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はじめましてを何度でも  作者: ぽんた7
第四章 密偵
26/34

屋根瓦の戦


 その夜、月は半分だった。

 自分のねぐらで健二は文机の前に座っていた。月明かりだけが障子の格子を畳の上に落としていた。

 油紙の包みは文机の上に置いてあった。健二はそれを開けても捨ててもいなかった。それが健二に出来る唯一の判断だった。


「健二」


 文机の脇で、チビが、香箱を組んでいた。


「寝るにゃ」


「ああ」


 健二は答えたが、動かなかった。

 動かなかった理由を自分でも分かっていなかった。ただ、身体が布団に入ろうとしなかった。


 その時、チビが香箱を解いた。


「……健二」


 声が低く変わっていた。

 健二が振り向くとチビは立ち上がっていた。耳がぴんと立つ。前足を揃えて文机の縁にかけ、外を見ていた。


「どうした」


「屋根瓦の上で寝てた雀が三羽いっぺんに飛んだ」


「……」


「雀は飛ぶときに鳴くにゃ。今は鳴かないで飛んだ」


 チビが小さな声で言った。


「何か来たにゃ」


 健二の身体が勝手に動いた。

 B29の爆撃を避けた経験。戦場での生存術は頭で考えてからでは間に合わない。身体が先に動いて頭が後から追いつく。


 健二は、文机の油紙の包みを懐に押し込むと行灯の油皿を左手で握って立ち上がる。油皿は重い陶器…咄嗟の鈍器になる。


「チビ、位置」


「三軒先の屋根の上に一人」


「武器は」


「刀。脇差しと2刀」


 健二は息を一つ吐いた。家の中で刀と戦ったら勝ち目はない。

 狭い、暗い、足場が悪い、退路が一つしかない。刀の振りには不利かも知れないが、突きには絶好の場所だった。

 健二は土間に降り、裏口の腰高障子に手をかけた。

 表の戸ではなく、そもそも人が通るようには出来ていない。表に出れば屋根の上から見下ろされる。ここからなら隣家との間の細い路地に出られる。両側を土塀と板塀に挟まれた、天秤棒一本ぶんの幅しかない暗い隙間。その路地を戦場に選んだ。


 裏口を音を立てずに開けた。

 路地には月の光が届かなかった。漆黒だった。健二は、目が暗闇に慣れるのを待つ余裕すらなかった。チビが肩から飛び降りた。


「健二、俺様は屋根に上がるにゃ」


「ああ」


「敵の位置、上から伝えるにゃ。お前は路地の真ん中で構えとけ」


「分かった」


 チビは、土塀の凹凸を音もなく駆け上がる。健二は路地の真ん中に立った。左手に油皿。右手は空。


 路地の上空で屋根瓦がずれる音がした。

 健二は視線を上げなかった。三半規管を水平に保つ。視線は路地の地面に置いた。地面に影が落ちる…影で相手の位置を読む。

 月は半分だがこの時代なら十分に明るい。


『健二』


 念話に切り替えたチビの声が降ってきた。


『右の塀の上、男一人、両刀。年は二十五前後にゃ』


『……』


『あの羽織の模様は新選組だな。目はお前を見とる。まだ動かん』


 健二は地面の影を見続けた。右の塀の上に、確かに人の形の影が落ちていた。ぴくりとも動いていなかった。


…こちらの出方を見ている。


 新選組と思しき男は、健二が素人の瓦版売りだと思っている。素人なら震えるか逃げるか叫ぶか。そのどれもしない健二を男は訝しんでいる。

 健二は、油皿をゆっくりと持ち上げた。

 投げる構え…のように見える動き。実際は投げない。投げれば油皿は失われ、健二は左手も空になる。

 男の影がわずかに動いた。…油皿を投げられる、と読んだ。

 健二の方が、僅かに早かった。油皿を塀の側面に軽く放った。

 油皿は塀に当たり割れた。陶器の砕ける音が夜の路地に響いた。油が塀の表面に飛び散った。

 男の視線が油皿の砕け音の方向に、一瞬引かれた。その一瞬の間に…屋根の上の影が消えた。


『健二、消えたにゃ!』


 チビが、屋根の上から叫んだ。


『方角は!』


『前! すぐ前に出るにゃ!』


 健二は、視線を地面から戻し前を見たが何も見えなかった。


…暖簾。

 ねぐらの裏口の軒下に下げてあった古い暖簾が、風も無いのにふわりと揺れた。


…男が出現する直前の空気の動き。

 健二の身体が反射的に動いた。半歩前に踏み込んで距離を潰す。


 出現するであろう位置は健二の正面、間合いの先端…そこに健二はいない。もう間合いの内側に入っていた。

 男がフレームをスキップして出現した。刀の柄に手をかけ、抜こうとする姿勢で出現した。


…その時には健二はもう目の前にいた。

 男の目が僅かに見開かれた。


 男の右手は刀の柄にあり、健二の右手は男の右手首を捉えていた。


 自衛隊格闘術の小手返しを応用する。手首の関節を外側にひねって刀の抜きを止める。男の右手は刀を抜けなかった。

 男は瞬時に左手で脇差を抜こうとした。腰の脇差…刀より短く、近距離で振りやすい。

 しかし健二の左肘が、先に動き男の左肩を肘で押した。腕を上げさせない。脇差の柄に左手が届かない。


 その間、約一秒。


 男は右手も左手も使えない。健二は空いた左手を握り、拳を男の側頭部に打ち込んだ。こめかみの少し下。

 ぐら、と男の身体が傾いた。


「にゃーっ!!」


 チビが屋根の上で叫んだ。同時に屋根瓦が一枚、男の足元に落ちた。瓦が砕ける音と男が傾く動きが重なった。

 男の右足が瓦の破片を踏んだ。足場が崩れた。

 健二はその瞬間に手首を放して距離を取った。バックステップ三歩。


 男は、よろめいたが倒れなかった。倒れなかったが、立て直すのに二秒必要とした。

 その二秒の間に、健二は路地の奥へと走っていた。


 路地は二度折れていた。

 健二は月明かりだけの中、二度とも迷わずに折れた。京の二年で周辺の路地は頭の中に地図として入っていた。


 チビが屋根を伝って追ってきた。


「追ってきてるか!?」


「まだ、立ち直り中にゃ! でも、すぐに来るにゃ!」


「抜け道あるか!?」


「右、二つ目を左! 表通りに出るにゃ!」


 健二は走る。二つ目の路地を左に折れた。広めの通り…夜店の片付けの最中の、四条通の細い枝道に出た。


 路地の出口で健二は足を止め、息を整えた。

…ここなら、人目がある。


 夜店の親父が提灯を片付けている。猫を抱いた女が通り過ぎた。男は、恐らく人目のある場所では襲ってこない。新選組の密偵という立場なら目撃者を避けるはずだ。


 チビが屋根から健二の肩に降りてきた。


「健二」


「ああ」


「よく堪えたにゃ」


「……二回目だな、それ」


「二回目にゃ」


 チビは、小さく笑うように尾を揺らした。


 心臓が早く打っていた。今になって手の震えが始まった。男の手首を捉えた感触がまだ右手に残っていた。


…素人の瓦版売り、と男は思っていた。

 その油断が健二の一手を可能にした。油断がなければ健二の右手は男の手首に届かなかった。


 たった一手。

 二手目はなかった。続ければ男は本気を出した。本気の剣士に健二は勝てない。それは戦った瞬間に痛いほど分かった。


「健二」


 チビが、低く言った。


「やつ、一旦退いたみたいにゃ」


「そか」


「けど、覚えられた」


「だな」


「次は油断なしで来るにゃ」


「分かってる」


 健二は、四条通の枝道の提灯の橙色の光の中に立っていた。

 懐の油紙の包みは、ずれてもいなかった。

…この包みのために襲われた。

 健二は、それを戦いの最中に確信していた。


 男がねぐらの上に立った時、健二の中で点が線になった。

 倒れていた男。

 血を拭っていた女。

 屋根の上で動いた、何か。

 四条通で、肩がぶつかった一秒。

…全部繋がっていた。


 そして、繋がりの中心にあるのはこの包みだった。懐にある、開けていない、捨てられない、油紙の包み。

…密書。


 健二は、夜店の親父に頭を下げて枝道を抜けた。

 表通りには出なかった。表通りは人目があるが、同時に見られる。健二は別の路地を選んで油屋の方角へ歩き始めた。


「健二」


 チビが、肩の上で言った。


「北野に戻るのか」


「ああ」


「百合子のとこ」


「……あの女のとこ」


 健二は、低く訂正した。


 あの女が百合子だという確信はあったが、チビがそれを言っちゃダメだろう。

 それに。健二は女が百合子であってほしくない、との思いもあった。


 油屋の母屋の裏手に着いたのは、夜の九ツを過ぎてからだった。

 離れの戸は、閉まっていた。

 健二は、戸を叩こうとして…止まった。

…叩けば、女がまた「私のもんやない」と言う。言われてしまう。


 きびすを返して戸の前を離れて、油屋の裏路地を抜けた。

 北野の通りに出た。

 通りには、人気がなかった。月の光だけが土の道に長く落ちていた。


「健二」


 チビが、囁いた。


「また追跡が来る。走るにゃ」


「ああ」


 健二は、走り出した。

 懐の油紙の包みを片手で押さえながら、京の北野の夜道を走った。

 振り返らなかった。



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