灰
階段を登ると、健二は獣道よりは少しマシ、といった程度の荒れた山道を歩いていた。深い緑と獣の匂い。うっすら曇った空が太陽を覆い、あたりはほの暗い。寒くも暑くもなく、季節がはっきりしない。葉の茂り方からみて秋だろうか。
慣れてきたとは言え急な状況の切り替わりに認識がワンテンポ遅れる。
この道は山の中腹にあるようだ。山側は鬱蒼とした木々が枝を揺らしている。谷側は少し開けて、見えない下からは川の流れる音が遠く聞こえてくる。谷の向こうにはまた山々が見える。
しかしよく見れば、木々の緑はくすんだ色だ。何か灰色のものが葉を薄く覆っていた。
見上げれば頭上の雲は太陽の光を少しだけ通している。しかし太陽の周りに散る光にわずかに色がついている。薄雲による散乱ではなく回折してる色彩。
……火山灰。
細かな火山灰が空を舞っているのだ。そう言えば僅かではあるが呼吸が苦しい。山の清涼さが全くない。
待っていたかのように、この時代の記憶が流入する。
現在は天明3年の秋。この火山灰は夏の浅間山大噴火によるものだ。噴煙は東に流れて東北一帯に甚大な農被害をもたらした。噴火直後は昼でも暗く、一ヶ月ほど経過した今でも空には火山性の微粒子が滞留し、火山ガスは成層圏まで達して日差しを遮っている。大きな粒子は生育中の田畑に降り注ぎ、収穫が近づいていた作物を全てダメにしていた。
今の健二は、旅の薬売り・宗次郎、越中富山の薬種商「立山屋」の主。正式な名字はなく屋号を名字の代わりとして名乗っている。いわゆる富山の薬売りだ。
父である宗右衛門の代から東国・奥州を巡る。28才、独り身。この時代としては背丈も高めでしなやかな体躯を持っている。立山屋は富山でも古い家で、その家訓に「奥州は立山屋の本懐の地」がある。元禄の昔、江戸城内で三春藩のお殿様が激痛に倒れられた折、富山の前田公の反魂丹で救われた、その縁を立山屋は商家の誇りとしている。
だから他の売薬商人が飢饉と聞いて奥州を避ける今年も、むしろこういう時こそ三春の縁に応えるべきだ、困っているなら薬も必要だろう、という思いから奥州まで足を伸ばしてきた。ここに来るのは2年ぶりとなる。
奥州街道を北上し、白河街道に折れてしばし。陸奥国白河郡の山間の村に近づいている。今回の目的地。
「目は覚めたかにゃ」
足下にはトラ猫チビがいた。相変わらず毛艶がいい。太ってはいないが、この時代の犬猫のようにガリガリに痩せていたりもしない。宗次郎の基準ではメチャクチャ違和感のある姿だ。
「いい加減慣れた。しかしお前、そのワガママボディって時代考証的にどうなの」
チビは「ふふーん」とでも言いたげな表情でこちらを向く。
「いいのよ、俺様、ここでは福猫って設定だから」
「ふーん福猫ねえ。昔の福猫って黒猫なんじゃなかったっけ? てか、猫ってこの時代は貴族階級のペットなんじゃね?」
「黒猫とは限らなかったはずにゃ。それに俺様が貴族みたいなもんだから問題無いし。ま、気にすんな」
テキトーなのも相変わらずのようだ。
「平常運転だな。あ、そうそう、記憶に天明3年ってあるけど西暦何年だっけ?」
「1783年。天明の大飢饉、って奴の真っ最中だな」
「ああー、そんなんあったな。日本史の授業は好きだったけど年号はもう有名どころしか覚えてないや。たしか日本最大の飢饉なんだっけ」
「そそ。8月に浅間山と、その直前にもヨーロッパでも大噴火があって、北半球全部がパーにゃ」
「またエラい時代に来たもんだな」
灰で色あせた山道をしばらく歩いて行くと、山の中腹に平らな土地があり、そこに村があった。田畑も広がっており、そこそこの規模である。
しかし本来なら実りの秋のはずのこの季節、田畑に黄金色は見えなかった。見渡す限りの灰色と茶色。
行き交う人々にも覇気が無い。無理もない、史上例を見ないほどの大飢饉だったはずだ。村全体が暗く沈んでいる。
村に到着。粗末な家並み。午後の生活音。人里の雑多な匂い。入ってすぐに村の市があり、そこには農民向けであろう配給の列があった。
雑炊、と呼ぶには薄すぎる粥が子供たちの持つ小さな椀に配られている。配給を仕切っているのは庄屋屋敷の使用人らしい。村の奥、遠目に庄屋の屋敷が見える。それなりに人の出入りも多いようだ。こういう情勢なら、それは忙しいだろう。
日が傾いてきていた。ハシブトガラスが「カー」と澄んだ声で鳴いている。市を過ぎて健二はここに来た時の常宿としている旅籠を訪ねた。番頭が見知った顔を見て破顔する。チビはいつの間にか消えていた。どこに行ったんだろうか。
「立山屋さん、こんな時さよく来らったなあ」
と迎えてくれる。番頭は立山屋の家訓を知っている古い馴染みだ。まだ30にもなっていないだろうに、一人で旅籠を切り盛りしている。
こんな村の有様では余り客はいないのだろう、彼は手持ち無沙汰にしていた。番台で帳簿に記名すると、健二は早速情報交換を始める。
「村の様子はどうだい」
番頭は少し暗い顔になって話す。
「良くねえだ。田沼が農民を軽視しててただでさえ農地の景気悪いのに、そこにこの噴火だ。ひとたまりも無かったべ」
「そうかい」
「んだから村のもんは銭なんぞ持ってねえぞ。米一合買うのもやっとだ。薬のお代なんてとても」
「立山屋は先用後利。今は薬を置いてくだけで結構。代金は来年、ご都合のつく時に、だ」
「やっぱり富山の薬売りはちがうな」
姿の見えないチビの念話が入る。
『田沼意次の重商主義ってやつだな』
『どこにいるんだよお前』
『福猫稼働中』
なんじゃそりゃ。
「でも、うちの藩のお殿様は立派な方でなあ。藩として餓死者を出さぬよう必死に救恤を回してくれてるだ」
『白河藩の藩主、松平定信だな。暴れん坊将軍の孫』
『暴れん坊将軍って?』
『変身ヒーローと一緒に悪を成敗した大将軍』
『…………』
訳分からん猫はもう放置。ジェネレーションギャップが酷い。
「それはそれは大した藩主だね。でもそれにしては村の人たち暗くないかい?」
「ああ。お殿様もこげな僻地までは手が回らんみたいだべ。どうも代官の堀田が藩から回ってきた資材を横流ししてるって噂もあるだ」
ああ、時代劇でありがちな悪代官って奴か。今までの層では無かったパターンだな。
「幸い矢内の庄屋さんが良い人でな。そこの娘さんが必死で配給を仕切ってんだ。あの娘っ子いねがったら、もう何人死んでだか分かんねえべ」
「へー。娘さん?」
前回来た時には聞かなかったな。
「あれ? 庄屋って吉兵衛さんじゃなかったっけ?」
番頭が、「ああ」と拳で膝を打つ。
「そうなんだが、今は娘のお絹さんがやりくりしてる。まだ22だったかな。よく出来た娘っ子だべ」
「ふーん。それは大したもんだな」
番頭と話していると、外から子供たちが騒ぐ声が聞こえてきた。だんだん近づいてくる。嬉しそうな声だ。この状況でいったい?
「なんだべ?」
と首をかしげる番頭と暖簾を捲って外を見ると、子供たちの一団が山の方から何か両手に沢山持ってやってきていた。そしてその集団の先頭には何故かチビ。何か咥えて、胸を張って歩いている。
『何してんのお前』
『だから、福猫ムーブ』
よく見ると、その口に咥えているのは何かの蔓のようだ。子供たちは口々に
「福猫様の後ついでったら、芋いっぺえあったぞ」
などと言い回っている。周りの大人たちも歓声をあげた。これで少しだけでも命が延びる。
周りの大人たちは、チビに手を合わせて祈っている。感謝の祈り? いやあコイツにとって芋探し当てるとか容易だし、そんな感謝は要らないよなあ、と思う健二。でも良い事には違いない。
ただ。笑顔の子供たちだが、結構な頻度で咳をしている。少しだけ苦しそうだ。この火山灰の中を出歩けば肺も痛むに違いない。この時代にマスクなんか無いのだから。
「おーい、わっぱども集まれー」
旅籠から外に出た健二は大声を上げる。旅籠を出て、薬箱を開けて中から咳止めの薬を取りだして子供たちに配った。
本来は売り物だが、最初はある程度サービスする事にしている。宗次郎の父親はそうやって村々の信用を勝ち取ってきた。情けは人のためならず、家訓とまではいかないものの立山屋の方針であった。
それに、この状況が不憫だなと思う心も大きい。商売的なものだけではなく、健二/宗次郎は彼らの助けになりたかった。
日が傾き西の山が陰を落とす。遠くからカラスの綺麗な鳴き声が響く。山の陰が灰を覆い隠していく。闇の匂いが村にしみ通っていく。




