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はじめましてを何度でも  作者: ぽんた7
第四章 密偵
27/34

旋律の温度


 健二は走り続けていた。


 北野の通りを抜け、油屋の裏手を遠回りに迂回してもう一度別の路地に入った。男を引き離したと判じる根拠はなかった。ただ走り続けるしかなかった。

 月が屋根の上をゆっくり傾いていった。


「健二」


 肩の上で、チビが低く言った。


「速さは保ってるが、お前もう30分も走っとるにゃ」


「分かってる」


「休めにゃ。追いつかれた時に対応できないだろ」


「……」


 戻ってねぐらに隠す…ねぐらはもう知られている。

 親方の店に置く…親方を巻き込むことになる。

 川に捨てる…女の任務を潰すことになる。

 燃やす…同じ。

…できることが何もなかった。

 走るしかなかった。


 健二は頭の中の地図を辿りながら、人気のない路地を選び、月の影が落ちる側を選び、屋根が低い場所を避けた…屋根が低ければ上から狙われやすい。


…もう一度、油屋に戻るか。

 健二の頭の中で、その選択が繰り返し浮かんでいた。

 油屋の離れ。あの女のところ。戸を叩いてこれを返せば終わる。

…けれど、女はきっと受け取らない。戻っても戸は開かないだろう。

…けれど、戻る場所はそこしかない。


 路地をもう一つ折れた。

…行き止まりだった。

 三方を、土塀と板塀に囲まれた袋小路。慎之助の地図にはない場所だった。


「健二、戻れ!」


 チビが叫んだ瞬間…

 健二の背後で、草履の音がした。軽い、しかし確かな足音。振り返ると路地の入口に人影。


…男。


 月明かりが、半分だけその輪郭を捉えていた。今度は油断はなく、刀の柄にすでに手がかかっていた。

 距離は約20mほど。

 男は、走らなかった。ゆっくりと歩み寄ってきた。

…もう逃さない、とその歩み方が言っていた。


 健二は構えを取った。


 構えを取った…が、構える意味はなかった。

 行き止まりで、刀を持った相手に徒手で対峙する。勝ち目はゼロに近い。さっきは油断と地形の利があった。今はどちらもない。


 パワーローダーを出す? 不意は突けるかもしれない。だがいくらリナ先輩のチューンで反応が早くても操作するのは人間だ。人間以上の反応速度は出せない。相手は達人、スケルトンをかいくぐってくるだろう。そうなったら詰む。


『チビ、瓦は』


『ここの屋根、瓦が薄いにゃ。落としても足止めにならんにゃ』


 健二は息を整えながら、頭の片隅で一つだけの選択肢を考えた。

…包みを男に投げる。

 男は必ずそれを受け止めるか足元に落とす。その一瞬で横を抜ける。包みを失うが、命は残る。


…女の任務は潰れる。


 健二の手が懐に動きかけた。


…できなかった。


 自分でも、なぜできないのか分からなかった。

 男は10mの距離まで間合いを詰めてきた。鯉口を切る。月の光がはばきに反射する。

 ダメ元でパワーローダーを男の進路に出現させ、その横をすり抜けようとした、その時。


 路地の奥、健二の斜め後ろから影が一つ滑り出てきた。

 脇を通り抜け健二の前に立った。風のように。


…あの女だった。


 藍の小袖。今度は髪を結っていた。昼間に擦れ違った時と同じ装い。

 右手に抜き身の刀。左手は空。


 健二の前に立って、男の方を見ていた。


…百合子。


 健二は、口の中でその名を呟いた。声にはならなかった。


 男の足が止まった。

 一瞬、目が見開かれた。健二に対して以前見せたのと同じ表情。想定外の手が出た時の表情。


 男の目に計算が走った。

…密偵の女が瓦版売りを庇いに出てきた。


 その意味が、男の中で組み立てられていく。密書は瓦版売りが持っている。瓦版売りは女と無関係ではない。ここで両方を斬れば密書も任務も潰せる。


 男は刀を抜いた。月明かりが刃を白く照らした。


「動くな」


 女の右手の刀が構えられた。


 男は女の言葉を無視して踏み込んだ。

 速かった。

…フレームスキップはなかった。

 通常の剣士の踏み込み。だがそれでも、健二の目では追えない速度だった。


 女の刀が打ち込みを受けた。薄い鋼と鋼がぶつかる高い音。

 女の左手が健二の胸を押した。戦いの邪魔にならない位置まで退かせる動き。健二の意思は聞かれなかった。

 健二は土塀に背中を押し付けた。動けなかった。

 動かなかった、のではない。動いてはいけないことを女の手の押し方が教えていた。


 女の刃と男の刃が、二度、三度とぶつかった。

 健二には、それが見えなかった。

 影と影が、月明かりの下で絡んで離れてまた絡んだ。音だけがはっきりしていた。鋼の音、足の運びの音、息の音。


…女は、強かった。


 健二は、それを目ではなく音の運びで察した。


 男と対等に打ち合っていた。対等以上…いや、男を押していた。男のフレームスキップは出ていなかった。出させない打ち方を女がしていた。


 健二は女の背中を見ているだけ。

 藍の小袖の背中の縫い目。それだけがはっきり見えた。


 影が、一瞬止まった。

 男の左の太腿に、一筋の赤が走った。浅い斬り傷。

…致命傷ではない。動きを止めるための一撃。


 男は、よろめいた。体勢を立て直そうとした。

 女の刀がもう一度振られた。今度は空を斬った。男の鼻先、髪をひと房、刃が掠った。

 男の目が見開かれた。

…次は首だ、と、その目が読んだ。


 男は、退いた。一歩、二歩、三歩。

 それから、振り返らずに走り去った。路地の入口から消えた。

 男の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


 路地に、月明かりだけが残った。

 女は、刀を構えたまましばらく動かなかった。男が本当に去ったかを確かめている。

 三十秒。

 一分。

 女の肩が、ようやくわずかに下がった。

 路地から鞘を拾い、刀を納める音が夜の路地に低く響いた。


 女は、振り返り健二の方を見た。

…昼に離れで見たのと同じ顔だった。


 表情はなかった。斬り合った直後の女の顔ではなかった。冷えていた。すでに密偵の顔に戻っていた。


「返して」


 女が低く言った。


「それ。返して」


 女は、健二の懐の方を見た。

 健二は、自分の手が無意識に懐の油紙を押さえていることに気づいた。


…今度は受け取る、と女は言っていた。


 昼の「私のもんやない」は、嘘だった。

 嘘を吐く必要が、もうなくなった。男が健二を認識した以上、健二はもう外側にいる権利を失っていた。だから女は今度は受け取る。

 健二はゆっくりと、懐から油紙の包みを取り出し両手で握り差し出す。


 女の手が伸びた。

 受け取ろうとしたその瞬間、包みを握ったまま女の手からわずかに引いた。

 女の指先が、油紙に触れて止まる。

 女が、健二の顔を見た。

 何を言うつもりか、とその目が訊いていた。


 健二は、口を開かなかった。

 言葉は用意していなかった。

 用意したところで届かないことを、健二は昼の対面で知っていた。


…けれど、もう一つ残っていた。


 健二の左手が油紙を握ったまま、右手だけが肩のチビに伸びた。

 チビの首輪の金色のオーナメントに、指先が触れた。


 チビが低く囁いた。


『届くか、わからんにゃ』


『分かってる』


 健二は、オーナメントの真ん中の僅かな窪みを人差し指で押した。


 鼻歌が流れた。

 路地の月明かりの下で。

 健二の肩の高さから、低く控えめに流れた。


…百合子の鼻歌。


 子供の頃の。澪が追いかけていた、旋律の終わりの方の部分。


 澪が集めたすべての変奏。その最も基礎的な一節。

 健二の知らないところで録られた、百合子自身の声の本物の鼻歌。


 女の指先が、油紙に触れたまま動かなくなった。

 顔が健二の方を向いていた。

 表情は…変わらなかった。


…呼吸が止まった。

 女の胸が、上下しなくなった。一秒。二秒。三秒。


 女の目の焦点がほんの僅か、健二の顔から別のところにずれた。


 鼻歌は、続いていた。健二の肩の首輪から。

 短い旋律だった。ひと節、終わるまでもう三秒。


 女の唇が、半分だけ開いた。

 何か呟こうとしていた。

…音にはならなかった。


 唇の動きを健二は見ていたが、何の言葉だったか分からなかった。


 女の首がわずかに傾きかけた。

…笑う時の首の傾きだった。

環の、あの癖。


…けれど、傾きは半分で止まった。


 女の意志が首を戻した。

 戻して、表情をもう一度消した。


 鼻歌のひと節が終わった。路地にまた沈黙が戻った。女は呼吸を再開した。

 一度だけ、深く息を吸った。

…怒った時の癖。


 新しい癖。

 女は、ゆっくりと健二を見た。

 焦点が戻っていた。

 表情はもう密偵の顔だった。


 女の指先が油紙の包みを握り、健二の手から引き取った。

 その瞬間、女は健二を見ていなかった。視線を油紙に落としていた。


「……ありがとう」


 低く女が言った。


 言ってから、自分でもその言葉を吐いたことに、わずかに驚いたような顔をした。


 健二も驚いていた。


「あんた」


 健二は、口を開いた。


「あの鼻歌…」


「あんたには、関係ない」


 女は言った。二度目だった。


 昼に、離れで聞いたのと同じ言葉。


…けれど声が違った。


 昼は平らだった。

 今はわずかに揺れていた。


 揺れたまま女は続けた。


「何のことか知らん。鼻歌も知らん。全部、知らん」


「……」


「知らんから、関係ないんよ」


 女は、もう何も見ていなかった。

 油紙の包みを懐にしまった。


 しまい終えてから、女は健二にわずかに頭を下げた。

 一度だけ。短く。


 それから、女は踵を返した。

 路地の入口の方、男が消えた方とは別の方角に歩き出した。一度も振り返らなかった。


 草履の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 健二は土塀に背中をつけたまま、しばらく動けなかった。

 月の光が、路地の真ん中を照らしていた。

 油紙の包みは、もう懐にはなかった。


…役目は果たされた。


 健二は低く口の中で呟いた。


「健二」


 肩のチビが口を開いた。


「届いたかにゃ」


「……分からん」


「首は、傾きかけたにゃ。ほんの少しは、届いたんかも知らんにゃ」


 健二は、答えなかった。


 答えなかったが、自分の手のひらがまだ温かいことに気づいていた。

 油紙の包みを握っていた手のひら。女の指先がその表面に触れていた。

 触れた指先の温度が、まだ健二の手のひらの皮膚に残っていた。


 健二は、土塀から身を離し月明かりの下を歩き出した。

 行き先はねぐらだった。

 男は、たぶんもう来ない。今夜も、明日も。密書を持っているのは健二ではなくなったから。


 健二は、もう追われる側ではなかった。


 健二は、振り向かなかった。



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