隣の家
次の早朝。隣の上坂家の長男である浩介さんが出征する日だった。
健二も身支度して玄関を出る。既に近所の人たちが集まってきていた。隣組、というやつだ。
中でも大きな顔をしているのが町内会の隣組班長を務める嵐谷源造。退役した軍人で、私的な「防諜活動」と称して近隣住民を監視している。どうも学生全般を憎んでいるらしく、浩介さんも真一も戦争に積極的ではないとして監視対象だった。これで浩介さんが出征するとターゲットは真一だけになる。憂鬱なことだった。
集まりに混ざると、源造にギロリと睨まれた。気づかないふりをする。愛国心は結構だが、それで周りを陥れてどうしようと言うのか。令和の脳を持つ健二には全く理解の外であった。
しばらくすると、隣の家から浩介さんが出てきた。軍服らしきものを着て赤いたすきを肩からかけている。後ろには浩介さんの母親である夕子さんと、妹である環が付き添っていた。夕子さんは目が少し赤いが、さすがの源造もそれは咎めなかった。
浩介さんが皆に挨拶する。
「皆様、お見送りありがとうございます。上坂浩介、戦地で精一杯お国のために働いて参ります。皆様どうかお達者で」
そう声を張り上げると敬礼を行う。周囲の大人たち(老人が多い)が、両手を挙げて歓声を送る。小さな子供たちは日の丸の旗を振っている。
「浩介君、出征ばんざーい!」「ばんざーい!」
斜め後ろに付き従う環も笑顔で旗を振っているが、本心でないのは見れば明らかだった。悲しそうな顔なんてしていたら、隣組、特に源造に何を言われるか分かったもんじゃないから。
浩介さんは駅に向かって歩き出す。途中、真一の前で少しだけ立ち止まり、
「真一君。環を頼むよ」
と言ってきた。真一だって来年には出征だ。頼られても大したことは出来そうもないのだがそれは浩介にも分かっていることだろう。
「はい、お任せください。お元気で」
浩介さんはニコ、っと笑うと立ち去った。隣組も解散する。浩介さんの母と環はいつまでも駅の方向を見て立ち尽くしていた。そんな中、源造が声を荒げてきた。
「おい城ヶ崎! 貴様声が小さいわ! お国のために旅立つ人間に対する敬意が足らん! 非国民めが!」
ムチャ言いやがる。いちゃもん付けたいだけだろ、と健二の精神は考えるが反抗しても仕方ないし母親にも迷惑がかかる。
「申し訳ありませんでした。今後はより精進いたします」
「フン!」
源造は鼻で返事をして唾を吐き捨てると立ち去った。
…これが戦中か。負けて当然、という気持ちが一層強くなる。なんと愚かな時代なんだろう。
環がこっちを見て苦笑している。彼女の兄も源造にはさんざん嫌がらせされて来たからな。
「嵐谷班長、相変わらずよね」
環が話しかけてきた。母親はもう家に戻っている。
「いつもの事だよ。気にしてたら切りが無い」
「これからどうなるのかしらね」
環は駅のほうを見やりながらポツっとつぶやいた。
月末にはB29の空襲でこの辺はボロボロになるよ、なんて言える訳も無く。あいまいな笑顔で答える。
「大丈夫。浩介さんも無事に帰ってくるさ」
環は改めてこちらを見ると、微かな笑みを浮かべながら小さく頷いた。
「そうよね。ところでチビちゃんは元気? 最近見ないけど」
あれ。チビは元からこの時代にいる扱いなのか。
「ああ、元気だよ。今もたぶん家で寝てる」
「そう。良かった」
家の前で別れた。真一は北大泉の工廠へ、環は谷原の軍需工場へ。仕事に兄の出征も休日も関係なかった。




