別れ
用心棒に肩を切られた若者だが、出血量の割に奇跡的に命を取り留めていた。健二はこの時代の薬だけを処方したが、元が頑丈なのかナノマシンの出番は無かった。
吉兵衛は自ら当主として郡役所に出向き、堀田の米横流し証文を提出した。
そして数日後。
昼過ぎ、村の入り口に馬の蹄の音が響く。堀田の乱雑な取立てとは違う、整然とした響き。
3頭の馬と、徒歩の足軽が3人。先頭の馬上には、紋付に大小二本差し、月代を整え銀杏髷の四十代半ばの藩士が乗っている。
矢内屋敷の長屋門前に到着すると、先頭の藩士は馬上から静かに降りる。先払いの足軽が門を叩き、「藩庁よりの使者、目付・桑名重蔵様、ご到着なり」と通告した。白河藩庁から正式な使者。
吉兵衛が、羽織袴で長屋門前に出てくる。お絹も付き従っている。宗次郎は商人としての作法をわきまえ、屋敷の脇に控えている。
藩主直属の目付、桑名重蔵。堀田の直属の上司である郡奉行の目付ではなく、その上、藩主・松平定信直属。家禄のある上士で、堀田とは比べものにならない高い身分だ。
桑名は深く頭を下げる吉兵衛に、まず先に礼を返す。「矢内殿、突然のお越しご無礼仕る。藩庁の目付、桑名重蔵にござる」
堀田の時とは、まったく違う作法。苗字帯刀の家を立てる礼。村人たちが、その違いに目を見張る。
吉兵衛は桑名一行を屋敷の表座敷に通した。桑名は上座に着座、二名の手代はその後ろに控える。下座正面に吉兵衛。お絹は次の間で控えている。健二は当然屋敷の外だ。
桑名は懐から書付を取り出す。「白河藩主・松平定信公のご下命を、ここに伝え申す」
吉兵衛は跪く。お絹も従う。村人たちも一斉に頭を下げる。
「在方代官・堀田弾正、年貢横領・備蓄米横流しの疑いにより連行する。御殿様直々のお取り調べとなる」
桑名は朗々と読み上げ続ける。
「当村並びに近隣諸村につき、今年の年貢は半減、追加の救恤米を藩庁より優先配分とす。新たな代官は別途、藩庁より派遣致す」
一旦言葉を切る桑名。
「矢内殿。御殿様より、もう一つお言葉がござる。ご息女・絹殿をこの場へお呼びくださるよう」
吉兵衛は驚いて顔を上げる。お絹も次の間で息を呑む。
「……お絹、お入りなさい」
お絹は静かに襖を開け表座敷に入る。下座の父の脇につつましく座り両手をつき頭を下げた。
桑名は穏やかに、お絹の方に静かに視線を向けた。朗々と告げる。
「矢内絹殿。御殿様のお言葉、ここに伝え申す」
「『矢内吉兵衛が一子、絹なる者、村を背負いて藩政の不正を質す勇、武家の女にも勝る。父祖伝来の苗字帯刀の家の名いささかも汚さず、よく藩政を支えたり。深く感じ入る所なり』——とのことにござる」
お絹は息を呑む。伏したまま肩を震わせる。声は出ない。吉兵衛は涙を流して、額を地面につける。
「……ご先祖様、矢内の名を、汚さずに済みました」
桑名は二人を見つめ、しばし沈黙する。それから静かに付け加える。
「並びに——富山の薬売り殿の働きについても、御殿様の御耳に達してござる。後日改めて礼の使者を遣わす所存。今、屋敷の外におられるか」
吉兵衛は答える。「は、立山屋宗次郎殿は、屋敷の脇にて控えておられまする」
「ならば、玄関先までお呼びくだされ。御殿様のお言葉、一言お伝え申し上げたい」
その後、宗次郎は玄関先の式台の前まで呼ばれる。桑名は廊下に立ったまま、宗次郎は式台の下、土間に控える。
桑名は告げる。「立山屋殿。御殿様より、『富山の薬売り、矢内家を救い当藩の不正を質すに大いなる助けをなせり。深く礼を申し述べたし。後日改めて使者を遣わすべし』とのお言葉にござる」
宗次郎は深く頭を下げる。「身に余るお言葉、立山屋宗次郎、有り難く頂戴いたしまする」
桑名は宗次郎を見て、一瞬の沈黙の後、わずかに頷く。それ以上は何も言わない。
「以上である。堀田を連行するので連れて参れ」
屋敷の屋敷牢に入れられていた堀田と用心棒が手首を縛り上げられ、馬に結ばれた。
全てを終えた桑名は馬に乗り、足軽と手代、そして堀田と用心棒を従えて、来た時と同じ静けさで去っていった。
一行が見えなくなると、それまで控えていた村人たちが庄屋屋敷に集まってきた。吉兵衛が門の前に立ち、村人に報告を行う。
「皆ーっ!! 目付の桑名様より、お殿様のご下命を頂いたべ!! 今年の年貢は、半分で良いんだとーっ!!」
あがるどよめき。絶望していた村人の間に希望が広がっていく。
「そして、追加の救恤米を藩庁から頂ける事になったべ!! これで飢える事はねぇ! 村の危機は去ったんだっぺーっ!!」
湧き上がる歓声。泣き出す者、手を合わせる者。隅ではおヨネが涙を流していた。
吉兵衛の脇に控えるお絹も久しぶりの笑顔を見せている。それを見て頷く健二。そっとその場を離れて旅籠に戻った。
---
旅籠に戻った健二。チビの脇で薬箱の整理をしている。この村での薬屋としての仕事は終わった。ここに残る理由がもう無い。立ち去らなければならない。
宿代は前払いで済ませてある。番頭に挨拶して旅籠を出ようと土間に出ると、そこにお絹が待っていた。
「お絹さん……」
お絹は健二の目をじっと見つめている。
「宗次郎さん、まさか黙って発つつもりだったのけ?」
番頭は、気を利かせたつもりなのか奥に引っ込んでいた。チビは相変わらず健二の肩に乗っている。
「ごめんなさい。私は…ここの人間じゃありません。忘れてください」
お絹は気づいていた。薬がこの世のものでは無い事も、宗次郎が普通の人間では無い事も、薄々分かっていた。立山屋の屋号も、三春の縁という商家の家訓も、すべて宗次郎が借りた仮の衣。でも追求はしない。理由はあるのだろう、でもそれでお絹の気持ちが変わる事はない。
健二が薬箱を抱え直す。と、握ったその手の周りが陽炎のようなものに包まれた。手の輪郭がデジタルノイズのようにブレ始める。
『ああ、来たか。今度は俺の番なんだな』
それに気づいたお絹が健二に近づく。「宗次郎さん、その手はいったい」
「お絹さん、私は、もう行かなきゃならない」
「どこさ」
「……分からない。けど、行かなきゃ」
お絹は健二の腕を掴もうとするが、指はすり抜ける。何度も何度も掴もうとするが叶わない。健二の体全体がノイズに包まれていく。
お絹は涙を流す。健二は口を開くがもう言葉が出せない、声帯が空気を掴めない。代わりにお絹の頬に手を伸ばしかけ、しかし、もう触れられないことに気づいて空中で手が止まる。指先が震える。
お絹は、その伸ばされかけた手の方に自分から顔を寄せる。陽炎になった指先が頬を通り過ぎる。それでもお絹は目を閉じて、触れられたかのようにしていた。
健二の輪郭がさらに薄くなった。お絹は髪から簪を引き抜く——母の形見。
隣藩の下級武家から嫁いだ母の家筋の家紋に由来する、銀の地に桜の花びらと細い雪輪を組み合わせた彫り模様が入った簪。
「矢内の娘として、これだけは渡せねえ品だった。んでも、立山屋さんの行ぐ先には、うちが行げねえ。せめてこれを、うちの代わりに連れていってけろ」
健二は躊躇いながらも受け取ろうとするが、もう物に触れない。チビが間に入り、簪をくわえる。
「俺様が預かるにゃ」
チビが咥えた簪をインベントリに入れる。消えた簪。
「あんた、喋れたんだ……」驚愕するお絹だが、それも一瞬。最後の瞬間。お絹は首輪の旋律を口ずさみ始めた。消えかかった健二の鼓膜にはメロディが届かない。しかし、それが何なのか健二には分かった。二人を繋ぐもの。大切なもの。
健二は、心の底から微笑んだ。深く頷く。そして陽炎とチビと共に虚空に消えた。
残されたお絹は、しばらく動けなかったが、我に返ると旅籠の外に出た。
灰の雲の隙間から夕日が差し込んでいる。塵で光の輪をまとった太陽が幻想的に光る。その光に向かって深く頭を下げた。
「いってらっしゃい、立山屋宗次郎さん」




