもなくて、飲めるだけ飲んでやれという勢いで馬鹿飲みし、あとから、うまかったな、おかげで飲みすぎたなと思ったりするだけなのか。
ともあれ、私は痛飲した。
自宅で目覚めたから、ちゃんと運転代行サービスを利用して帰宅したらしいのだが、まったく記憶がない。
スマホをチェックすると、坂口からラインが来ていた。
坂口とライン交換をした覚えもない。
でも、したのだろう。
坂口からのメッセージは、印探しの仕事に関するものだった。
印の画像。
探す範囲を示した地図。
見つけた場合の連絡方法。
印一つにつき三万六千円が支払われること。
期限はなし。
いつやらないといけないとか、そういう縛りは一切ない。
私はねこの飯がほとんどなくなっていることを確認して、餌皿を洗って新しく用意し、水をきれいなものに替え、トイレ掃除をした。
シャワーを浴びて居間に戻ると、ねこが飯を食らっていた。
どうせいないだろ、仏壇の後ろに隠れてるんだろと予想していた私は、意表を衝かれて少々うろたえてしまった。
「……いるんかーい」
ねこは一心不乱にふやかしたドライフードを貪り食っている。
小皿にウェットフードも用意したのだが、そちらはすでにほぼすっからかんだ。
まるで私の存在を気にかけていないように見える。
「おまえさ、昨日までは明らかにおれのこと避けてたじゃん」
話しかけても、チラ見すらしてくれない。
私は一応、足音を忍ばせてねこに近づいてみる。
餌皿などは居間の隅っこにお盆を置いてその上に並べてある。
しゃがんでねこの背中をそっとさわる。
ねこはビクッとしたが、それだけだ。
逃げないし、食べるのをやめようともしない。
「そんなに腹すかせてたんかね」
もしくは、私に慣れたのか。
だとしても、懐いた、という意味のなれる、漢字で書くと馴れるではなく、慣れる、のほうだろう。
ねこは私という人間が同じ空間にいることに慣れてきたのではないか。
とりあえず私は脅威ではないと見なされたのかもしれない。
こうなると、あちこち撫でたくなるのが人情というものだが、私はやめておくことにする。
何せ、ねこは食事中だ。
飯を食っているときに体をさわられまくったら、人間だって迷惑でしかない。
「まあ存分に食ってくれ。おれは一眠りするわ」
どこかにあるらしい印とやらを見つけて金を手に入れたいのは山々だが、飲みすぎて完全に二日酔いだから、とうてい動き回る気にはなれない。
端的に言って、非常に具合が悪いので、動きたくても無理だ。
というか、できるだけ動きたくない。
私は水をがぶ飲みしたり排泄したりしてから、寝室で横になった。
頭は痛いし、胸はむかついているし、だるいし、苦しいので、なかなか寝つけない。
それでも目をつぶって深呼吸していると、いつの間に眠りに落ちていた。
「……もう夕方か。早いな、一日が。一日っていうか年月が。気がついたら死んでるまであるな、これ。なんか前にも同じようなこと考えたような。前っていうか、よく考えてるか。どっちにしても、死んだら気がつくも何もないよな。死んでたら気がつけないし」
しばらく布団の上でたそがれていたが、体調はよくはないものの、そこまで悪くもない。
起きて居間に行くと、ねこがなんとソファーの上で丸くなっているではないか。
「ねこ……」
呼びかけると、ねこは一瞬、顔を上げて私のほうを見たが、すぐにまた頭を下ろして目をつぶった。
「ねこぉ……」
私は慎重に歩を進める。
とうとうソファーに辿りつく。
ねこはじっとしている。
眠っているかのようでもあるが、さっき私に視線を向けたので寝てはいないはずだ。
見たところ、リラックスしている。
これは、くつろいでいるんじゃないかな?
どうかな?
ねこはソファーのほぼ中央に身を横たえ、体を丸めている。
私は少し迷う。
ねこの安楽を妨げるような真似はしたくない。
それは私としてはまったく本意じゃない。
いや、だがしかし、ここは私の家だ。
私は親からこの家を相続した。
じっと言うと、私には弟がいる。
弟は相続を一切放棄した。
理由は、ただ面倒くさいから、それだけだった。
親の葬式に出ただけも、あいつよく来てくれたな、と兄の私が心底思うような弟なので、べつに意外ではなかったが、まあそんなわけでこの家は土地ごと私の所有物になった。
私の家、私の居間で、私がそんなに遠慮することはないんじゃないの?
ねこは居候なのだ。
私はねこから家賃も徴収していない。
ねこは人間じゃなくて猫だから、何も金を払えとは言わないが、どこかからお魚の一匹や二匹かっぱらってくわえて持ってきてもバチは当たるまい。
実際、お魚を持ってこられたら処置に困りそうだし、家賃の件はいいとしても、私の家で私がねこに遠慮するというのはどうなのか。
それはちょっと理屈が通らないというか、間違っているんじゃないか。
私は、だから、ソファーの隅のほうに、なるべくねこに衝撃が伝わらないように気をつけつつ、そっと腰を下ろした。
果たして、ねこはびくともしなかった。
私は家主の権利を行使してねこの背を軽く撫でた。
ねこはやはりとりたてて何の反応も示さない。
「慣れたんだな、ねこ」
私はほっとしていた。
ねこを飼うことは決めていたというか、こうなったら飼わないわけにはいかないだろうと思ってはいたが、一日の大半を仏壇の裏で過ごされるようでは何と言うか、飼っている感じがしない。
どうせなら飼うならちゃんと飼いたい、と考えていたのかというと、決してそんなことはない。
ただ、同じ屋根の下で暮らすのであれば、それ相応の付き合い方というものがあって然るべきなのではないか。
ひたすら一方的に飯と水を用意と糞尿の始末だけする問係は、はっきり言ってむなしい。
「好きなだけとは言わないからさ。一日に何回かは撫でさせろよ。あと、姿は見せろ。隠れなくたって、悪いようにはしないんだから。ああ、なんか腹減ってきたな。ていうか、減ってたんだろうな」
私は手早く歯を磨き、簡単に身支度をして、コンビニへと向かった。
この時間ならまだぎりぎり春巻さんがいるはずだ。
いるはずの春巻さんが、店内を隈なく捜しても見あたらない。
隈なく、限なくといっても、そう広い店じゃない。
ごく一般的なサイズのコンビニだ。
捜すにも限界がある。
というか、春巻さんがいるかいないかくらいはすぐにわかる。
私は何も買わずにコンビニをあとにした。
なぜ春巻さんがいないコンビニで私が買い物なんかしてやらないといけないのか。
私がどうしてこのコンビニを愛用していると思っているのか。
家から一番近くにあるからだ。
それはもちろんそうなのだが、春巻さんに会計してもらえないとわかっているのに、レジに並びたくなんてない。
そんなのは耐えられない。
我ながらどうかしていると思うし、気持ち悪い独身中年だと呆れもするが、誰かに見抜かれるような恋心でもなかろうし、これが恋心なのかどうかも微妙なところだし、傍から見ればふらっとコンビニに入った客が、たまたま買う物が見つからなくて出ていったというだけのことだろう。
異常行動だ、不審者だと見なされる恐れはおそらくない。
微塵もない。
別のコンビニに行くのも馬鹿らしいので、私はいったん帰宅して車を出し、近くのスーバーまで足をのばした。
近く、といっても徒歩だと二十分以上かかるので、歩いて行く気にはなれない。
だがしかし、惣菜でも冷凍食品でも、その他の食料品でも酒でも何でも、コンビニよりスーパーのほうがずっと安い。
今のコンビニには春巻さんがいないし、スーパーでいい。
スーパーがいい。
カゴを持って店内をぶらつくと、あたまえだがやっぱりコンビニとは品揃えが段違いだし、えっ、こんな値段?
いいのこれ?
安すぎじゃない?
嘘でしょ?
ほんと?
マジ?
みたいなことの連続でテンションが上がる。
爆上がりだ。
「おいおい……この世のすべてがここにあると言っても過言じゃないだろ。こんなに取り揃えてしまったら、むしろあきまへんやろ……」
思わずいんちき関西弁で呟いてしまう。
けれども、スーパーだと広いし、けっこうがやがやしているから、私の小声なんてかき消されて、誰かに聞かれる心配はないだろう。
「独り言、言い放題じゃないか。天国か……?」
ただ、困ったことがあるにはあって、あまりにもいろいろな品物で溢れているせいで、目移りして何を選んだらいいかわからなくなる。
そうかと思ったら、いつの間にかカゴの中に商品が入っていて、きっと私が投入したのだと思うが、記憶が定かじゃない。
もちろん私もスーパーは何度となく利用したことがある。
このスーパーも初めてじゃない。
最近というか、ここ数ヵ月、コンビニを中心に、弁当屋、外食ですませていたので、久しぶりに来店した。
しばらく来ていなかっただけなのに、この刺激はどうだ。
スーパー、やばくない?
生まれて初めてスーパーに入ったやつ、下手したら死んじゃわない?
死にはしないか。
もし初スーパーが死をもたらしかねないとしたら、死者が続出してスーパーを禁止する法律が制定されているだろう。
「アホなこと考えてないで、さっさと晚飯を確保するか。野菜とか肉とか買っといて、自炊するのもありかな。米はまだあるはずだし。パスタもありそうだな。まあ、今日はやらんけど。まずは惣菜か……」
惣菜コーナーはさっき一度、軽くチェックして、うまそうで値頃なものがたくさんあったから、かなり悩ましいことになりそうだ。
しかし、嬉しい悩みじゃないかと惣菜コーナーに向かうと、そこで揚げ物を見ている母子連れに目が止まって、何だろう、知り合いかなと考えてみたら、そうか、母親のほうがあれだ、髪の毛の色と髪型が誰かに似ている。
まるで春巻さんみたいだ。
髪だけじゃない。
体格、体形も、ちょうど春巻さんくらいだ。
マスクはつけていない。
当然、コンビニの制服じゃなくて、ブラウスにパンツという服装だ。
すらっとしていて、細面だが、頬はこけていなくて、見た目の印象は三十代半ばから後半といったところだろうか。
しっかりと化粧をしているが、派手ではない。
人目を引く美貌という感じではないけれども、さっぱりしていて、ひとに不快感を与えることは決してないだろう。
きれいな人だな、と素直に思う。
やっぱりきれいな人だったんだな、春巻さん。
あと、いたんだな、お子さん。
小学校五、六年生くらいだろうか。
春巻さんより少し背が低いくらいで、顔立ちが母親そっくりで、何というか、ちゃんとしていそうな少年だ。
それから、母親との距離が近くて、仲がよさそうだ。
私は慌てて回れ右をする。
走りたいくらいだが、さすがにスーパーの店内でダッシュするわけにはいかない。
どうにか自制し、早歩き程度の速度で、出入り口へと急ぐ。
カゴを戻す。
スーパーをあとにして車に乗りこむ。
動悸がしている。
早歩きをしたせいか。
それもあるだろう。
でも、それだけじゃない。
「晩飯、どうしよう」
すぐには車を発進させない。
私は落ちつく必要がある。
この状態で車を運転するのは危険だ。
事故りかねない。
「けっこう冷静だな」
笑ってしまう。
ちょっとだけだが。
私は取り乱してなんかいない。
なぜなら、取り乱す理由がない。
春巻さんにお子さんがいた。
いてもぜんぜんおかしくない。
いるはずがない、と考えるほうが逆に変だ。
まだ春巻さんの実子だと決まったわけじゃないか。
甥っ子とかだったりするかもしれない。
そうだ。
その可能性もある。
「何だ、甥っ子ね?そっちか。そっか。そっちね。びっくりしたな、もう。びっくりしたよ。いきなりだもん。びっくり……」
なんで私はあんなにびっくりしたのか。
最寄りのコンビニの店員さんにお子さんがいたから、それがどうしたというのか。
甥っ子かもしれないわけだが。
いずれにせよ、私が勝手に思っているだけなのだが。
恋をしているわけでもあるまいし。




