第26話 兄として
果たして、桶座間諒子はやって来る。
壱路と電話で話したあと、すぐタクシーに飛び乗ったようで、思いのほか早く到着する。
ギネさんは来たときの服に着替えている。 私は猫じゃらしでねこと遊んでいる。
壱路はあぐらをかいて私とねこを眺めている。
そして、諒子さんは壱路の隣で正座している。
「お仏壇」
と、諒子さんが言いだす。
「拝まなくていいの?」
「考えもしなかった」
壱路は立とうとしない。
私も壱路も不信心で、仏壇や墓にはとんと興味がない。
年一で私が墓参りをするのは、我が向井道家の墓がある寺はご近所さんで、その住職は亡き父親の幼馴染みで、その息子の跡取り坊主は私と同年配で、たまに顔を合わせる。
この跡取り坊主が、やれちゃんと墓をきれいにしろだとか、やれ命日に拝むのが何だとか、あんたも死んだらあの墓に入るんだからとかやかましいから、しょぅがなく墓参りだけはしてやっている。
諒子さんが仏間に行って仏壇に手を合わせる。
壱路は彼女を見もしない。
ねこはなぜか、猫じゃらしじゃなくて、彼女を見つめている。
そういえば、諒子さんはねこと初対面のはずだが、そのことに対する言及はとくにない。
ねこも諒子さんを警戒していないようだ。
私、ギネさん、それから壱路と、ねこにしてみれば慣れている人間が三人もいるので心強く、諒子さんを恐れる必要がないのかもしれない。
ねこが壱路を味方と見なしているらしいのが、そうはいっても若干不満ではあるが、弟は私の肉親で、私に似てもいるから、私の同類ということなのかな、と解釈すれば、まあよしとすることもできる。
「あのよう」
ギネさんが提案する。
「飯でも食いに行かねえか。どこでもいいからよ。なんかうまいもんぱぁーっとよ」
「いいね」
壱路がとても、いいね、とは思っていなさそうな顔つき、声音で応じる。
「ぜろ、あそこはどうかな。赤レンガの」
「ビヤホールか? まだ時間が早いから、今行けば入れるかな。夕飯時だと確実に満席だろうけど」
「電話して訊いてみたらいいんじゃない?」
「なら、おまえがしろよ」
「しないね」
「なんでだよ。おれはさ、そういうの嫌いなんだよ。いちいち電話とかして、あいてますか、とか、席とっといてもらえますか、とかさ。めんどくせえ」
「知ってる」
「じゃあ言うなよ。大丈夫だろ。入れるって、たぶん。行っちまえばいいんだよ。なんとかなるだろ。なんなかったら、そのときはそのときだよ」
私は車を出す。
助手席にギネさん、壱路と諒子さんが後部座席に乗る。
帰りは運転代行を使うことになるだろうし、また出費がかさみそうで憂鬱だ。
飲食代まで私が負担することになったら、泣くに泣けない。
なんとかギネさんに奢ってもらう方向に持っていけないだろうか。
財力はあるわけだし。
金なんてありあまっているわけだから。
でも、破産しかねないので金を出してくださいと、真っ正面から頼むのはためらわれる。
友だちだからかな。
そうかも。
なまじ友だちだからいけないのであれば、いっそ友だちじゃなくなってしまえばいいのだが、それは嫌だ。
友だちとは厄介なものだ。
だから私は意欲的に友だちを作ったりはしない。
ちょっとでいい。
友だちは数人、まあ、一人か二人、いれば十分だ。
それ以上は私の手に負えない。
駐車場にアルトくんを駐めてビヤホールに行くと、そこそこ賑わってはいたが、まだ席はあいている。
我々は四人でテーブルを囲み、それぞれ地ビールを中ジョッキで注文する。
「まずは乾杯……」
私は首をひねる。
「何に乾杯すりゃいいんだ?」
壱路は無表情で何の意見もないようだし、諒子さんは気まずそうに黙りこくっている。
「月並みで災厄みたいに最悪だけどな」
ギネさんがジョッキを持ち上げる。
「こんなとき便利な言葉がある。人生に乾杯」
「おぉ。さっすがぁ」
「燃やして埋めないで海に捨てるぞ?」
ギネさんの顔が心なしか赤らんでいる。
たぶん、ありふれた文句を口にしてしまったことが天才作家としては恥ずかしいのだろう。
「よし、じゃ、おれたちの人生にカンパーイ!」
私は隣のギネさん、向かいの壱路、それから諒子さんの順に、ジョッキを合わせてゆく。
「乾杯」
「うん。乾杯」
「……乾杯」
全員応じてくれたので、ジョッキに口をつける。
半分くらいまで、ごくごく飲む。
「うんめえっ。二日酔いに、効く! 一気に治るな、二日酔い!」
「二日酔いだったの、ぜろ?」
けろっとした顔で訊いてくる壱路のジョッキは、早くも空だ。
私もそこそ飲めるほうだが、壱路はおそらく私よりいける口で、底なしのザルだ。
「まあね。ギネさんとしばらくぶりに飲んでさ。おまえと飲むのもめちゃくちゃ久しぶりだな、そういえば」
「そうだっけ」
「会ってもないんだから久しぶりだろ」
「それもそうだね」
「お代わりは?」
「何でもいいかな」
「黒ビールでも飲め。黒生」
「じゃあそれにするよ」
「食いもの適当に頼むぞ」
ギネさんがそう言うので任せることにする。
好きにさせたら、あれもこれも頼んでとてつもないことになりそうだが、もういいや。
破産しても。
そのときはそのときだ。
「イカゲソのポテサラ、チーズの盛り合わせ、ソーセージ盛り合わせ、イカバター鉄板焼き、ジンギスカン、刺身盛り合わせ、寿司もあるんだな、九貫か、このセットみたいなの、これを四人だから四つと、海鮮生ちらし、あんかけ焼きそばも食いてえな、それと、ステーキピラフ……」
案の定、大変なことになりそうだが、もう知るか。
有り金はたいても足りなかったら、さすがにギネさんが払ってくれるだろう。
友だちだしね。
私たちは飲んで、食べる。
大いに語らう。
壱路は自分のことを自分からしゃべりはしないが、訊かれたら何かかにか答えるし、質問したりはする。
ギネさんは壱路に興味があるようだから、二人のやりとりに私が加わって、それなりに盛り上がる。
ただ、諒子さんは聞いてるだけだ。
というか、話を聞いているのかどうかもあやしい。
私は諒子さんの様子が気になるが、ギネさんはどうでもいいみたいだ。
もとより、ギネさんは関心がある物や人以外には本当に注意を払わない。
けれども、壱路が諒子さんを空気のように扱っているのは、さすがに私としてはどうかと思う。
おまえが呼んどいて、それはないんじゃないの。
さりとて、私が気を遣って諒子さんに話しかけるのもなあ。
状況が状況、事情が事情だけに、どんな話をすればいいものやら。
「それで、イッチ」
ギネさんはいつの間にか壱路をイッチ呼ばわりするようになっている。
「てめえはなんでそこにいる女をほっぽってどっか行ったりしたんだよ?」
おっ。
ギネさん、ナイスプレー。
たぶん、ギネさんは桶座間諒子という女性には興味がない。
けれども、壱路は変なやつなので、おもしろがっている。
その壱路が同棲相手を放置していなくなったという行動の理由は知りたいのだろう。
「そうだな」
壱路はジョッキを見るともなく見る。
隣の諒子さんは全身をこわばらせて壱路を凝視している。
私はどうだろう。
いかにも壱路がやりそうなことだとは思う。
驚きはまったくない。
しかし、弟がなぜそういったことをするのか、もっと言えば繰り返すのか、兄の私は理解しているだろうか。
私なりの仮説はある。
本人に、こういうことなのかい、と確かめたわけじゃないので、当たっているかどうかはわからない。
壱路は打ち明けるのだろうか。
自分自身のことだから、弟はもちろん把握している、とも限らない。
話したくても話せないかもしれない。
「ある場所にいるとするだろう。そうすると、自分はそういう人間のような気がしてくる。でも、だんだんと、その人間が自分じゃないように思えてくるんだ。これが自分だと思っていたのに、変だな、おかしいなってね。もしかすると、ただそういう人間のような気がしていただけなんじゃないか。自分じゃない自分を、自分だと思っている人が周りにいる。何か騙しているようで、いたたまれなくなってくる。だって、それは自分じゃないからね」
「へえ」
ギネさんは何か言おうとするが、言うのをやめる。
諒子さんはうつむいて、歯を食いしばり、ゆっくりと肩を上下させている。
かなりショックを受けているようだ。
無理もない。
壱路じゃない何者かを、壱路だと思っている人、それは諒子さんのことだ。
諒子さんは壱路のことが好きで、愛していたのだろう。
だが、壱路に言わせれば、諒子さんが愛した壱路は、本当の壱路じゃない。
騙しつづけるのは悪いから、壱路は去ることにした。
ならば、こういう次第でと説明するくらいのことはしてもよさそうだが、きみが好きな壱路は、じつは偽者なのだよ、と言われて、はいそうですか、と納得できるものだろうか。
いや、壱路じゃない?
どこからどう見ても、あなたは壱路なんですけど?
偽者?
はああ?
何を言ってますのん?
壱路も馬鹿じゃないから、なかなか承知してはもらえまいと予想している。
だから何も言わずにさっさと逃げてしまうわけだ。
壱路がなぜ諒子さんを呼びだしたりしたのか。
それも、私なりに推測がついてはいる。
壱路にしてみれば、自分じゃない自分を愛している諒子さんと、復縁するようなことはできない。
壱路は何であろうと壱路なのでややこしいが、壱路的には、諒子さんは自分じゃない他の誰かを愛しているわけだから、一緒にいることはできない。
なので、あきらめてほしいのに、捜し回って、実家にまで押しかけた。
こうなったら、もう無理、ごめんね、理由はこう、と話して、お引き取り願うしかない。
ところが我が弟は、自らの真情をつまびらかに話すということがつとに苦手なのだ。
できたらやっている。
それで、めずらしいことに、壱路は私に甘えたのだ。
一対一では難しいから、なんとか本音を引きだしてもらい、諒子さんに伝えることにしたんじゃないだろうか。
回りくどいよ。
兄としては弟を叱りたくもなるが、最後に異性と交際したの、いつだっけ、というか、何回、通算どれくらい、交際したことあるっけ、みたいなことを考えると、キーーーーッと叫びだしたくなるような私なので、偉そうなことなんて言えない。
壱路はモテた。
今でもモテるはずだ。
きっと、クソじじいになってもモテそうな気がする。
死ぬまでモテる。
ひょっとしたら、死んだあとも、壱路さんという人がいてねえ、なんて、女性たちの思い出話のネタになったりして、モテ伝説が語り継がれていったりするかもしれない。
こんなモテる弟に、まったく、さっぱり、ぜんぜん、ありえないほどモテない兄が、何を言えると?
なんかみじめじゃないですかぁ。
だめだぞ、壱路くん、めっ、とか言っても、お兄ちゃん、けど、信じられないほどモテないじゃん、とか言われたらさ。
いや、壱路はそんなこと言わないと思うけども。
壱路は一度も私を蔑んだことがないし。
なんなら、兄として敬意を払ってくれているような感覚がずっとある。
変なやつだが、いい弟なんだよ。
すごく変だけど。
言ったことないし、言う機会ないだろうけど、好きなんだよ、私はこの弟が。
ちっさいときなんて、めちゃくちゃかわいかったしさ。
「諒子さん」
私が呼びかけると、諒子さんはハッとしたように顔を上げる。
私を睨みつける。
「……はい。何ですか」
「そ、そういうわけなんで」
私は気圧されそうになる。
いや、負けるな、私。
がんばれ。
弟のためだ。
一肌脱ごうじゃないか。
中年になっても、弟にとってはお兄ちゃんだ。
「壱路のことは忘れてもらって。代わりと言っちゃあれですけど、おれでどうですか」
本当に、あれだ。
間違った。




