血の匂い
翌々日の朝、雨が降った。
京の秋雨は静かだった。屋根瓦を打つ音は遠く、軒先から落ちる雫が一定の調子で土を穿った。健二は店先で油紙の束を整え直していた。雨の日は瓦版が売れない。代わりに店に置いておく分の整理や貼り紙の届け物が回ってくる。
「慎之助、ちっと頼まれてんか」
親方が奥から呼んだ。
「北の方の宝泉寺さん。法要の知らせの文案、住職はんに目ぇ通してもろて来てんか。来月の十三日に大施餓鬼があるさかい、その案内の刷り物を頼まれてる。先に下書きだけでも見てもらわな、こっちが安心して刷れんよってにな」
「下書きだけですか」
「下書きだけや。住職はんに渡して、直しがあれば訊いてきい。貼り紙にして門前に貼るんは、晴れた日に改めて行く。今日は雨やしな」
「分かりました」
「雨の中、紙を濡らさんようにしっかり油紙に包んで持っていきや」
「はい」
「あ、それと…宝泉寺さんの住職はんに、これ」
親方は、棚から小さな包みを取り出した。茶の葉だった。
「先月、不祝儀いただいた礼や。一緒に渡しといてくれ」
「分かりました」
健二は文案の下書きを油紙に丁寧に包み、茶の包みと一緒に風呂敷に入れた。糊と刷毛は持たない。今日は貼る日ではない。傘を借りて店を出た。
チビはいつもの肩ではなく、雨を嫌ってあわせの中に入り込み首だけ出していた。
「雨は嫌いにゃ」
「俺も好きじゃない」
「今日くらい休めたら良かったにゃ」
「そういう訳にはいかないだろ」
北へ向かう道は、雨で泥濘んでいた。
健二は相国寺の南を抜けて、細い路地を一つ折れた。さらにもう一つ折れた。家並みが急に減って、土塀が長く続く区画に出た。寺と寺の間に挟まれた人通りの少ない道だった。
その時、チビが襟元から顔を出した。
「健二」
声が、いつもより低かった。
「ん?」
「血の匂いがするにゃ」
健二は足を止めた。
雨の音の向こうに、確かに何かがあった。健二の鼻には届いていなかったが猫の鼻には届いていた。
「位置は」
「12時方向、50mくらい先」
「……」
健二は、進むか退くかを一瞬迷った。
退く理由はあった。京の二年で、健二は学んでいた…血の匂いに自分から近づく男は長生きしない。けれど進む理由もあった。親方の頼みは宝泉寺への貼り紙で、その方角は前しか無かった。引き返せば仕事を放棄したことになる。
「行くか」
「気をつけてにゃ」
健二は歩き出した。
30mほど進むと、健二の鼻にもそれが届くようになった。
雨に薄められた、しかし確かに鉄に似た匂い。慎之助は江戸で何度か嗅いだことがあった。喧嘩の後の路地。人の血の匂い。雨でも消えない匂いだった。
角を曲がった。
土塀に挟まれた細道の真ん中に、男が一人倒れていた。
月代を剃った頭、紺の袷、腰に脇差。武家ではないが、武家の使いの者くらいの装いだった。仰向けに、雨を顔に受けて倒れていた。胸のあたりが雨で薄められても判別できるほど赤かった。
健二は足を止めて周囲を見た。
細道には誰もいなかった。土塀の内側からは、寺の樹々が雨に濡れて静かに立っているのが見えた。人の気配はない。
…いや。
細道の少し先、土塀の角の影に人が屈んでいた。
雨の中、傘も差さずに屈んで何かをしていた。健二の足が無意識に後ずさる。
…女だった。後ろ姿。藍に近い色の小袖。雨に濡れて、色がさらに濃くなっていた。髪は質素に結ばれていた。健二の位置からは顔は見えなかった。
女は、自分の手を布で拭いていた。何度も。
落ち着いた手つきだった。慌てた様子はなかった。慣れた手つき、と健二の頭の片隅で誰かが言った。
…倒れた男の血ではなかった。
男は、女から10mほど離れていた。女が今拭っている血は、女自身の手についていた血だった。
どこから付いた血か。
健二は、息を止めた。
「健二」
チビが襟元で、ごく小さく囁いた。
「動くな。屋根に何かいる」
健二は視線を動かさなかった。動かせなかった。
…その時、屋根の上で何かが動いた。
健二の視界の隅で、土塀の上の屋根瓦が一瞬だけ歪んだ気がした。
歪んだ、という表現は正しくなかった。健二は隔離区域の戦闘用ドローンを思い出した。フレームスキップ…あれと同じだった。映像の一コマが抜け落ちて、次の瞬間には少しだけ別の場所に何かが存在している、あの違和感。屋根瓦の輪郭が、雨粒が落ちる速度よりも速く別の位置に移動していた。
健二の目はそれを追えなかった。
「健二、伏せろ」
チビが囁いた瞬間、健二は反射で土塀に身を寄せた。
元いた場所に鈍い光が走る、と次の瞬間には消えていた。
雨だけが、屋根瓦を打っていた。
健二は、しばらく息を止めていた。
「……行ったか」
「たぶん」
チビの声はまだ低かった。
「速すぎて、こっちでも追えなかったにゃ」
「お前でもか」
「にゃ」
チビが少しだけ、自嘲するように尾を揺らした。
健二は土塀から身を離して、もう一度女のいた方を見た。女は立ち上がっていた。
雨の中で、こちらに振り向いた。
顔が見えた。昨日、四条通で擦れ違った女だった。
健二の心臓が一度だけ大きく鳴った。癖は見えない。深く息を吸うこともなかった。健二の身体は、ただ固まっていた。
女は、一秒だけ健二を見た。何の表情も浮かべなかった。
知らない男を見る目だった。雨の中、たまたま角を曲がってきた見ず知らずの瓦版売りを見る目。昨日の擦れ違いを覚えているのかどうかすら判じさせない目。
女は視線を逸らす。拭った布を懐にしまい、雨の中、健二とは反対の方角へ歩き出した。下駄の音は立てなかった。草履だった。別の路地に折れて消えた。一度も振り返らなかった。
健二は、しばらく動けなかった。
雨が傘の上に当たり続けていた。
「健二、さっさと立ち去るにゃ」
チビが、ようやく言った。
「ああ……」
「誰かが来る前にここを離れるにゃ」
健二は、倒れた男をもう一度見た。
男は、雨を顔に受けて動かなかった。健二には、それが死んでいるのかまだ生きているのか判じる勇気がなかった。近寄って確かめれば自分が下手人と疑われる…慶応三年の京で、それは現実的な恐怖だった。
健二は一度だけ短く手を合わせ、男に近寄らないようにして目的地へ向かった。
帰り道は別の筋に迂回した。距離以上に長く感じた。
健二は何度か振り返った。屋根の上に動くものはなかった。雨が瓦を打つ音だけが続いていた。
「健二」
半ばまで戻ったところで、チビが言った。
「戻ったら、親方にはあんまり近づかないようににゃ」
「……」
「血の匂いを引きずって店戻ったら、親方が気づくにゃ」
「お前、よくそういうこと考えつくな」
「にゃあ、二回目だからにゃ」
チビが、短く言った。
健二は、それ以上訊かなかった。チビが二回目という時、何の二回目なのか…前の二層のどこかでも、似たような状況があったのかも知れなかった。それとも。
店に戻ると、親方は奥で煙管を吸っていた。
「おつかれ。渡せたか」
「宝泉寺はん、これで良いと」
「ほうか。ほな、油紙のまま奥に置いといてんか」
「はい」
親方は煙管を吸い続けて、それ以上は何も言わなかった。
健二は土間で下駄を脱ぎ、奥の小部屋に入って風呂敷を解いた。糊の壷を棚に戻し、刷毛を布で拭った。それから貼り紙の束を束として置いた…置こうとして止まった。
違和感があった。
風呂敷の中身を一つずつ取り出している間に、健二の指先がわずかに重さの違う一包みを捉えていた。風呂敷の底に貼り紙の束とは別の、油紙に包まれた小さな塊があった。
健二はそれを取り出した。
大きさは手のひらの半分くらい。厚みは指の太さの三倍ほどだが軽かった。油紙は店で使っているものと同じ柄ではなかった。少しだけ目の細かい、上等なものだった。
中身が紙であろうことは、握った時の手応えで分かった。折り畳まれた紙が何枚か重ねられて、油紙に包まれている。
健二はしばらくそれを見ていた。
開けるか。
…いや、開けない。
健二は、即座に判断した。
開けて中身を見れば、健二はそれを「知った」者になる。京の二年で知る者になることの危うさを健二は学んでいた。
いつ、これが、ここに入ったか。
健二は、頭の中で朝からの動きを巡らせた。
朝店を出る時、風呂敷の中には下書きしかなかった。それは確かだ。健二が自分で包んだ。
道中、健二は風呂敷を肩に掛けたまま歩いた。誰かが触れる機会はなかったはず。
宝泉寺の手前で、男が倒れていた。女が血を拭っていた。屋根の上で何かが動いた。チビが「動くな」と囁いた。健二は土塀に身を寄せた。その時、女が動いたか…記憶を辿ったが、女は反対方向に去った。健二の脇は通っていない。
女ではない。では、誰だ。
健二の指先が、油紙の包みの上で止まった。
昨日の事を思い出す。四条通で女と肩がぶつかった。健二の右肩。相手の左肩。瓦版の束を抱えた腕に、衝撃が伝わった。懐の油紙が内側で一度だけ揺れた気がした…ことを思い出した。
あの時か。手のひらの油紙の包みをもう一度見た。
昨日、四条通で女が肩をぶつけた瞬間に何かを差し込んだのだとしたら。
その何かを、健二は風呂敷の底に紛れさせたまま今日まで持ち歩いていたことになる。
健二は宝泉寺へ向かった。包みは健二の風呂敷の中で、雨にも触れずに守られていた。
「……」
健二の手がわずかに震えた。
もしかしたら、あの目は知らない男を見る目ではなかったのかも知れなかった。
包みを持っている男が、無事にここまで来ているかどうか、確かめる目だったのかも知れなかった。
健二は、油紙の包みを両手で握った。
開けないことに決めた。中身が何であっても、開けて知れば倒れた男も、屋根の上で動いた何かも、女が拭っていた血も、すべてが健二の側に流れ込んでくる。
…けれど、捨てることもできなかった。
捨てて、これが女の落とし物だったとしたら女は困る。女の命に関わるかも知れなかった。健二にも、そこまでは想像がついた。
持ち続けるしかなかった。健二は、油紙の包みを、自分の懐に押し込んだ。風呂敷の底ではなく、自分の身体の側に。
「健二」
部屋の隅で、チビが低い声で言った。
「それ何にゃ」
健二は、振り向いて、チビを見た。
チビは、火鉢の脇に座って健二を見上げていた。いつもの眠そうな目ではなかった。前足を揃えて座っていた。
「お前、知ってるのか」
「知らん」
チビは即答した。
「でも、開けるな」
「……」
「開けたら、健二、もう戻れんにゃ」
健二は、しばらくチビを見ていた。
チビはそれ以上何も言わなかった。
雨は、夕方になっても止まなかった。
健二はその日、いつもより早くねぐらに戻った。文机の上に油紙の包みを置いた。開けなかった。
「健二」
文机の脇で、チビが、香箱を組んでいた。
「寝るにゃ」
「ああ」
健二は行灯を吹き消した。
暗闇の中で、油紙の包みは見えなくなった。
…あの女に、もう一度会わなければならない。
健二は、布団の中で、それだけを考えていた。




