第27話 交わらない
しまった。
しまったね。
しまってしまいました。
桶座間諒子さんは依然として私をねめつけている。
ただ、眉間に寄った皺、眉毛の角度などに変化が見られる、ような気もしなくはない。
というか、する。
諒子さんはやや呆気にとられているのかもしれない。
で。
す。
よ。
ね。
私自身、呆然としているくらいだから。
正直、自分が何を言ったのか、ちょっと忘れかけているというか、忘れたいというか、それゆえに記憶が薄れかけているんじゃないだろうか。
まあ、さすがにまだおおよそ覚えているのだが。
壱路の代わり自分ではどうか、といったようなことを私は言ってしまった、物の弾みで。
壱路は相も変わらず無表情だが、ちょっとだけ口が開いているような。
私の隣に座っているギネさんの様子をうかがう勇気はない。
おもしろがってくれていればいいが、軽蔑されているかもしれない。
私としても、友だちに侮蔑されたくはない。
じゃあなんであんなことを言ってしまったのさ。
「そうですね」
諒子さんは目を伏せる。
それから、ふっ、と鼻を鳴らして笑う。
「それもいいかもしれないですね。顔は似ているし、お兄さんのほうが壱路より人の気持ちをわかっていそう。仕事も辞めちゃったし、ここに引っ越そうかな。お兄さんさえよければ、そのほうがいいかも。それもありかもしれないですね」
あり、かもしれない?
ですと?
すなわち?
私に彼女ができてしまう?
いや。
慌てないで。
落ちつこう、私。
そんなわけがない。
諒子さんはおかしなことを言っている。
私がおかしなことを言ったせいなのだろうが、それに便乗してというか、相乗りして、逆手に取って、かこつけて、どさくさに紛れて、どれも違うような気もするが、とにかく、諒子さんは、そう、本気じゃない。
あたりまえだ。
真面目に、だったら壱路の兄と付き合おう、などと思っているわけがない。
そうだよ。
ああ、びっくりした。
ないもんだから。
そんな、こう、棚からぼた餅的な経験?
たとえば、どこかでばったり諒子さんと会って、それが初対面で、いきなり、付き合ってください、とか言われたら、即答しちゃうからね。
一も二もなく、はい、喜んで、だよ。
そんな人の発言だから、つい、舞い上がりはしないまでも、舞い上がりそうにはなったよね。
いかんね。
独身が長くなると。
というか、ずっと独身だからね。
私は一転、腹が立ってくる。
自分もよくなかったが、諒子さんも諒子さんだ。
真性の独身中年をだしに使って、もてあそぶような真似をして、それはちょっと突拍子もないことを言ってしまったかもしれないが、だからといって、私の尊厳を傷つけるようなことをしてもかまわない、とはならないんじゃないか。
「よし!」
私は立ち上がる。
「じゃあ、そうしますか、諒子さん。おれ、若くないんでね。付き合うってなったら、もう結婚前提ですよね。住みますか。一緒に住みましょう。あの家、古いし、地震が来たら、周りはぜんぜん大丈夫なのに、うちだけぐらぐら揺れたりしますけど、部屋はありますから。引っ越してきてくだっていいですよ。ねこもいるしね。かわいいねこもいますよ。仕事はね、おれ、不安定ですけど、もう少しなんとかしますから。気合い入れてね。ここらでいっちょ、がんばりますよ。これを機会にね。どうですか、諒子さん。大事にしますよ。壱路みたいにふわっとはしてませんから。映画の登場人物みたいでしょ、こいつ。雰囲気だけやたらといいセンス系で単館系の映画なんかに出てきそうなやつですよね。そこがいいと思ったんでしょうけど、生活をともにするともう何なんこいつって感じじゃないですか。浮世離れしすぎてて。それでいて、こいつ、アウトドア野郎だったりして、平気で蛇とかとって食っちゃうやつなんですけどね。山ん中で一人で生きてけるタイプなんで。ヒグマとか何度も遭遇してるんすよ。だから、こいつは普通にどこでも生きてけるんですけど、協調性とか欠けてるから、周りは大変なわけですよ、結局。おれはそんなことないんで、任せてください。どんとね。大船に乗ったつもりでね」
私は座る。
諒子さんの反応が芳しくないどころか、恐れおののいているようですらあり、明らかにドン引きされているから、これはどう考えても目がない。
もちろん私としても、目があるかも、と思っていたわけじゃないし、どうぞ引いてください、がんがん引きまくれ、くらいの気持ちだったから、悲しくなんてないんだからね。
「でもな」
ギネさんがくすっと笑う。
「悪くはないと思うぞ、わたくしは存外。タッキーと一緒にいれば、経済力はともかく、退屈はしねえだろうからな。おもしろおかしく生きたいならおすすめだぞ。大船どころか典型的な泥舟だけどな。沈むか沈まないか、そこも含めて楽しめるなら、最高のエンタメだろうな。最高は言いすぎか。まあ、それなりってとこだとしても、意外と世の人間たちはつまらん暮らしをしてるもんだからな。タッキー程度でも相対的に見れば、まあまあなんじゃねえの」
「褒められてるのか、けなされてるのか、いまいちわからんのだけど……」
「わたくしとしては最大限に褒めてるつもりだがなあ? なんなら、わたくしと結婚するか?」
「しねえわ。ギネさんと結婚なんかしたら、完全に財産あてにして寄生生活に突入しちゃうからな」
「それのどこが悪いんだよ。楽ちんじゃねえか」
「楽ではあるかもしれないけど、べつにおもしろくはなさそうだろ。友だちがいなくなるのもなぁ」
「そこは難点だよな」
「でしょ。だいたい、ごくたまに会うくらいだからいいけど、毎日ギネさんといたらきついって。ちょっとした拷問だって」
「わたくしも毎日タッキーはごめんだな。仕事に支障をきたしかねん」
「け、結婚は……」
諒子さんが頭を下げる。
「ごめんなさい。無理です。付き合うとかも。ありえない」
「でしょうね!」
私はテーブルを叩きたくなる。
こらえて、ビールをごくごく飲む。
ぷはぁっと息を吐く。
「わかってますよ。じょじょじょ冗談ですから」
「噛むなよタッキー」
「うるさいな、ギネさんは黙っててくれ。嘘。黙ってろなんて言ったら逆効果だよな。しゃべって。演説して」
「演説はしねえけど」
ギネさんは肩をすくめてみせる。
「これでおしまいってことでいいじゃねえの。タッキー弟に戻るつもりはねえ。その理由も話した。どうにもなんねえだろ、こういうのはよ。のみこむしかねえって。諒子さんだったか。ぱぱっと区切りつけちまえ。所詮は自分次第だからな。人生長えようで短えし、切り替えてかねえと時間がもったいねえぞ。わたくしはやや疑ってるけどな」
「疑ってる? 何を?」
「タッキー弟の理由とやらをだよ」
「壱路が嘘ついてるってこと?」
「そうじゃねえ。どうもそれだけじゃなさそうだってこと。一回出るか」
ギネさんはそう言うと席を立ってレジのほうにすたすた歩いてゆく。
なんということでしょうか。
自発的にお会計してくれようとしているではありませんか。
「おい、壱路、諒子さん、出るぞ。あ、トイレ大丈夫か。行きたかったら行っとけよ。おれも行っとこ。よく考えたらずっと我慢してた。ビール飲みまくったからな。ぱんぱんだ。何がとか訊くなよ。膀胱って答えちゃうから。はっ。言っちゃった」
ビヤホールを出ると、とっくに日が暮れているが、まだ遅い時間じゃないので通りは観光客で賑わっている。
この一帯は観光の中心地の一つと言ってもいいのだが、深夜まで営業している飲食店は少なく、夜が更けると人通りが絶無に近くなる。
まだ活気があって、倉庫街がライトアップされてもいるし、観光地らしい光景を楽しめそうだ。
もっとも、どこか店を探して入るにせよ、そのへんをぶらつくにせよ、その前にやっておくことがある。
私はギネさんに向かって、上体を九十度以上倒し、礼をする。
「ごちそうさまっした! ありがとうございました! 愛してます! どうもです!」
「苦しゅうない。近う寄れ。足の指くらいなら舐めさせてやる」
「それはいやっす!」
「何でだよ。足指の一本や二本、喜んでしゃぶれよドM」
「絶対いやっす!」
「しょうがねえな」
壱路と諒子さんもそれぞれギネさんにお礼を言う。
さすがのギネさんも、二人に足を舐めろといった要求はしない。
我々は適当に歩く。
私はギネさんと並んで歩き、その後ろで壱路と諒子さんが横並びになっている。
壱路と諒子さんは関係が破綻しているわけなので、奇妙な隊列ではあるが、なんとなくそうなっており、壱路も諒子さんも修正しようとしない。
やがて我々は、坂を上がって公会堂だか何だか、けっこう有名な建物がある公園に辿りつく。
すぐそこに有名なこぢんまりとした山があって、そこからの眺めが全国的、わりと世界的にも知られているが、やや高いところにあるこの公園から見る夜景も、これはこれで味わいがある。
「さっきのことだけど」
壱路が口を開く。
うながされたわけでもないのに壱路が自分から話しだすなんて、めずらしいというより、不思議なこともあるものだ。
「他にも理由があるんじゃないか。自分でも考えてみたけど、そのとおりなのかもしれないね」
壱路の横顔を、少し苦しそうに、でも見ずにはいられなくて見ているといった風情の諒子さんの姿は、まるで映画かドラマのワンシーンのようで、とても絵になる。
この女性は有り体に言って、大変容姿に恵まれている。
しかしながら、こう言っては何だから言わないが、聡明ではないし、性格には特徴らしい特徴がなく、おもしろみに欠けるというか。
外見はそうとう非凡なのに、中身の凡庸さが滲み出ているせいか、この見てくれに見合うほど人目を引かない。
でも、今の諒子さんは文句なくすばらしい。
「僕はぜろのことがすごく好きだったんだ。お父さんっ子とか、おばあちゃんっ子とか、そういう言い方があるけど、僕はお兄ちゃんっ子だったと思う。親にはとくに愛着を感じなかったけど、ぜろのことだけは本当に好きだった。僕がついて回っても、ぜろはまったく嫌がらなかったし、かわいがられていた気がする」
「そりゃまあ……」
弟にここまで正面切って言われると、照れる。
「かわいかったからな。なんかやっぱり、自分と瓜二つっていうのもあったし。それこそ年の離れた双子みたいな。そんなのありえないんだけどさ」
「でも、ぜろはいなくなった」
壱路の声音はいつもと変わらない。
表情にもとりたてて変化はない。
「何も言わないで、消えたんだ」
私は胸を突かれるが、待ってくれよと即座に思う。
そんなことあったっけ?
あったとしたら、高校を卒業して実家を出たことが該当しそうだが、壱路みたいに行方を晦ませたのとは違う。
私は受験勉強を、そんなに根を詰めたわけではないけれども多少はして、試験を受け、なんとか合格した。
地元にも大学はあるが、選択肢は多くないし、進学を機に外へ出るのはむしろ普通だ。
壱路だって、それでこの地を離れた。
進学先について、壱路に相談したことはないかもしれないが、年の離れた弟に、お兄ちゃん、この大学を考えてるんだけど、どうかな、なんて話したりはしないだろう。
家を出る際、見送られたような記憶もないが、あのときは歩いて最寄りの駅まで行ったはずだから、そんなものだと思う。
大学生になって、頻繁に帰郷したかというと、それは否だ。
年に一回も戻ってこなかった。
私からは連絡もとくにしなかったので、親に薄情な息子だと咎められたら受け容れるしかない。
あれほどかわいかった弟のことを、ときどきでも思いだしたりしたか。
まるで思いださなかったわけじゃない、ような気はするが、正直よくわからない。
「ぜろがいなくなって、僕は悟ったんだ」
壱路は私に目を向ける。
すぐ視線をそらす。
「どんなに大切な人もいつかはいなくなる。僕は一人で生きていかないといけない。どうせ一人なんだ。一人がいい」




