第7話 はかどるない
明くる日、私は印を探しはじめる。
何と言っても、仕事して稼がないといけない。
私は食っていかなければならない。
それから、ねこを食わせていかないといけない。
現状、私が引き受けている仕事は、坂口安吾の印探しだけだ。
他にも仕事の口があったら、不法、脱法のたぐいでなければやるにやぶさかではないが、印を一つ見つけるごとに三万六千円もらえることになっている。
仕事探しは、とりあえず印を探してみてからでいいだろう。
何せ、三万六千円だ。
一日に一つ見つけるだけで日給三万六千円。
二つ見つけたら日給なんと七万二千円だ。
十日で七十二万円。
一ヶ月のうち二十日、いや二十日は多いな、約半分の十五日でいいか、そうすると、百八万円。
月収百万の世界だ。
もちろん、最初からうまくいくに違いないと甘く考えていたわけじゃないが、それにしてもこの印探しという仕事は、なんともとらえどころがない。
坂口から私に与えられた情報は、捜索範囲と、どこかで発見された印の画像だけだ。
画像は発見者が実物を撮影したものだといい、坂口はこれを三枚、ラインで私に送ってくれている。
一枚目の印は、コンクリートの壁に黒いペンキか何かで描かれている。
町中でよく見かける落書きのようものだが、タグとかタギングとかいうのだろうか、読めそうで読めない文字列のような、一見あれに似ているようで似ていない。
ファンタジーの漫画やアニメに出てくる魔法陣のようでもあって、それともまた違っている。
未知の文字、記号、図形の組み合わせなのか?
一つ一つをとってみると、どこかで見たことがあるような気もするのだが、心当たりが浮かんでこないので、見たことはないと考えるしかない。
二枚目の印は、アスファルトの路面に描かれている。
こちらは黒じゃなくて白い。
ペンキなのか?
色は問わない、ということだろう。
あくまでも、デザインが一致しているかどうかなのだ。
三枚目の印は、なんと、どこかのトイレの白い便器に、たぶん油性ペンで描かれている。
そう大きなものじゃない。
というか、小さい。
十センチ四方もないだろう。
どうやら、サイズも不問らしい。
私はとりあえず隣市の中心的な繁華街で印を探すことにした。
ちなみに、我が家から車を十分も走らせれば、そこはもう隣市だ。
私が生まれ育った市は、かつてK郡K町だったが、平成の大合併を経て、周辺の町と合わさり、市となった。
我が市に基幹的な産業がないわけじゃないが、人口は隣市の三分の一以下しかない。
我が市は隣のH市の経済圏内にあると見なされがちだ。
H市の名は観光都市としてかなり知れ渡っているが、我が市の名を知る者は少ない。
ともあれ、こうして私はH市の繁華街をぶらつきはじめたわけだが、印らしきものは一向に発見できない。
落書きはある。
ただ、東京なんかに行くと、地域によっては落書きだらけだったりするが、比較的少ない印象だ。
なので、印があったらけっこう目立ちそうだし、意外と探しやすいかもしれないという私の期待はあっさり裏切られた。
とりあえず、午前十時くらいから昼過ぎまで歩いてみたが、何の成果もない。
腹が減ったので、有名ドーナツショップチェーンのフランチャイズ店で甘そうなドーナツを三つ買った。
H市でフランチャイズを運営しているのがパンの会社で、製造コストを抑えられるとか何とか、たしかそういった理由で、この地域では値頃感がある。
というか実際にぐっと安い。
甘い物は嫌いじゃないが、とくに好きなわけでもないので、そのへんに座ってドーナツを一つ食ったら胸一杯になる。
これでまたしばらくは戦えそうだし、気持ちが萎えてきたら、またドーナツを腹に入れればいい。
食べないでおいて晩飯にする手もある。
何なら、晩飯に一つ、もう一つは明日の朝飯にしてもいい。
「戦略家だな。我ながら」
しかし、印を見つけるための戦略はまるっきり浮かび上がってこない。
午後二時半で私はいったん印探しから撤退することにした。
ちょっと早いかなと思わなくもないが、これ以上続けると本格的に嫌気が差してきそうだ。
嫌になる前に、さっと退く。
そうしておけば、またやろう、という気になれる。
かもしれない。
ならないかもしれないが。
一度嫌になってしまったら、私の性格からして絶対に次はない。
愛車を運転しながら、私はにやりと笑ってひとりごちる。
「やっぱり戦略家だよな、おれってば。印探しのほうの戦略はさっぱりだけど。まだ素人だからな、印探しは。人生の達人ってやつ? そのわりには働けど働けど暮らしが楽にならないけど。こんなに働いてるのに。ほんとは一切働きたくないのにな」
帰宅すると、ねこが居間のソファーの真ん中あたりで丸くなっている。
餌皿はほとんど空だ。
私はソファーの隅っこに座ってねこを撫でる。
ねこは一瞬ビクッとするが、それ以後は黙って撫でられている。
「すっかり共同生活のルールを心得たみたいだな、ねこ。そうやっておとなしく撫でられてさえいれば、おまえには居場所があるし、飯にもありつける。おれが稼いでる限りは、だけどな。本音を言わせてもらえば、猫の手も借りたいくらいなんだぞ。でも、おまえじゃ連れてっても足しにならないだろうし。注目は浴びるかな。仔猫連れてる変なおっさんおる、みたいな感じで。人気者になれるかもな。猫が好きだからな、人類は。おれはべつに、だけどね。嫌いじゃないけど。まあ普通?」
私は不意に発見する。
こうしてねこを撫でていると、いつも以上にひとりごとがはかどる。
「あれか。話しかけてるもんな」
そうだ。
これは純粋なひとりごとじゃない。
「少なくとも、形式的にはね。やっぱりこう、何だろうな、ひとりごとって、周りに誰もいなくて、聞かれてる可能性がなかったらとくに、問題ないっていうか、自由にやっていいことだと思うんだけど。好きなだけね。関係ねえし。放っといてくれっ感じだしな。でもなんか、罪悪感じゃないけど、はばかられる的な気持ちが皆無にはならないんだよね。ちょっとおかしいのかなおれ、みたいなこと思っちゃうのかな。だけど、おれは今、ねこ、おまえに語りかけてるわけだからさ。こうなると、ちっとも変じゃないよね。まっとうだよな。おまえはしゃべんねえから、会話には発展しないけど。人間だって、話が通じねえやつなんていくらでもいるしね。まったく噛み合わねえ相手とか、ざらにいるしな。ひとの話を聞かないやつとか、聞けねえやつとか。おまえはとりあえず、黙って聞いてるからな。話はできなくても、話を聞けるやつではあるよね。それでおれも、安心してしゃべっちゃってるんだよな、きっと。うん」
私はふと、ねこを撫でるのをやめた。
「ていうかさ。おれよくこのソファーで昼寝とかしてたんだけど。座ってるより横になるほうが多かったんじゃないかな。それが今やどうだよ。ねこ、おまえにほぼ占領されちゃってるような有様じゃねえ? どうなの、これ。せめて、ど真ん中に寝るのはやめない? 右か左、どっちかに寄ってくれたら、おれだってさ。ああ、そう。無視する感じ? シカトしちゃう? スルーしようとしてる? 結局、あれかよ。おれの話、聞いてるようで聞いてないってことね。くそ。春巻さん……」
どうしていきなり春巻さんのこと思い浮かんだのか。
脈絡がない。
春巻さんのことは考えないようにしていたのに。
私は立ち上がって頭を抱える。
危うく叫びだすところだった。
まあ、ここは私の家だし、古いとはいえ壁の薄いマンションとかじゃないから、叫びたければ叫んだってかまわないのだが、叫びそうではあっても、叫びたいわけじゃない。
なんで私が家の中で絶叫しないといけないのか。
そんなことをする理由がどこにあるというのか。
春巻さんにお子さんがいた。
小学校高学年とおぼしき男の子が。
それがどうしたっていうんだぜ、マーマレードボーイ?
マーマレードボーイ?
何だそりゃ?
ママレード・ボーイという少女漫画が昔あったような気もするが、何か関係が?
ないか。
それとも、あるのか?
どっちだ?
「知るか! わーん!」
つい叫んでしまった。
私が大声を出したせいで、ねこがソファーから飛び降りて仏間へと猛ダッシュする。
そのまま仏壇の裏に入っていってしまった。
驚かせるつもりはなかったというか、叫んだりしないつもりだったのに、うっかり叫んでしまったことに忸怩たる思いがある。
「春巻さんめ」
私は口にしかけた言葉をのみこむ。
激しく頭を振る。
「いや、いや、いや。春巻さんは悪くない。さすがに。そりゃそうだ。子供がいて、子連れでスーパーに来てただけなんだからな。子供がいた。子供は。子供がいたってだけだ。シンママかもしれないじゃないか。そうか。そうだよ。それだ。シンママかもしれない。シングルマザーだったら、何だっていうんだ。それがどうした。シンママなら現在は独身ってことになるから、おれと同じだとでも? 同じじゃないだろ。おれはずっとシングルなんだから。エターナルだよ。誰がエターナルシングルだ、馬鹿。おれの馬鹿。いや、馬鹿じゃない。おれがエターナルシングルかどうか、まだ決まってないんだからな。チャンスはなさそうだけど。あるわけねえだろ。いや、あきらめたらそこで試合終了ですよ、じゃねえんだよ、安西先生。いねえから、安西先生。いたら怖えわ。ああもう、なんか疲れた……」
私はテレビをつけた。
そういえば、テレビをつけていなかった。
べつに見たくはない。
だから消した。
「酒でも飲みてえ気分だよな、おい。コンビニ……いや、それはまずい。春巻さんがいたらどうする。どうもしないけど。春巻さんは普通に接客してくれるだろうな。あんなことしといて。何もしてないか。してないよな。見事にしてねえわ。別のコンビ二に行けばいいのか。コンビニじゃなくたっていいわけだし。でも、めんどくせえな」
私はソファーに座り直した。
ねこがいないので、スペースがある。
寝られるじゃん。
「寝よっと」
私はソファーの上で横になった。
これ、これ。
と言いたくなるほどの寝心地じゃない。
良くも悪くもない、といったところだ。
まだ夕方にもなっていない。
眠るには早い。
早すぎる。
まだ腹の虫が鳴りはしないが、そのうち空腹を感じるだろう。
「大丈夫だ。おれにはドーナツがあるじゃないか」
こたつの上に持ち帰ったドーナツ二つ入りの紙袋が置いてある。
「さては、こうなることを見越してたな、おれ。すごいな。戦略家だよ。策士だね」
ひとしきり笑う。
目をつぶる。
「長え。今日は長えわ。さっさと明日になってくんねえかな。てか、明日、何しよう……」




