第18話 真の偽ゾンビ
ドアを開けると何か独特の、いいとは決して言えない匂いがする。
いわゆる他人の家の匂いなのだろうが、古いアパートに染み付いた臭気も入り混じっていそうで、わびしい気持ちになる。
でも、それ以上でも、それ以外でもない。
たとえば、芳香剤の強すぎる香りとか、煙草臭さとか、腐敗臭のようなものは感じない。
狭い玄関には靴が一足だけある。
革靴だ。
「入んのまずくね……?」
にゃびゅさんが私の後ろから恐る恐るといったふうに首をのばす。
「それ、旗岡っちが仕事のとき履いてる靴」
靴箱はない。
右手と左手にドアがある。
右のドアはたぶんトイレだろう。
私は靴を脱いで上がる。
「旗岡さーん」
呼びかけながら左手のドアを開けると、そこは台所付きの部屋で、人の姿はない。
私はその部屋に入りこむ。
にゃびゅさんもついてくる。
「2DK、か」
この部屋の他に二部屋あるようだ。
小窓がついた合板のドアと、引き戸があって、それから、脱衣所と風呂場に通じているとおぼしき磨り硝子風のドアもある。
ちゃぶ台の上に競馬新聞が積み重ねられている。
冷蔵庫のそばの床に直置きされたゴミ袋は、潰したビールやチューハイの缶でびっしりで、口が閉じてある。
台所の調理台、コンロには何もない。
シンクにも空のコップが一つ置いてあるだけだ。
部屋の隅に薄っぺらい掛け布団とタオルケットが丸められている。
「旗岡さーん。いませんかー。旗岡拳侍さーん」
私は合板のドアと引き戸を次々と開ける。
合板のドアのほうは寝室だろう。
ベッドがあるものの、掛け布団がない。
引き戸のほうは和室だ。
こちらは物置のようで、雑多な品々が積まれ、埃を被っている。
「旗岡さーん。拳侍さーん。ケンちゃーん」
私は念のため、脱衣所と風呂場、それと、トイレも確認してみる。
いない。
誰も。
無人だ。
「旗岡っち、ずっといなかったのかな」
にゅびゅさんは眉をひそめている。
腑に落ちないのだろう。
「鍵、かかってなかったけど、前はどうだったっけ。ノックまではしたけど」
私の記憶では、ノブをガチャガチャやって施錠されているか確かめたような覚えはない。
ただ、あくまでも私の記憶なので、しかとは言えない。
「鍵かかってたって、にゃびゅ、ふっくーから聞いた」
にゃびゅさんが言うなら、間違いないだろう。
「いたけど、いなくなったってことかな」
私は脱衣所に設置されている洗濯機を開けてみる。
下着が入っている。
数日分だ。
洗われていないようだし、出してチェックする気にはなれない。
洗濯機を閉める。
にゃびゅさんが台所付きの部屋でしゃがんでいる。
何か探しているのか。
「あ」
と、ちゃぶ台の下に手を突っこんで、何かを拾い上げる。
「スマホ。旗岡っちのだと思う」
「貸して」
私はにゃびゅさんからスマホを受けとる。
電源が入っていないのか。
ボタンを押してみる。
「……動かんね。ていうか、電源ってどのボタン?」
にゃびゅさんが手を出す。
「貸して」
私はおとなしくにゃびゅさんにスマホを返す。
アナクロなアナログ人間である私は、自分のスマホが何なのかもよくわかっていない。
アイフォンではないが、じゃあ何なの、と訊かれたら答えられない程度の疎さなので、そもそもなぜ、貸して、なんてにゃびゅさんに言ったのか、我ながら謎だ。
にゃびゅさんがスマホをいじる。
「バッテリ切れてる」
充電器とケーブルがコンセントに差さっている。
にゃびゅさんはケンちゃんのスマホにケーブルを接続して電源を入れる。
少し待つ。
画面が表示されるが、ロックが掛かっていて解除できない。
「ううーん……」
私は腕組みをして考える。
この状況をどう解釈したものか。
変だな、とは思う。
何か大変な病気で寝ていて、回復して起きられるようになったのなら、会社に連絡くらいしてきそうなものだ。
この部屋に掛け布団とタオルケットがあるのも、気になると言えば気になる。
「わ、わからん」
私たちは外に出る。
藁にもすがる、というほど追い詰められてはいないが、他に何も思いつかないので、向かいの家の住人、七十歳前後のお姉様に話をうかがってかみることにする。
「ああ、あんたたちかい。何時ごろだったかね。ケンちゃんがふらっと出てったよ」
「え! 見たんですか」
「見たんだよ。一瞬、ほっとしたんだけど、なんか様子がおかしくてさ。声かけても返事しないし。げっそりして、髭なんかも剃ってなくて、髪もぼさぼさでね。どうしちまったんだろ、ケンちゃん」
車はある。
ということは徒歩でどこかに行ったのか。
お姉様曰く、ケンちゃんが家を出てから二時間はたぶん経っていない。
一時間前から二時間前までの間、といったところらしい。
「捜すぞ、ぜろ」
「はい、にゃびゅさん!」
私たちはまず車でそのへんを一周する。
その間に、にゃびゅさんが牛本に電話して対応を話し合う。
というか、にゃびゅさんが牛本に指示を出す。
「流してるドライバーこのへんに集めてさ。うん。一時間以上だから徒歩でもけっこう遠く行ってっかもだけど、とりあえずね。あと出てねえ人、何人か、そうだな、梶原っちと、腰沢っちと、藤山っちに事情説明してさ。うん。あいつらなら協力してくれそうだから。それと、パパとじいじにも、うん。うん。ふっくーも? いや、ふっくーはそこ動くな。司令塔になってさ。うん。はーい。はい。はーい。おっけ。じゃ頼むわ。はーい。またなー。あとでなー」
そのあとはにゃびゅさんに言われたとおり運転することに私は集中する。
にゃびゅさんはナビしながら歩行者に目を配っている。
ときどきにゃびゅさんのスマホに着信がある。
牛本から随時報告が入っているようだが、私は気にしないようにする。
歩道などもなるべく見ない。
にゃびゅさんにずばっと指摘された。
私はただでさえ運転が下手なので、注意力が散漫になったら事故りかねない。
ここがどこかも、いまいちよくわかっていないし。
なんとなく見覚えがあるから、通ったことはあると思う。
でも、どこだっけ、という感じだし、ふと目をやったガソリンメーターの表示のせいで、私はそわそわしてくる。
とはいえ、まあ、すぐにどうこう、ということはないはずだ。
「次の信号で右」
「はい、にゃびゅさん!」
「まっすぐ」
「はい、にゃびゅさん!」
「あの角、左折して」
「させ……左ですかね」
「そりゃそうだろ」
「ですよね、了解です、にゃびゅさん!」
にゃびゅさんからどんどん指令が下って、応じるのに精一杯だったりするし。
「ところがですよ、にゃびゅさん」
「あぁ? ところが?」
「ガソリンがちょっとあれだな。心許ないかな」
「て、ランプついてるし。いつから?」
「ええと……いつからかな?」
「あぶら入れなきゃだろ!」
「や、おれの車、燃費はいいんで、たぶんまだ粘れるんじゃないかと……」
「粘ってどうすんだよ。ガス欠になったら押すんか?」
「ガ、ガ、ガソリンスタンドに向かいます。どっかにあったっけ……」
「右!」
「はい、にゃびゅさん! 右に曲がりまーす!」
にゃびゅさんの案内のおかげで、私のアルトくんはなんとかセルフのガソリンスタンドに辿りつくことができる。
にゃびゅさんを車内に残して給油していると、車道を渡った先の歩道をふらふら歩く男性の姿に目がとまる。
ふらふらというか、がくがくというか、かくかくというか、へこへこというか。
服装は白いワイシャツにスラックス、カーディガンだ。
膝をあまり曲げず、右足、左足と前に出すような歩き方で、上体は前傾している。
若かりしころ、血の代わりに酒が血管を流れているゾンビ、と呼ばれた私だが、あの男性のほうがちゃんとゾンビっぽい。
満タンになったので、私は精算機で金を払いながら、ゾンビをちらちら目で追う。
移動速度が速くはないから、ゾンビはまだ私の視界に入っている。
「なんでゾンビが」
呟いて、私は苦笑する。
「ゾンビなわけねえし。いねえし。ゾンビとか。いない……よな? え? いるの? ゾンビ。嘘。マジで……?」
支払いも終わったことだし、にゃびゅさんに意見を求めてみようと車に戻ろうとしたら、助手席のドアがバッと開く。
にゃびゅさんが飛びだしてきて、駆けてゆく。
「旗岡っち!」
「はっ」
私は息をのむ。
そういうこと?
あれ、ケンちゃん?
だからか。
「何が?」
やはりよくわからないが、にゃびゅさんはこちら側の歩道を走ってゆき、車道を挟んで向こうの歩道にいるゾンビを追いかけている。
いや、ゾンビじゃなくて、旗岡のケンちゃんだ。
ゾンビなわけないし。
「ちょっ、あっ、にゃびゅさん――」
私はにゃびゅさんのあとを追おうとするが、給油機の前に車を置いたままこの場を離れるのはどうなのか。
間違いなくいいことではないが、そんなことを言っている場合でもない。
「すみません! ごめんなさい!」
私は誰かに、セルフだからそこらにはいないのだが、おそらくガソリンスタンドの従業員に謝りながら、にゃびゅさんを猛追する。
と言いたいところだが、私よりにゃびゅさんのほうが速い。
「と、年の差が!」
ゾンビ、じゃなくて、ケンちゃんが見あたらない。
曲がったのか。
歩行者信号が青になり、にゃびゅさんが横断歩道を突っ走ってゆく。
私はどうだろう。
間に合うか。
青信号が点滅しはじめる。
危ないところだった。
どうにか私も横断歩道を渡りきる。
私の目はにゃびゅさんの後ろ姿をとらえている。
ケンちゃんは見えない。
走るのなんて何年ぶりだ。
息が上がっている。
苦しい。
というか、喉とか肺とか、いろいろ痛い。
突然、にゃびゅさんが消える。
じゃなくて、道沿いの建物に入ったのか。
エイキューデンタルクリニック、という看板が掲げられている。
駐車場があって、その向こうに建つモダンな感じの建物がエイキューデンタルクリニックなのだろう。
にゃびゅさんはあの歯科医院に入っていったのか。
ということは、ゾンビのケンちゃんもか。
何がなんだかさっぱりだが、私も息を切らしてエイキューデンタルクリニックに突撃する。
エントランスから待合室に足を踏み入れると、なんとケンちゃんが受付カウンターの上で怒鳴り散らしている。
「エイザキー! エイザキキューサクを出せえ! 出てこぉい、エイザキー! エイザキキューサクゥー!」
「旗岡っち! やめろって!」
にゃびゅさんは止めようとしてはいるが、さすがに飛びかかることはできず、言葉だけだ。
そのほうがいい。
それでいいと思う。
髪はぐちゃぐちゃで、頬がげっそりこけ、髭だらけで、服もなんだか汚らしいケンちゃんは、見るからにまともじゃない。
目が完全にイッている。
「エイザキキューサク! いるのはわかってんだ、出てこい、エイザキィー! 出てきてワシナガアユコを殺した罪を償ええ!」
ケンちゃんは歯科医院の職員や待合室の客に危害を加えてはいないようだ。
職員たちも、客たちも、悲鳴を上げたり脇のほうに寄ったりうずくまったりしているだけで、怪我をしている者はたぶんいない。
今のところは。
「エイザキィー!」
ケンちゃんがカウンターから飛び降りる。
にゃびゅさんがそろそろ意を決してケンちゃんに取り押さえようとするんじゃないかと、私は睨んでいる。
私としては、そうして欲しくない。
そんな危ないことはするべきじゃない。
なので、やむえず、私はにゃびゅさんに先んじてケンちゃんに躍りかかる。
やだなあ、と思っている。
こんなこと、本当は、というか、本当にしたくない。




