庄屋の娘
翌日。少し遅めに健二は旅籠で目を覚ます。この体はそれなりに疲れていたようだ。
太陽は出ているが昨日と変わらず噴煙による薄曇り。ごく微粒子の火山灰が空気中に滞留している。僅かに硫黄っぽい匂いも漂う。雲が無くても、からっと明るくなることは無く村全体を沈鬱な雰囲気にしている。
朝旅籠を出た健二は、重く積もるざらついた空気にうんざりする。自衛隊装備の防護マスク5型、せめて4型が欲しい、いやこの際ドラッグストアで売ってるようなマスクと水泳用ゴーグルとかでもいいから、と切実に思ってしまう。鼻ほじったら指が真っ黒になりそうだ。
通りに出る。午前中は人通りも少ない。そんな村で、前回薬を置いた家を一軒ずつ訪ねていく。使われた薬の補充を行いその分の代金を回収するのだが、今回は満足に代金を支払えない家が多かった。
例年回収できない家は当然あって、それは20~30軒にひとつあるか無いか程度である。しかし今年は凶作の影響か農家は勿論のこと商家であっても懐が苦しいところが異様に多い。
立山屋として困ると言えば困るのだが、再訪問の間隔が1年を超える事は珍しくないので単年で回収できなくてもそれほど痛手ではない。もちろんこれが何年も続くようだと廃業になってしまうが、このくらいの村の規模ならさほどではない。
一通り家々を回り、最後に庄屋の屋敷にやってきた。
さすがに門構えが違う。小さな村だけに母屋はそれほど大きくはない。しかし長屋門こそ小さいものの、屋敷の脇には立派な蔵が二棟と小さな祠。門柱の脇には苗字帯刀を許された家のしるしとして、控えめながら家紋を染めた幔幕が掛けられている。あくまで屋号として名字を名乗る立山屋とは格が違うのだ。
通用門をくぐり奉公人に来訪の挨拶をすると、母屋の北側、台所と直結した広い土間に案内された。竈の煙の匂いと、味噌の樽の匂い。土間の片隅に薬箱を下ろし、宗次郎は腰を低くして奉公人の取次を待つ。
「お嬢様、富山の薬売り殿がおいでになりました」
やがて奥から声が返る。「通してけろ。立山屋さんは父の代からのお出入りだ。框にお上がりなさってけろ」
健二の中の宗次郎の知識は驚いた。通用門から入った行商人を、いきなり板の間に上げる庄屋家は珍しい。だがお絹の声は穏やかで、それが矢内家の作法だと感じさせる。
草鞋を脱ぎ、土間の上がり框に腰を下ろす。板の間の奥、帳面を広げた女が顔を上げる。絹。まだ若干の幼さを残しつつも気の強そうな目、小さめの頭部に漆黒の髪を結う。健二は息を呑みかける——そこには中学時代の百合子の面影があった。だが、もう動じない。
髪型は唐輪。頭の天辺で髪をまとめて輪を作り、そこに桜と雪輪模様の彫りが入った銀の簪でまとめている。着物は渋い藍染めの木綿を帯でひっつめにして短くしている。この時代なら、庄屋の娘なんていう上流階級はシルクの縮緬など豪華なものを羽織るのだろうけど、飢饉の中あえて質素な木綿を着ているのだろう。もしかしたら普段からも質素倹約を好むのかもしれない。健二としても宗次郎としてもとても好感の持てる装いだった。
「矢内絹だ。商いの儀は父の名代として、うちが承る」と返す。気丈そうな娘だ。
健二は深く頭を下げ、商人として正式に名乗る。「越中富山の立山屋、宗次郎と申します。父の代より奥州を巡らせていただいております」
板の間の框に座り、土間との段差の上で二人は帳面を挟んで対面する。身分の差は明らかだが、お絹は宗次郎を商人として尊重する作法を心得ている。
健二は背負子から薬箱を下ろし、効能を説明していく。腹下し、傷薬、滋養強壮、そして咳止め。
「……この村に、本当に効ぐもんはあっか」
少し低めの声に、これは二重の意味の問いだと気づく。
「まずは咳ですね。火山の灰がまだひどい。先ほども村の子供らが咳をしていて苦しそうでした。その子らにはいくらか配りましたんで、数日は落ち着くかと」
「それは助かる。お代はこちらに請求してけれ」
土地を預かる庄屋の心意気。この子は娘っ子などと呼んではいけない存在だ。健二は気を引き締める。
「いえ、それには及びません。薬屋としての厚志でございます。置き薬だけお代を頂戴できれば十分でございます」
「そうけ。厚志ありがたく」
そして底にある問い。
「飢えに効く薬はございません、残念ながら。でも咳で体力が削られるのを防げれば、多少は宜しいかと」
お絹は、相談の上当面必要な量を注文してくれた。矢内の家で使うには多すぎる。村人のための蓄え。
「ごほっ」
と、お絹が少し湿った咳をした。気になる音だ。
「お嬢さん、その咳はいつから」
お絹は手で口を押さえ、「灰のせいだべ。皆そうだ。気にしねでけろ」と話題を避けた。
お絹との商談を終えて屋敷を出た。雨が降り始めている。灰が混じった薄く黒い雨だ。
健二は、軒先で薬箱に上着をかけると旅籠に向けて駆けだそうとした。しかし、すぐに後ろからパチャパチャ足音が追ってきた。
振り向くとお絹が無言で傘を差しだしている。
わずかな微笑み。傘を無理矢理健二に握らせると、自分は雨の中を屋敷に戻っていった。
お絹が見えなくなると、健二は
「ああ、やっぱりお前はお前だな」ひとりつぶやく。
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その夜。旅籠で夕食を頂く。一汁三菜、焼いた川魚と野菜の煮物、あと香の物。この時代の標準的な宿の夕食だ。
飢饉で人の出入りが少ないせいだろう、その日の客は健二だけだった。そこへ暇そうな番頭が酒を持って来て座り込み、世間話を始めた。
「立山屋さん、矢内のお嬢さんに会われたか」
「ええ。気丈なお方で」
番頭は健二に酒を勧め、自分もしばらく黙って酒をすする。
「あのお嬢さん、去年の秋にお母上様を亡くされてな。長患いの末だった。それから矢内のお嬢さんが、父御の名代として家政も配給も、何もかも一人で背負ってるだ」
健二の盃を運ぶ手が止まる。それで吉兵衛さん籠もってしまってるのか。
「まだ二十二だべ。本来なら、嫁入りの話の一つもあって良え齢だ。んでも、お母上様の喪も明げねうちに、この飢饉さなった。矢内のお嬢さんに笑顔の時はねえなあ。不憫な事だべ」
黙って番頭の話を聞く。胸の奥で、何かが開く音がした気がした。なるほど、そういう事だったか。
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夕食後。部屋に戻った健二は薬の整理をしている。行灯だけでほの暗い。雑多な旅人が残した匂いと行灯の菜種油の匂いがせめぎ合う。
そんな時、ようやくチビが外から帰ってきた。芋を掘ってたくせに手足は綺麗だ。チート福猫は忙しそうですな。
「福猫サマおかえり」
「ただいま。百合子ちゃんどうだった?」
「うん、なんか大変そう。母親が亡くなって間がないのに家の業務半分背負わされて。そこにこの飢饉だ。今までの層の百合子の中でも一番優秀かも」
チビがこちらを見上げる。「そうじゃにゃいんだけどなー。まあ局限としてはそう見えるか」
「? だって別の人格なんだろ?」
「まあそうなんだけど。まあそこはおいおい。他には?」
屋敷で聞いたあの咳。痰の絡む咳。灰塵性のじん肺症の初期症状。普通はそんなに早く発症しないが、恐らくアレルギーなどと複合してるんだろう。
「気管と肺が結構ヤバい感じがする」
お絹の症状を説明する。チビは黙って聞いている。
「澪のとこで貰ったナノマシンって、抗菌剤って言ってたよな。じん肺は細菌が原因じゃないから効かないよな?」
「いいや? あの時は面倒臭いから抗菌剤って言ったけど、あれ人体なら何でもアリにゃ。ガンも骨折も便秘も治るよ」
「マジか。すげえな」
「勿論限度はある。例えばお前の残念な脳みそは治せないにゃ」
「病気扱いすんなや」
軽口を叩きながら、インベントリから医療用ナノマシンを取り出す。
ナノマシン、なんて言うから何か未来的なインジェクターみたいなものがあるのかと思いきや、単なる粉薬だった。直接見るのは初めてだ。パラフィン紙でシールされた少量の粉。ちょっと拍子抜けする。こんな古風な薬剤容器、21世紀でもほぼ見ないだろ。
「なんだか古くさい見た目だけど、こんなん動作するの?」
「形は問題じゃないにゃ。注射でもいいんだけど、粉薬か錠剤が一番楽でしょ。こいつらは勝手に体内に侵入して勝手に治療するにゃ。量もテキトーでいいにゃ」
取り出した粉薬を行李の奥、薬箱の二重底に移動させる。
「使うのは構わにゃいけど、おおっぴらにすんなよ? 大騒ぎになるにゃ」
「もちろん。お絹にだって、本当にこれしか無いって時しか使うつもりは無いよ」
「ならいいにゃ」
健二は薬箱を撫でた。父の代から使い古された竹細工の丈夫な箱。遙か遠い時から旅してきたものがそこにある。
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次の日、改めて庄屋屋敷を健二は訪れた。通用門で取次を頼み、土間の框の前に立つ。お絹が帳面を持って現れる。
健二は深く頭を下げる。「お絹様、昨日は商いのことばかりで失礼いたしました。ゑびすやの番頭から伺いまして……お母上様のこと、お察し申し上げます。お一人で、さぞお力落としのことと存じます」
お絹は一瞬、帳面を持つ手を止める。それから、ゆっくりと顔を上げる。
「……立山屋さん。ありがとう。皆、母のことはもう年も明けたからって、何も言わねえようになった。父も、村のもんも、誰も母の話はせん。気遣ってくれてるのは分かる、皆優しいんだ。んだども——」
お絹の言葉が、そこで途切れる。短く咳をする。
「んだども、忘れられでしまうのは、寂しいもんだな」
健二はもう一度深く頭を下げた。
「あと、これもありがとうございました」
と言って昨日借りた傘を差し出した。手入れはしてある。お絹は笑顔でそれを受け取った。
「では失礼を」と短く告げて屋敷を辞した。お絹は門まで見送ってくれた。ずいぶん好待遇な気がする。
雨のやんだ村は、一時的かもしれないがほんの少しだけ灰が薄くなったようで、かすかに雨上がりの香りがした。




