すれちがい
翌朝も健二は刷り台に向かい、親方は紙を畳んでいた。昨日の話は、二人ともしなかった。京ではそういう日の翌朝は、何もなかったように始める。それが習いだった。
「慎之助、今日はちっと足、伸ばしてんか」
「どこまでです」
「四条河原の絵草子屋。先月の盆の心中もん、足らん言うてきた。三十枚、置いてきてくれ」
「行ってきます」
ここでの心中ものは、盆の頃に伏見の宿で起きた男女の心中。御政道に触れない、安全な瓦版だった。健二は紙を三十枚、油紙に包んで懐に押し込んだ。重くはない。今日は背負子も要らなかった。
「健二、行こにゃ」
肩の上で、チビが声を低くした。
「ああ」
健二は店先の暖簾をくぐった。
四条通は、五ツ(午前八時頃)を回る頃から人が増える。
西から東へ、東から西へ、商人、行商、旅装の侍、巡礼の老人、子守を連れた女、かごかき、手代、小僧。京の動脈。健二は人混みに分け入り、肩でかき分けるように進んだ。
朝の光は、昨日とは少し違っていた。秋が一段だけ深まったような光。屋根瓦の影が少しだけ長い。
通りには、いつもの音があった。
振り売りの声。荷車の軋み。子供の喧嘩する声。茶屋の女将が客を呼ぶ声。どこかで誰かが浄瑠璃の節を口ずさんでいた。胡弓ではなかった。三味線でもなかった。ただの口三味線。健二の耳の脇を通り過ぎていく。
三条と四条のちょうど中間あたりで、人混みが一段濃くなった。
反対方向から、人が押し寄せてくる。誰かが何かを見物しているのか、あるいは単に通りが詰まっているだけなのか、健二には分からなかった。ただ流れに従って歩いた。肩と肩がぶつかった。詫びる声を出す者もいれば、出さない者もいた。
その時だった。右の肩に、衝撃。
健二は半歩、足が止まった。
反対側から来た誰かと、肩がぶつかったのだった。健二の右肩。相手の左肩。瓦版の束を抱えた腕に、衝撃が伝わった。懐の油紙が、内側で一度だけ揺れた気がした。
「堪忍」
低い、女の声がした。
健二は反射で振り向いた。
武家風の質素な装いの女が、半歩下がって、軽く頭を下げていた。藍の地に細い縞の入った着物。帯は黒に近い色。髪は質素に結っているが、髷の形が町方ではなかった。年の頃は二十五か六。
顔を、見た。
健二の中で、何かが首をもたげた。
…あれ。
ほんの僅かな反応だった。前の二層のような、身体が勝手に動く強い反応ではない。もっと淡い、ただの既視感のようなもの。心臓が少しだけ早く打った気がした。
女は、健二を見ていた。一瞬。目が合った。
表情はなかった。詫びを口にしただけの、見知らぬ町人を見る目だった。何の反応もない目だった。
健二は、自分の中で打ち消した。
…違う。
似ているだけだ。声も、前の二層よりも低かった。京言葉ですらない。江戸でもない。どこの言葉とも判じられない、できる限り訛りを殺した「堪忍」だった。
健二は、軽く頭を下げ返した。
「いや、こちらこそ」
女は、もう一度だけ会釈をして、健二の脇を抜けて行こうとしたが、後ろから、声が掛かった。
「お松さん」
別の女の声だった。
健二は反射で振り返った。
通りの少し先で、年配の女が女に向かって手を振っていた。茶屋の女将らしい。お松さん…女の名前が、聞こえた。健二の頭の中で、その音が一瞬だけ留まった。
女は、足を止めた。茶屋の女将に向かって、振り向こうとした。
…その時。女は、深く、息を吸った。一度だけ。
胸が、僅かに上がった。唇は閉じたままだった。
それから、女は何も言わずに、振り向いた女将に軽く会釈を返した。会釈だけで、声は出さなかった。深く吸った息は、そのまま吐かれただけだった。
茶屋の女将は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は呼ばず、客の方に向き直った。
女は、また歩き出した。健二の脇をすり抜けた。藍の着物の袖が、健二の二の腕を一度だけ掠めた。それから女は人混みに紛れて、見えなくなった。
健二は、四条通の真ん中で、瓦版の束を抱えたまま立っていた。
…あれは何だ。
深く、息を吸う。怒った時、黙り込む前に、一度だけ深く息を吸う。…癖。
健二は、前の二層を思い出した。
終戦間近の大泉でヒロインが小指を口に当てていた。隔離された町ではヒロインが笑う時に首を傾けていた。それぞれの層で、最初の出会いの瞬間に身体が反応した。癖が見えたから。
今回は、癖が出なかった。声も似ていなかった。だから違うと打ち消した。
…なのに、立ち去り際に。呼ばれた瞬間に。振り向く前に。一度だけ、深く息を吸った。
「健二、行くにゃ?」
肩の上で、チビが声を低くした。
健二は動けなかった。
通りの人混みは、何事もなかったように流れていた。振り売りの声、荷車の軋み、子供の喧嘩、茶屋の女将の声。すべてが昨日と同じだった。
なのに、健二の足だけが動かなかった。
「健二」
チビが、もう一度言った。
「ああ」
健二はようやく答えたが動かなかった。
…もう一度、考えようとした。
顔は、わずかに似ていた。だが声は違った。京言葉でもない。江戸言葉でもない。武家風の装いだが、町方の女だった可能性もある。
癖は出た、一度だけ。でも似ているだけかも知れなかった。
京の町に苛立った時に深く息を吸う癖を持っている者もいるかも知れなかった。
…けれど。
健二は、自分の右の肩を無意識に押さえた。ぶつかった衝撃がまだ残っているような気がした。
懐の中の油紙の束は、何の異変もなかった。三十枚の瓦版が、油紙に包まれて、いつものように懐に収まっていた。何の重みも変わっていなかった。
「健二」
チビが、また言った。
「絵草子屋、行かにゃ」
「……ああ」
健二はようやく一歩、踏み出した。二歩、三歩。と踏み出してから、もう一度だけ後ろを振り向いた。
人混みの中に、藍の着物は、もう見えなかった。
健二は、前を向いて歩き出した。瓦版の束を抱え直し、四条河原の方角へ歩いた。
通りの音は、いつもの通りだった。
振り売り、荷車、子供、茶屋、口三味線。
口三味線が、健二の脇を通り過ぎていく時、その節は、聞き覚えのあるような、ないような、判じられないものだった。健二は耳を澄ませなかった。澄ませてはいけないと、身体が知っていた。
口三味線の主は、すぐに別の通りに折れて消えた。健二は四条河原に向かって、歩き続けた。
肩の上で、チビが、何も言わずに、ただ前を見ていた。




