第25話 ブラザー
壱路が床に腰を下ろしてあぐらをかく。
曲げた右脚と左脚、股間が形づくる三角形の中央にねこが収まる。
ねこめ、私にもしたことがないのに。
そんなふうに思いはするものの、壱路は昔からとにかく猫に好かれる人間だった。
猫に限らない。
犬にも、鳥にも、いろいろな動物に好かれるやつだった。
ついでに言うと、人間にも好かれた。
老若男女を問わず好かれた。
とりわけ、というか、これはうらやましくて私がとりわけそう感じているのかもしれないが、異性に大変好かれる男だった。
ようするに、よくモテた。
けれども、壱路自身は自分が多くの生物に好かれていることに対して、とくに何とも思っていない様子だった。
今も、のってきたねこを追い払いはしないが、かまうわけでもない。
壱路が犬猫を撫でているところを、私は一度も見たことがない。
よもや女性にも同じということはないだろうが、交際相手にやさしく接する弟の姿を私は想像できない。
ことさらひどい仕打ちをすることはないだろう。
でもたとえば、好きだよ、きれいだね、かわいいね、愛しているよ、といった甘い言葉を囁くことは、まずなそうだ。
そんなことはないのかもしれないが。
どうなんだろうね。
ただ、内縁の妻を置いて唐突に行方を晦ますくらいだから。
その程度のことは普通にやりかねんな、と思っちゃうようなやつだから。
「ところで」
私は自宅で天才作家ギネさんと並んでソファーに腰かけていて、しかも、ずいぶん会っていなかった弟が同じ空間にいる。
考えてみれば、奇妙な状況だ。
いや、考えるまでもなく、ずいぶんとまあ奇妙奇天烈だ。
「壱路、おまえどうやって入った? いきなり階段上がってきたよな。玄関は音するだろ。鍵は掛けてなかったかもだけど。あの戸、無音で開けるのは無理だろ」
「この家には秘密の抜け道がある」
壱路は幼いころからときどき変なことを言うやつでもあった。
「探してふさいだりする必要はないよ。住んでいるぜろも気づかないくらいだから、悪用される恐れはないと思う」
「今、悪用したよね? おまえが。悪用は言いすぎかもしれんけど。お兄ちゃん、びっくりしたんだけど?」
「そういうつもりはなかったんだ」
「どういうつもりだったんだよ。お兄ちゃんに言ってみろ。怒んないから」
「久々にあの抜け道を通りたかっただけだよ」
「気になるよ、そんなこと言われたら。おれも通ってみたくなるって。人間ってそういうもんだって」
「ぜろは人間にくわしいんだな」
「そうでもねえよ。おれなんかよりずっと人間のこと知ってる御方がここにいらっしゃるよ。てか、誰、とか訊けよ」
「宜古山ギネカさんじゃないの」
弟がさらりと正解したものだから、私はうろたえてしまう。
「うぇっ、なっ、へっ、どっ……?」
ギネさんも目を丸くする。
「なんでわかるんだ? 面識ねえよな? あるわけねえし」
「ないね」
壱路はギネさんに視線を向ける。
それでいて、ちゃんとギネさんに焦点が合っているのか、いまいちよくわからない。
比喩的な意味じゃなくて、そういう物の見方を弟はする。
一点を集中して見ずに、広く全体をとらえるような眼差しは、ときに見られているほうを不安にする。
人によっては、ちゃんと見て、自分を見てほしい、と思ったりするのかもしれない。
「かなり前だと思うけど、ぜろが写真を見せてくれた。学校の制服を着ている女の子と二人で撮った写真」
「制服ぅ?」
何だ、それは。
ぜんぜん記憶にないんだけど。
私はめったにスマホのカメラを使わないし。
ただ、ふとデジタルカメラが欲しくなって買ってしまい、使っていたというより、使おうとしていた時期があった、ような。
ギネさんが指をぱちんと鳴らす。
「撮った」
苦々しそうに渋面を作っている。
「受賞したときだ。記念にとか言ってタッキーがわたくしと二人で撮りたがったんだ。まだいたいけなJKだったからな。断れなくて撮らせてしまった。ああいう写真はあの一枚きりだぞ」
「持ってたデジカメで誰かに撮ってもらったんだっけ。そっか。あったな、そんなこと。あったあった。やばいね。今だったらできんね。時代的に。許されんよね。JKだったしなぁ、ギネさん」
「当時でもアウトだったかもだぞ。あんな図々しいこと言ってくるアホはタッキーだけだったからな。キモくて怖かったぞ」
「満面の笑みだったよ」
壱路は淡々と言う。
「ぜろは顔が引きつってたけど、宜古山さんはピースしてた。あと、宜古山さんはぜろの背中に手を回して、ぜろは腰が引けている感じだった」
「虚偽だ!」
ギネさんが唾を飛ばして抗議する。
「フェイクニュースだ! わたくしはシャイでピュアピュアな女子高生だったんだ! もちろん処女でキッスはおろか手を繋いだこともなかった!」
壱路は反論しないが、これは正直、私としてはギネさんより弟の肩を持つというか、弟の証言なら信用せざるをえない。
我が弟は変に記憶力がいい。
何もかも、というわけではないと思うが、覚えていることはじつに細かく、はっきりと覚えている。
「なるほどな。それでギネさんの顔に見覚えがあったのか」
「ぜろの話に何回か宜古山さんの名前が出てきたしね。あまり他の作家さんの話なんてしないから、印象に残っている。単なる同業者じゃなくて友だちなんだろうなと思って」
「何だ、タッキー」
ギネさんが肘で私の脇腹を小突く。
「そんなにわたくしのことが好きなのかよ。大切に思ってるのかよ。フォーエバーフレンドかよ。だったら言えよ。そういうことは。面と向かってちゃんと言えよ」
「友だちだとは思ってるけど、わざわざ確かめたりとかしなくない? きみはおれの友だちだよとか言う機会ないし……」
「作れよ! 機会くらい! 機会なんかなくたって言え! 言っていいんだぞ、タッキー。ほら言え。今言え。何回でも言え。言いまくれ。わたくしがウザくなってタッキーのこと忌々しく思うようになるくらい言え」
「友だちに忌々しく思われたくないんだけど?」
「恐れるなよ、勇気を出せ! ファイトだ、ファイトしろ! 戦わねえやつには戦うやつを笑う資格なんかねえんだぞ!」
むしろ私は戦わないほうで、正々堂々戦うよりも逃げる道を選びがちだし、自分が怠惰で卑怯だということは承知しているから、戦う者たちを笑う気にはなれない。
というか、ギネさんがいるせいで、話がややこしく、というか混沌としていて、何がなんだかわからなくてなってきつつある。
二日酔いで頭も痛いし。
「……一回、論点を整理させて。何だっけな。ええと、だから、ギネさんが新幹線で遊びに来て? 遊びに? 来たんだっけ?」
「そういうことにしといてやってもいいぞ。タッキーとわたくしは友だちだしな」
「ありがと、ギネさん。それで、壱路が帰ってきて……いや、待って。その前に何かあったような気がするな、おれ、何か忘れてない?」
「弟の嫁さんだろ。籍は入れてねえんだったか。嫁っぽいの、か」
「そう、それ。桶座間諒子さん」
「諒子がどうかしたの?」
壱路はやはり微塵も表情を変えない。
そういうところだぞ、弟よ。
でも、そういうやつたんだよな、我が弟は。
「来たんだよ、諒子さん」
「そうなんだ」
「じゃねえよ! 突然の出来事でお兄ちゃん驚いたわ! 聞いてねえし! おまえにそんな人がいたとか、一言も!」
「結婚でもしたら別だけど、住んでいただけだからね」
「そうだね! 言われたらね、そうなんだけどな! おれはお兄ちゃんであって、親とかではないしね。まあ親でもね。いちいち言うかって話ではあるよな。誰かと同棲してるとか。いい大人だしな。そうなんだよな。そうだよ。あれ? 何が問題なんだ?」
「わからない。何が問題なのかな」
「とくにないか? ないような気もするな。どうだろ」
「急にいなくなっちまったことじゃねえの?」
ギネさんが急にまともなことを言いだしたので、私は反発心を覚えるが、常識を知る非常識人こそが天才なのかもなあと感心したりもする。
ギネさんの物語には必ず常人が登場して、読者に寄り添ったり、常人を異様に見せることによって、読者を異常性に同調させたりするのだ。
「そうだよ!」
私はここぞとばかりに壱路を指さして責め立てる。
「三年だかも一緒に住んどいて、さっといなくなるとか、そういうのはな、社会通念上よろしくないっていうか、相手の気持ちもあるわけだし、あれだぞ、何だろうな、結婚してなくたって慰謝料とかな、あるかな? どうかな? 微妙か? わからんけど、諒子さんは傷ついて、仕事なんかも辞めちゃっておまえのこと捜してるみたいだぞ。大変じゃないか、そういうのって」
「諒子、仕事を辞めたんだ」
「んなことも知らんのかーい!」
「連絡とってないし」
「おまえが電話とか出ないだけだろ」
「苦手なんだ」
「いや、おまえね、苦手なんだ、とかじゃすまないからね? 現代人なんだからさ」
「そうか。諒子には悪いことをしたのかな」
「かな、じゃないだろ。悪いことしたの! 諒子さんだって、何だ、あれだろ、いくつだ、あの人」
「三十四かな」
「そういう感じ? もうちょい下かと」
「五かもしれない」
「どっちだよ!」
「三十六だったかも」
「おまえね……」
「タッキー」
ギネさんが嬉々として肩を組んでくる。
「弟、やべえやつだな。かなーりの社会不適合者だな?」
「なんで嬉しそうなの……」
「おもしれえから」
「おもしろがらないで! 諒子さん、かわいそうだよ! こんなやつに三年も……」
「んなもん、自分で選んだことなんだからしょうがねえじゃねえか。ガキじゃねえんだからよ」
「まあ、それはそう。そのとおりではあるんだけどね……」
と、壱路がどこから取り出したのか、古そうなスマホをいじっている。
「壱路、何してんの?」
「諒子に電話」
「え?」
「出るかな。繋がった」
壱路はスマホを耳に当てる。
「もしもし。うん。そう。今? ぜろのとこにいる。うん。家。ああ。いや、いるよ。来る? わかった。じゃあね」
どうやら通話は終わったらしい。
けっこう短かった。
あっさりした会話だった。
少なくとも、壱路のほうは恬淡としていた。
恬淡というのは、物に執着しないで、ようは、あっさりしている、という意味なのだが、我が弟にはまことにふさわしい言葉だ。
マジ、恬淡人間だよな、こいつ。
「おい、タッキー」
ギネさんが耳元で私に囁く。
ちなみにまだ私は肩を抱かれている。
「来るって言ったよな? 弟、呼んだのか? 諒子だかを。ここに来るってことか?」
「来る……」
私は呟く。
たしかにそう聞こえた。
弟に訊く。
「来る、の? 諒子さん」
壱路はめずらしく、きょとんとしている。
どうして目を少し見開いてぼけっとしているのか、知りたい。
問いつめたい。
「来るのか? 諒子さん。呼んだ?」
「さあ」
「さあ?」
「来るかもしれないし、来ないかもしれない」
壱路はもう無表情に戻っている。
「諒子次第かな」




