響
健二は旅籠で午前中少し眠った。遅い朝食を済ますと、昼前に庄屋屋敷に戻る。
健二から見てもオーバーテクノロジーな薬によって劇的に回復したお絹だが、食糧事情の悪さと発熱で落ちた体力が戻った訳ではない。念のため数日は奥座敷で養生する事になった。お絹の仕事は一時的に吉兵衛が引き継いだ。というか娘に任せすぎですよお父さん。
屋敷に到着した健二を、門まで出てきた吉兵衛が出迎えた。吉兵衛は健二に深々と頭を下げる。
「このたびはほんとに、骨身にしみるほど、ありがてぇごど」
お絹以上に白河弁が強すぎて練馬生まれの健二には良く分からないが、宗次郎の知識がなんとか補完してくれている。
「立山屋の置き薬の縁です。三春の縁にお応えするのが、家訓ですから」
吉兵衛は顔を上げる。皺が深くなりつつある苦労人の顔だち。その目には涙がうっすら浮かんでいた。
「立山屋殿は、もはやお客様ではごぜぇません。矢内家の恩人でござる。恩人にござりまする!」
そして再び頭を深く下げた。
連れ合いを亡くしたばかりで、一人娘との二人暮らし。そこで更に娘を亡くすなど大変な恐怖だろう事は、独身の健二でも理解できる。
ただ、ここまで感謝されてしまうのも少々心苦しい。お絹を救ったのは借り物の力なんだから。
吉兵衛の感謝をあいまいにいなして、お絹の見舞いに奥座敷に入らせてもらう。お絹は寝ていた。疲れ果てているのだろう。
「おお、立山屋殿」
おヨネ婆が笑顔で迎えてくれる。目に隈が見えるが、ちゃんと休んでいるんだろうか。
「こんにちわ、おヨネさん。お嬢様の様子はどうです?」
「あぁ、もうすっかり良ぐなった。あとは体力が戻れば大丈夫だっぺ」
屋敷の外からカラスが鳴く声が聞こえてくる。おヨネの笑顔に当惑が混ざった気がした。
「……立山屋さんの薬は効ぐな」
その少し小さな声を聞き健二は悟った。ああ、この薬草に精通した婆さんは気づいてるんだ、これがこの時代にあり得ない薬だと。
しかし、それ以上の詮索はしてこない。それが長生きしている老人の知恵なのだろう。
「今日は、栄養を付けやすいようにこちらの薬を処方してみましょう」
健二は言って、薬箱から反魂丹と六神丸を取り出した。反魂丹は胃腸薬、六神丸は動物性の高級生薬で心臓の働きを活発にし、気力を充実させる強壮薬だ。
見知った薬を見て、おヨネの気が緩む。「あぁ、そりゃあ良いごど。どれ、飲みやすいように粉にしてやっぺか」
薬研で丸薬をすりつぶす。おヨネは他にいくつか野草を混ぜていた。砕けた丸薬が深い緑に染まり、強い草の匂いがただよう。見てるだけで苦そうだった。
「おじょ様、お薬の時間だべ」
おヨネがお絹を起こす。元々眠りは深く無かったのだろう、すぐに目覚めたお絹は半身を起こし、周囲を見回す。
「あぁ、おヨネ。今は何時だっけ?」
「九つでごんす」
九つ、とは寺の鐘の音の数だ。おおよそ正午。
「そうだなん」
「ほれ、これ飲んでくんしぇ」
おヨネが薬と白湯を差し出す。緑の粉を口に含み、白湯で一気に飲み干した。眉に皺が寄っている。やはり相当苦かったらしい。
湯飲みをおヨネに返した所で、お絹はおヨネの後ろに控えていた健二に気づく。
「立山屋さん」
声のトーンが少し上がった。頬にわずかに朱が差す。それを見て、健二の心の奥がざわめく。
……これはまずい気がする。しかし止まらない自分もそこにいた。
「だいぶ回復してきましたね。思い切って秘伝の薬を煎じて良かったです」
「あぁ、でぇぶ楽になったぞ」
「でも病が抜けただけで、まだまだ養生が必要です。滋養のあるものを食べて、しばらくはゆっくりしていて下さい」
健二は六神丸や熊胆を取り出して、おヨネに渡す。
「毎日少しずつ飲ませてやってください。では私はこれで失礼をば」
「立山屋さん、ありがど。また来てくなんしょ?」
「はい、また」
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お絹は急速に回復していった。
二日目には起き上がり、三日目には縁側で日に当たり、屋敷の中を歩いていた。
村人たちは「矢内のお嬢さん、助かったっぺ!」と喜び、宗次郎を「立山権現のお遣わしになった薬売り」と呼ぶようになっていた。この時代、肺の病から回復するなんてあり得ない事だったから。
しかし村人や父親とは違い、お絹だけは納得していなかった。自分の肺がどれほど酷い状態だったかは良く分かっている。母親を追う覚悟は出来ていた。
ところが、これである。立山屋さんは秘伝の薬などと言っていたが、そんなものがあれば都で引っ張りだこで白河なんかに来られないはずだ。いくら父の代からの縁があると言っても。いったいあの薬は何なのか。そして宗次郎とは何者なのか。
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一方健二。ある夕方、その日の薬を配り終えて旅籠にいると、庄屋の下男が健二を呼びに来た。
「立山屋さん、お嬢さんがお呼びでごんすよ」
健二は、予感を抱きながら庄屋屋敷に向かった。すぐに奥座敷に通される。そこにはお絹と二人だけだった。
お絹は健二の前で正座している。
「立山屋さん、呼びつけてしまい、もーすわけごぜぇやせんでごんす」
白河弁としてかなり丁寧な言葉遣い、と宗次郎の知識が告げている。改まって相対するお絹のまなざしは真剣そのものだ。
「いえいえ、今日の薬置きは丁度終わっていた所でございます、お気になさらず」
お絹は続ける。
「貴重なお薬を、私んかに使ってくだすって……誠に、ありがどさまでごんす」
「いえ、目の前に病の人がいれば、当然でございます」
しかしお絹の目は、それを信じていない。
「あんな薬、見だごどがねえ」 お絹は穏やかに言う。「効ぎが早すぎる。おヨネ婆さんも『不思議な薬だ』とだげ言うて、それ以上は聞かねがった」
「……」 健二は黙って聞く。
「立山屋さん、あんたはただの薬売りでねえべ」 お絹は続ける。「立山権現様のお遣わしか、それとも何か、もっと別のものか。んでも、うちはそれ以上は聞かねえ。聞いだって、あんたは答えねえべ。聞かれて困ることなら、聞がねでええ」
「……」 うっすらバレている。それでも黙っているしかない。
お絹はそこで初めて視線を落とした。
「うちは、命を助げてもらった。それも、村の取立てを撥ね返した直後に、人前で倒れだ、あの恥ずがしい姿のうちを」
少しの沈黙。
「矢内の家は、代々この土地を預かってきた。父も、ご先祖も、苗字帯刀のお許しを頂戴して、土地と村人を守ることで生きてきた。うちは矢内の娘だ。土地から離れらんねえ」
そして顔を上げた。
「あんたは、いずれ行ぐ人だ。それも分かってる。それでも、あんたが行ってしまうまで、傍におらせでくなんしょ、立山屋さん」
それは明確な好意の表明。健二は答えに詰まる。今までのそぶりから予想はしていた。しかしここまで直裁に来るとは。強い女性とは感じていたが、それでも彼女を見誤っていたかもしれない。
返事を待たず、お絹の右手が健二の袖を掴む。
あの最後の夜、消える直前の百合子と同じ仕草。能動的に引き出された新しい癖。健二の深い場所で何かが疼く。
でも、この好意には答えられない。チビは以前の層で、塔の中はシミュレーションではなく現実だと言っていた。だからこそ、いずれ去る定めの健二はいい加減な事はできない。たとえ彼女が百合子であってもなくても。欠片であってもなくても。
「チビ」
健二は、答えに代えてチビを呼び出した。健二の後ろから現れたトラ猫に、お絹の目が見開かれる。
「え、そりゃあ、噂の福猫様だのけ!?」
それには答えず、チビに言う。
「チビ、例の鼻歌を再生してくれ」
チビは健二を見上げて、慎重に念話で返す。
『いいのか?』
『いい。浮世の人間だと思われないほうが彼女のためでもある』
「んなあ」
理解したチビが猫の声で小さく鳴いた。直後、首輪のオーナメントから澪の口ずさむ百合子のメロディが流れ出す。
小さな音量でメロディが奥座敷に流れる。お絹の目が見開かれる。
一瞬、口を開きかけて、閉じる。そしてゆっくりと、自分でその旋律を口ずさみ始めた。
「その歌……」
お絹は呟く。
「知ってる気がする。いつ、どこで聞いだがは分がんねえ。んでも、知ってる。なんでだべ」
この層に至って、初めて旋律が二人の間で同時に鳴り響く。お絹は袖を掴んでいた手を離し、今度は健二の手を掴む。
「お嬢さん」
「絹、でいいんだ。立山屋さんのことも、宗次郎さんって、呼ばせてくなんしょ」
「……」
それ以上何も話さなかった。ただ手を握られたまま、首輪の旋律を聴いている。苦しい。握り返したい。抱きしめたい。しかしそれは決して出来ない。
「にゃー」
チビがまた鳴いた。そこにはいつものような、からかう響きは無かった。




