あんたには
翌日には雨は上がった。
健二は、油紙の包みを懐に入れたまま店に出た。
店に置いてくることもしなかった。ねぐらに置いていけば誰かに見つかるかも知れない。懐に入れて自分の身体の側に置いておく。それが健二に出来る唯一のことだった。
朝、ねぐらを出る間際チビが訊いた。
「で、どうするにゃ」
「探す」
「なにを」
「あの女を」
チビはしばらく健二を見ていた。それから短く言った。
「そかにゃ」
店に着くと親方は刷り台を整えていた。
「親方、今日も少し外回り出てもよろしいか」
「ほう、自分から出るんか。雨上がりは足元悪いで」
「絵草子屋はんとこ、心中もんの売れ行き訊いてきます」
「ほうか。ほな、ついでに北野の方の油屋にも寄ってきい。先月の付けまだ取り立ててへん」
「分かりました」
健二はほっとした。親方は、健二が普段とは違うことをしようとしているのに気づいている…それは健二にも分かった。だが訊かなかった。仕事を二つ三つ重ねてくれることで、健二の動きを表向き「外回り」に紛れさせてくれていた。
京の二年でこういう人と仕事をしていたのだ、と健二は思った。
店を出て健二は歩く。絵草子屋に寄り、心中ものの売れ行きを訊いた。婆さんは「あんまし出てへん」と零した。雑談に紛れて健二は訊いた。
「婆さん、最近この辺りで武家風の女、見かけへんか」
「武家風の女?」
「藍の小袖で、髷の形が町方やのうて、ちっと変わった結い方の」
「ああ、お松さんやろ」
健二の指先が、わずかに動いた。
…四条通で、茶屋の女将がそう呼んでいた。
「お松さん、いう人ですか」
「先月くらいから、ぽつぽつ顔見るな。何や、油屋の権助さんとこの離れにひと月の約束で借りてはるとか聞いた。あんたの言うてる人とは別人かも知らんけど」
「油屋の権助さん」
「北野の方や」
健二は頷いた。
「お松さんいう人、ようは何者なんやろね」
婆さんは煙管を吸いながら、首を傾げた。
「何や、ご亭主と死に別れて京で一人暮らしを始めはった、いう話やったような。けど、それも本人が言うた話やのうて、権助さんとこの女中が小耳に挟んだだけの話やからな。京にはそういう女いくらでもおる」
「そうですね」
健二は、礼を言って絵草子屋を出た。
北野の油屋は店の構えこそ大きかったが、奥に細長い造りで母屋の裏に小さな離れが付いていた。表通りからは見えない位置だった。
健二は、まず母屋に寄って付けの取り立てを済ませた。権助は人の良い男ですぐに銭を出した。受け取って礼を言った後、健二は何気なく訊いた。
「権助さん、こちら、離れがありますんやな」
「ああ、貸してるんや。先月から、お武家の後家はんに」
「お一人で?」
「一人や。物静かな人で、手間のかからん店子や」
「家賃、お幾らで?」
「お前、何でそんなん訊くんや」
権助が訝しげに問う。
「いえ、江戸の親に仕送り考えとりまして。京で離れ借りるんにどんくらいかかるかと」
健二は、嘘を吐いた。親方の顔が浮かんだ…「事実と噂の境目に立って紙を売る男」が、嘘を一つ吐くのは商売の延長のようなものだった。
権助は笑って、相場の話を一つ二つしてくれた。健二は頭の片隅で離れの位置を確かめながら、適当な相槌を打って店を出た。
母屋の裏手に回ると、離れの戸が見えた。板戸が一枚閉まっていた。
健二は戸の前に立ったが、何と声をかけるか考えていなかった。戸を叩けば応えるか。応えなければそれまでだ。応えても、女が「お松」ではないかも知れなかった。
健二は息を一つ吐いて戸を叩いた。
しばらく反応はなかった。
健二が踵を返そうとした、その時…
内側から戸がすっと半分だけ開き、隙間から目が一つ健二を見ていた。
健二は息を吞んだ。
あの女だった。
藍の小袖。雨の日に見たのと同じ色。髪は結っていなかった。下ろした髪が片肩に流れていた。家の中の姿だった。
女は何も言わなかった。表情も変わらなかった。
「……」
健二は口を開いたが、声が出なかった。
何を言うつもりだったのか、自分でも分からなかった。
女は、もう一秒、健二を見ていたがそれから戸をもう半分開いた。
「入って」
低い声だった。
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離れの中は薄暗かった。
四畳半が一間。文机が一つ。布団は畳まれて、隅に寄せてあった。火鉢が一つ。それで全部だった。健二のねぐらと間取りはほとんど変わらない。違いは、畳が新しいこと、壁が煤けていないこと、そして何も生活の匂いがしないことだった。一ヶ月ここに住んでいる人間の部屋ではなかった。
健二は土間で上がり框に座った。女は文机の脇で正座をしていた。武家の作法だった。
「お一人で?」
健二が訊いた。
「一人」
それきり。しばらく二人とも黙っていた。
健二は、女の顔を見ていた。
似ていた。
環にも澪にもすこしずつ似ていた。けれど同じではなかった。
環は若くて、もう少し丸い顔をしていた。澪は痩せていて目元に疲れがあった。しかし目の前の女はその中間ではなくまったく別の顔だった。同じ女が年を重ねた、というのとも違った。
同じ女が別の人生を生きた、ような顔だった。
健二は口を開いた。
「以前、江戸にいたことないか?」
女は表情を変えなかった。
「いいや。あんた誰の話してるの」
「……」
「人違いや」
女の声は、低く平らだった。
…本当に、人違いなのかも知れなかった。
健二の頭の片隅で、その可能性がまだ生きていた。環にも澪にも似ている女が、たまたま京の北野の油屋の離れに住んでいる、ということは絶対にないとは言えなかった。
…けれどそれを否定するように、健二の手が勝手に動き、懐から油紙の包みを取り出して上がり框に置いた。
二人の間に。
女はそれを見た。表情が初めて動いた。……唇の端がわずかに引いた
健二はそれを見た瞬間に確信した。この女はこの包みを知っている。
健二は口を開いた。
「昨日、宝泉寺の手前であんたは血を拭いてた」
女は答えなかった。
「あの一日前、四条通であんたは俺と擦れ違った」
答えなかった。
「この油紙は、あの時あんたが俺の風呂敷に入れたんやな」
女は油紙の包みを見続けていたが、ゆっくりと目を上げて健二を見た。
「返してくれる言うてるんなら、断る」
「……?」
「それは、私のもんやない」
「は?」
「私のもんやない」
女は繰り返した。
健二は、しばらく何も言えなかった。
油紙の包みは、上がり框の上に置かれたままだった。女はそれを受け取らなかった。手も伸ばさなかった。視線すら二度と落とさなかった。
…受け取れない、と女が言っているのだ、と健二は遅れて気づいた。
受け取れば、健二がこの包みのことを知っているという事実を認めることになる。
認めれば、健二はこの包みのことを知っている男として女の側の世界に組み込まれる。
組み込まれれば、健二は追われる。屋根の上で動いた、あの何かに。
健二の喉が、乾いた。
「あんた」
健二は、低く言った。
「密偵か」
女は答えなかった。しかし否定もしなかった。
健二は、女の顔をもう一度見た。目の前の女は知らない女だった。
同じ顔をしているのに別人だった。
しかしこれは百合子だと、健二は今確信していた。
それは女が癖を見せたからではなかった。女は最後まで何も見せなかった。すべてを抑え込んでいた。
確信したのは、女の抑え込み方だった。目の前の女は、抑え込むことに慣れていた。
百合子の全部を、知っていたわけではなかった。
知っていると思っていたのは、健二の側の都合だった。首を傾ける癖も、小指を口に当てる癖も、百合子の一部分でしかなかった。
残りの部分があった。そっちの方がずっと大きかったのかも知れない、と理解させられた。
「帰って」
女は平らな声で言った。
「それは持って帰って」
「……」
「捨てるなり燃やすなり、好きにしたらええ」
「燃やしたら、あんた困るやろ」
健二は低く言った。女は答えなかった。
「困るんやろ」
「困らへん」
「嘘や」
女は何かを言いかけた。唇が半開きになった。胸が僅かに上がった。
一度だけ。深く息を吸って、唇を閉じたまま吐いた。言いかけた言葉は、声にならずに消えた。
健二はそれを見て、もう一度確信した。怒った時に、黙り込む前に、一度だけ深く息を吸う呼吸。
「あんたには関係ない」
女は低く言った。
「何のことか、知らん。この油紙が何か、知らん。あんたが誰か、知らん。全部関係ない」
「……」
「帰って」
女の目は、健二を見ていなかった。文机の縁を見ていた。
…女は、健二を護っていた。
認めれば、健二が殺される。だから認めない。
嘘を吐くことで、健二に外側にいる権利を残してくれた。
…けれどその嘘は、健二との間にあったかも知れない別のものを同時に消した。
「あんたには、関係ない」という言葉がその全部を覆った。
健二は油紙の包みを手に取り懐に戻し、上がり框から立ち上がった。
「……邪魔した」
低く言った。女は答えなかった。文机の縁を見続けていた。
健二は戸に手をかけて開けようとして、振り返った。
女はもう健二を見ていなかった。顔を横に向け文机の向こう側を見ていた。
健二は戸を開けて外に出た。
母屋の裏手の路地を、歩く。油屋の権助の声が表通りから遠く聞こえてきた。客と笑っている声。普通の、午後の商家の音。
健二の懐の油紙の包みは、入る前とまったく同じ重さでそこにあった。
何も変わっていなかった。しかし何かが変わっていた。健二には、それが何か言葉にできなかった。
「健二」
肩のチビが、しばらくぶりに、口を開いた。
「戻るにゃ」
「ああ」
健二は、歩き出した。
「健二」
「ん」
「よく堪えたにゃ」
健二は答えなかった。
答えなかったが、しばらく歩いてからもう一度後ろを振り返った。
油屋の母屋の屋根瓦が午後の光の中で静かに並んでいた。
健二は前を向いて歩き続けた。




