旋律の温度
健二は走り続けていた。
北野の通りを抜け、油屋の裏手を遠回りに迂回してもう一度別の路地に入った。男を引き離したと判じる根拠はなかった。ただ走り続けるしかなかった。
月が屋根の上をゆっくり傾いていった。
「健二」
肩の上で、チビが低く言った。
「速さは保ってるが、お前もう30分も走っとるにゃ」
「分かってる」
「休めにゃ。追いつかれた時に対応できないだろ」
「……」
戻ってねぐらに隠す…ねぐらはもう知られている。
親方の店に置く…親方を巻き込むことになる。
川に捨てる…女の任務を潰すことになる。
燃やす…同じ。
…できることが何もなかった。
走るしかなかった。
健二は頭の中の地図を辿りながら、人気のない路地を選び、月の影が落ちる側を選び、屋根が低い場所を避けた…屋根が低ければ上から狙われやすい。
…もう一度、油屋に戻るか。
健二の頭の中で、その選択が繰り返し浮かんでいた。
油屋の離れ。あの女のところ。戸を叩いてこれを返せば終わる。
…けれど、女はきっと受け取らない。戻っても戸は開かないだろう。
…けれど、戻る場所はそこしかない。
路地をもう一つ折れた。
…行き止まりだった。
三方を、土塀と板塀に囲まれた袋小路。慎之助の地図にはない場所だった。
「健二、戻れ!」
チビが叫んだ瞬間…
健二の背後で、草履の音がした。軽い、しかし確かな足音。振り返ると路地の入口に人影。
…男。
月明かりが、半分だけその輪郭を捉えていた。今度は油断はなく、刀の柄にすでに手がかかっていた。
距離は約20mほど。
男は、走らなかった。ゆっくりと歩み寄ってきた。
…もう逃さない、とその歩み方が言っていた。
健二は構えを取った。
構えを取った…が、構える意味はなかった。
行き止まりで、刀を持った相手に徒手で対峙する。勝ち目はゼロに近い。さっきは油断と地形の利があった。今はどちらもない。
パワーローダーを出す? 不意は突けるかもしれない。だがいくらリナ先輩のチューンで反応が早くても操作するのは人間だ。人間以上の反応速度は出せない。相手は達人、スケルトンをかいくぐってくるだろう。そうなったら詰む。
『チビ、瓦は』
『ここの屋根、瓦が薄いにゃ。落としても足止めにならんにゃ』
健二は息を整えながら、頭の片隅で一つだけの選択肢を考えた。
…包みを男に投げる。
男は必ずそれを受け止めるか足元に落とす。その一瞬で横を抜ける。包みを失うが、命は残る。
…女の任務は潰れる。
健二の手が懐に動きかけた。
…できなかった。
自分でも、なぜできないのか分からなかった。
男は10mの距離まで間合いを詰めてきた。鯉口を切る。月の光がはばきに反射する。
ダメ元でパワーローダーを男の進路に出現させ、その横をすり抜けようとした、その時。
路地の奥、健二の斜め後ろから影が一つ滑り出てきた。
脇を通り抜け健二の前に立った。風のように。
…あの女だった。
藍の小袖。今度は髪を結っていた。昼間に擦れ違った時と同じ装い。
右手に抜き身の刀。左手は空。
健二の前に立って、男の方を見ていた。
…百合子。
健二は、口の中でその名を呟いた。声にはならなかった。
男の足が止まった。
一瞬、目が見開かれた。健二に対して以前見せたのと同じ表情。想定外の手が出た時の表情。
男の目に計算が走った。
…密偵の女が瓦版売りを庇いに出てきた。
その意味が、男の中で組み立てられていく。密書は瓦版売りが持っている。瓦版売りは女と無関係ではない。ここで両方を斬れば密書も任務も潰せる。
男は刀を抜いた。月明かりが刃を白く照らした。
「動くな」
女の右手の刀が構えられた。
男は女の言葉を無視して踏み込んだ。
速かった。
…フレームスキップはなかった。
通常の剣士の踏み込み。だがそれでも、健二の目では追えない速度だった。
女の刀が打ち込みを受けた。薄い鋼と鋼がぶつかる高い音。
女の左手が健二の胸を押した。戦いの邪魔にならない位置まで退かせる動き。健二の意思は聞かれなかった。
健二は土塀に背中を押し付けた。動けなかった。
動かなかった、のではない。動いてはいけないことを女の手の押し方が教えていた。
女の刃と男の刃が、二度、三度とぶつかった。
健二には、それが見えなかった。
影と影が、月明かりの下で絡んで離れてまた絡んだ。音だけがはっきりしていた。鋼の音、足の運びの音、息の音。
…女は、強かった。
健二は、それを目ではなく音の運びで察した。
男と対等に打ち合っていた。対等以上…いや、男を押していた。男のフレームスキップは出ていなかった。出させない打ち方を女がしていた。
健二は女の背中を見ているだけ。
藍の小袖の背中の縫い目。それだけがはっきり見えた。
影が、一瞬止まった。
男の左の太腿に、一筋の赤が走った。浅い斬り傷。
…致命傷ではない。動きを止めるための一撃。
男は、よろめいた。体勢を立て直そうとした。
女の刀がもう一度振られた。今度は空を斬った。男の鼻先、髪をひと房、刃が掠った。
男の目が見開かれた。
…次は首だ、と、その目が読んだ。
男は、退いた。一歩、二歩、三歩。
それから、振り返らずに走り去った。路地の入口から消えた。
男の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
路地に、月明かりだけが残った。
女は、刀を構えたまましばらく動かなかった。男が本当に去ったかを確かめている。
三十秒。
一分。
女の肩が、ようやくわずかに下がった。
路地から鞘を拾い、刀を納める音が夜の路地に低く響いた。
女は、振り返り健二の方を見た。
…昼に離れで見たのと同じ顔だった。
表情はなかった。斬り合った直後の女の顔ではなかった。冷えていた。すでに密偵の顔に戻っていた。
「返して」
女が低く言った。
「それ。返して」
女は、健二の懐の方を見た。
健二は、自分の手が無意識に懐の油紙を押さえていることに気づいた。
…今度は受け取る、と女は言っていた。
昼の「私のもんやない」は、嘘だった。
嘘を吐く必要が、もうなくなった。男が健二を認識した以上、健二はもう外側にいる権利を失っていた。だから女は今度は受け取る。
健二はゆっくりと、懐から油紙の包みを取り出し両手で握り差し出す。
女の手が伸びた。
受け取ろうとしたその瞬間、包みを握ったまま女の手からわずかに引いた。
女の指先が、油紙に触れて止まる。
女が、健二の顔を見た。
何を言うつもりか、とその目が訊いていた。
健二は、口を開かなかった。
言葉は用意していなかった。
用意したところで届かないことを、健二は昼の対面で知っていた。
…けれど、もう一つ残っていた。
健二の左手が油紙を握ったまま、右手だけが肩のチビに伸びた。
チビの首輪の金色のオーナメントに、指先が触れた。
チビが低く囁いた。
『届くか、わからんにゃ』
『分かってる』
健二は、オーナメントの真ん中の僅かな窪みを人差し指で押した。
鼻歌が流れた。
路地の月明かりの下で。
健二の肩の高さから、低く控えめに流れた。
…百合子の鼻歌。
子供の頃の。澪が追いかけていた、旋律の終わりの方の部分。
澪が集めたすべての変奏。その最も基礎的な一節。
健二の知らないところで録られた、百合子自身の声の本物の鼻歌。
女の指先が、油紙に触れたまま動かなくなった。
顔が健二の方を向いていた。
表情は…変わらなかった。
…呼吸が止まった。
女の胸が、上下しなくなった。一秒。二秒。三秒。
女の目の焦点がほんの僅か、健二の顔から別のところにずれた。
鼻歌は、続いていた。健二の肩の首輪から。
短い旋律だった。ひと節、終わるまでもう三秒。
女の唇が、半分だけ開いた。
何か呟こうとしていた。
…音にはならなかった。
唇の動きを健二は見ていたが、何の言葉だったか分からなかった。
女の首がわずかに傾きかけた。
…笑う時の首の傾きだった。
環の、あの癖。
…けれど、傾きは半分で止まった。
女の意志が首を戻した。
戻して、表情をもう一度消した。
鼻歌のひと節が終わった。路地にまた沈黙が戻った。女は呼吸を再開した。
一度だけ、深く息を吸った。
…怒った時の癖。
新しい癖。
女は、ゆっくりと健二を見た。
焦点が戻っていた。
表情はもう密偵の顔だった。
女の指先が油紙の包みを握り、健二の手から引き取った。
その瞬間、女は健二を見ていなかった。視線を油紙に落としていた。
「……ありがとう」
低く女が言った。
言ってから、自分でもその言葉を吐いたことに、わずかに驚いたような顔をした。
健二も驚いていた。
「あんた」
健二は、口を開いた。
「あの鼻歌…」
「あんたには、関係ない」
女は言った。二度目だった。
昼に、離れで聞いたのと同じ言葉。
…けれど声が違った。
昼は平らだった。
今はわずかに揺れていた。
揺れたまま女は続けた。
「何のことか知らん。鼻歌も知らん。全部、知らん」
「……」
「知らんから、関係ないんよ」
女は、もう何も見ていなかった。
油紙の包みを懐にしまった。
しまい終えてから、女は健二にわずかに頭を下げた。
一度だけ。短く。
それから、女は踵を返した。
路地の入口の方、男が消えた方とは別の方角に歩き出した。一度も振り返らなかった。
草履の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
健二は土塀に背中をつけたまま、しばらく動けなかった。
月の光が、路地の真ん中を照らしていた。
油紙の包みは、もう懐にはなかった。
…役目は果たされた。
健二は低く口の中で呟いた。
「健二」
肩のチビが口を開いた。
「届いたかにゃ」
「……分からん」
「首は、傾きかけたにゃ。ほんの少しは、届いたんかも知らんにゃ」
健二は、答えなかった。
答えなかったが、自分の手のひらがまだ温かいことに気づいていた。
油紙の包みを握っていた手のひら。女の指先がその表面に触れていた。
触れた指先の温度が、まだ健二の手のひらの皮膚に残っていた。
健二は、土塀から身を離し月明かりの下を歩き出した。
行き先はねぐらだった。
男は、たぶんもう来ない。今夜も、明日も。密書を持っているのは健二ではなくなったから。
健二は、もう追われる側ではなかった。
健二は、振り向かなかった。




