第20話 弱いのよ
壱路と書いてイチロというのは私の弟の名だ。
私の家を訪ねてきた女性はその配偶者だという。
「初耳です」
私は女性を家に上げて、居間のソファーを座ってもらっている。
私自身は床に、なんとなく正座して、爪先を立てている。
すなわち、跪坐だ。
ねこはどこかに隠れている。
おそらく仏壇の裏だろう。
「弟、結婚してたんですね。ぼく、知らなくて。あいつ、何も言わないから。まあ、しばらく会ってないですし、とくに会う予定もないというか。べつにね、仲が悪いとかじゃないんですけど。よくも悪くもなりようがないというか。あ、何か聞いてます?壱路から、ぼくのこと」
「とくには」
「そうですか」
私は女性をまともに見られない。
あまりじろじろ見るのも、なんだか。
正直、家に入る前、外で顔を含めた全身を眺めて以来、まともに見ていない。
顔を眺めなければいいだろう、というものでもないような気がする。
古くてそこそこ汚ならしい、ねこもいるので散らかっている、我が家にそぐわない人だな、というのもある。
本来いるはずのない異物が存在してしまっているせいで、調和が乱れているというか。
緊張感がある。
少なくとも私はひたすらリラックスできる、それだけが取り柄だったはずの我が家が、今やこれっぽっちもくつろげない異空間に成り果ててしまっているではありませんか。
私は正直、がちがちになっているわけだが、怒りというほどではないものの、だんだんと不満感がわき上がってきてはいる。
私の家なんだが?
なんで私が緊張を強いられなゃならないのか。
おかしくない?
「えんっ……」
私はするともなく咳払いをする。
というか、気詰まりすぎて、なんとかしようと咳払いを一発かましてみたのだが、そんなことをしたくらいでこの状況が変わるものでもない。
「猫がいるんですね」
唐突に女性が言う。
きょろきょろしている。
ねこを探しているようだ。
「私のせいですよね。いきなり知らない人が来たら、警戒しますよね」
私は胸の内でねこに声をかける。
ねこよ。
どうやら、そんなに悪い人間ではなさそうだぞ。
「お茶、用意しますね」
私は立ち上がろうとする。
「いりません」
女性がすかさず首を振ったので、私は立ち上がるのをやめる。
ねこよ。
悪い人ではないかもしれないが、つっけんどんで絡みづらいよ。
助けてくれないか、ねこよ。
おまえが出てきてくれたら、わあ、かわいいニャンちゃん、みたいになって、一気にムードがなごむと思うんだよな。
私は跪坐を崩し、あぐらをかく。
一つには疲れてきた。
もう一つは、楽な姿勢をとることによって、自分のペースを取り戻したい。
「そういえば、お名前、お訊きしていいですか」
「桶座間諒子です」
「桶狭間……?」
「オケザマです」
「ごめんなさい……」
ねこよ。
悪い人間ではないかもしれないとしても、オケザマさん、ちょっと怖いかも。
私はマジでねこに助けて欲しくてしょうがない。
けれども、私のねこのことだから、オケザマさんがいなくなるまで仏壇の裏から出てきてはくれまい。
「それで……オケザマさんはなんでまた、ぼくのところに?」
「住所を知っていたので」
「あぁ。弟の実家の?」
「それだけはかろうじて」
「あいつと一緒に来たんじゃないわけですよね?」
「違います」
「ですよね。だったら、あいつもここにいますよね。さすがに来る前に連絡くらいよこすだろうし。ラインとか」
「すみません。急で。非常識でした」
「いや! そんな、そんな。常識なんて、ねえ? ぶっ飛ばせ、ですよ。そんなもん。たいしたアレじゃないです。ぼくもね、常識的な人間かというと、微妙っちゃ微妙なラインだったりしますから」
「作家さんなんですよね」
「はい?」
「そう聞きました」
「誰が言ったんですか? あいつか。イッチーめ。クソが。生きろ。違いますよ? 作家なんかじゃないです」
「本、出してるって」
「出したことはありますけど、ずいぶん前ですよ。何だろうな。若気の至り? そんなところですかね。そこまで若かったっけな。よくわかりませんけど。覚えてないんですよね。記憶力がちょっと。年かな。年だろうな。老眼もねえ。きてますから。近くのものがね。もう本なんか読むのもめんどくさくなっちゃって。見えねえもん。ぼやぼやっとしてね」
「老眼鏡使えばいいじゃないですか」
「眼鏡かけてるんでね。見てのとおり。見えてないかな? 見てないか。おれの薄汚えツラなんて見たくないですよね」
「遠近両用レンズがありますよ」
「高くないんですか、ああいうの? どうなんですかね。この眼鏡作ったのもずいぶん前だし、最近の事情はわからんのですけど。うん……」
私はうなずき、思う。
こんな会話は間違っている。
会話の内容だけじゃない。
いろいろなことが大いに間違っているような気がしてならない。
私は立ち上がる。
オケザマさんが私を見て眉をひそめる。
美人だ。
ただ、こう言っては何だが、言っていないのでいいか、辛気くさい、というか。
小さなバッグを持っているだけで、やけに身軽だ。
どこから来たのか。
そもそも、弟の壱路は今、どこに住んでいるのか。
知らんのよ。
私は、まったく。
あれこれ訊きたいような気もするし、訊くのがめんどくさくもある。
私はオケザマさんを残して居間を出ると、台所でフライパンに水を入れ、インスタントコーヒーの粉をぶちこむ。
フライパンをコンロにかけて、待つ。
沸騰したら、マグカップに注ぐ。
台所には、昔々使っていたダイニングテーブルと椅子がある。
私は椅子に座り、インスタントコーヒーを飲む。
コーヒーの味なんて、わかるようなわからないような、という私にしてみれば、こんなコーヒーでぜんぜんかまわない。
「てか、普通にうめえし」
戸が開く音がする。
足音というか、廊下が軋む音が聞こえても、私はまったりとコーヒーを味わっている。
オケザマさんが台所に入ってくる。
「あの」
「はい?」
私はマグカップを持ち上げてみせる。
「オケザマさんも、飲みます? コーヒー」
もちろん、いりません、と言われるだろうと私は予想している。
「ください」
そのわりに、オケザマさんからそう返されても、私は動揺しない。
たぶん、来客を無視してコーヒーを飲むという荒業をぶちかましたことで、私はやや平静を取り戻していた。
荒業か?
どうだろう。
ともかく、そのおかげなんじゃないか。
フライパンの中のコーヒーはゆうに二杯分は残っている。
私は再加熱して少しあたためてから、マグカップに注いで、ダイニングテーブルに置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
オケザマさんは椅子に座ってマグカップに口をつける。
「まずくはない」
私は笑ってしまう。
「でしょ。まあ、おれは十分うまいと思ってますけど。それで、壱路のやつはどうしたんですか? いきなりいなくなったとか?」
「どうしてそう思うんですか」
「あいつがやりそうなことだし。よくわかんねえやつだけど、それでも兄弟だしね」
「一ヶ月近くになります」
「いなくなってから?」
「はい」
「そんなに? 長くね?」
「もしかして、もう帰ってこないのかもと思って。そうしたら、居ても立ってもいられなくなって」
私はテーブルクロスも掛けていないダイニングテーブルに目を落としている。
さっきとは別の理由でオケザマさんを直視できない。
壱路さぁ。
あいつさぁ。
そういうさぁ。
もう、ね。
弟は弟、私は私なので、責任を感じたりはしていない。
でも、さぁ。
いくらなんでもさぁ。
申し訳ない、というわけでもないのだが、ちっとも気の毒じゃない、とは言えない。
「やぁ、だけどおれ、壱路と連絡とってないんだよな。ずっと。親が死んだときかな。最後。オケザマと結婚してたっていうのも知らなかったしね。あれ? じゃ、壱路もオケザマさんになってる感じ?」
「いいえ」
「うん? どういうこと?」
「私たち、籍は入れていないんです」
「内縁ってことですかね」
「はい」
「そっか。そうなんですね。なるほどね」
帰ってこないかもね。
私としてはそう思わざるをえないが、言わないでおく。
もっとも、言うまでもないというか、言わなくてもバレてしまう。
「帰ってこない、と思ってるんでしょ」
オケザマさんはそう言ってため息をつく。
「わかってるんです。私も。何年あの人と一緒にいたと思ってるんですか」
「何年になるんですか?」
「三年です」
長いのか、短いのか。
私みたいに中年になってしまうと、三年なんてあっという間だ。
けれども、オケザマさんにとっての壱路と暮らした三年は、決して短くなかったのだろう。
「オケザマさんは、壱路を捜してあちこち巡ってる感じなんですか?」
「そうですね」
「お仕事なんかは」
「辞めてきました」
それは思いきりましたね。
何をされていたんですか?
辞めちゃって、大丈夫ですか?
そうした問いが浮かんではくるが、おれが言うのもなあ、というふうにどうしても考えてしまう。
まあね。
案外、なんとかなるものだったりするし。
なんとかなるのか?
どうなんだろう。
私は自営の自由業で、かなりフリースタイルだという自覚はあるが、何のかの言って、ちゃんと働いているしね。
働いて……いるよな?
世間一般からすると、ちょっぴり特殊かもしれないが、私は頼まれた仕事をちょくちょくこなしているし、確定申告をして、払わないといけないものは払っている。
「まあ、おれからも壱路に連絡してみますけど。どうだろうなぁ。気まぐれなやつですからね。知ってるでしょうけど。もし、連絡とれたら、あいつに言ったほうがいいですか? オケザマさんが来たって」
「お任せします」
「任せるの? おれに?」
「どうするのが一番いいのか、わからないので。わかっていたら、こんなことになってないと思うし」
「そうですか。そうですねえ。難しいですよね。連絡先、うかがっておいても?」
「はい」
オケザマさんはスマホの電話番号を教えてくれる。
ラインやSNSなどはほとんど使っていないらしい。
何かあったらSMSを送って欲しいのだとか。
「電話で話すの、嫌いなので」
「あぁ。わかります。いや、わかりませんけど。おれは何でもいい派なんで。でも、いますよね、そういう人。壱路もわりとそうかな?」
「たぶん」
「ですよね。オケザマさん、遠くから来られたんですよね?」
「壱路とは岐阜に住んでました」
「ぎ、岐阜?」
「何か?」
「いえ。岐阜か。岐阜。あいつ、そんなとこに」
「そんなところってどういう意味ですか?」
「いやいや! 深い意味はないんですけどね。縁がなさそうっていうか」
「私も壱路がなんで岐阜に来たのかは知りません。その前はどこにいたのかも」
私はいつしかオケザマさんを見つめている。
彼女はうつむいていて、目が合いそうな気がしないし、私の視線にも気づいていないようだ。
あらためて、きれいな人だな、と思う。
そして、幸薄そうだ。
幸薄そう、というか、内縁の夫が失踪して捜しているのだから、実際、彼女は今、幸福じゃないわけだが。
誰かに似ている。
女優の?
誰だろう。
わからない。
出てこないが、私は彼女から目を離しがたくなっている。
いかんね。
弟の妻だぞ。
でも、内縁なら?
そういう問題じゃないか。
うん。
そういう問題じゃない。




