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はじめましてを何度でも  作者: ぽんた7
第四章 密偵
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瓦版屋の風景


 朝の光が、版木の墨を照らしていた。


「慎之助、墨だ墨。もちっと薄ぅしい」


 親方の声が背中に飛んできた。健二は…慎之助は…刷り台の上で姿勢を直し、墨壺の縁を刷毛で叩いた。

 親方は五十をいくつか過ぎている。元は西陣で機を織っていたが、若い頃に喧嘩で足を傷めて、それから読売の瓦版屋に弟子入りしたのだという。今は彫りも刷りもやらず、紙を畳む手つきだけが昔のままに正確だった。京生まれの京育ち。語尾が柔らかく、機嫌の良い時は鼻歌まで出る。


「薄うせえ言うたかて、これ以上薄うしたら掠れるとこ出ますで」


 健二が江戸言葉のなまりを残したまま返すと、親方はけけ、と笑った。


「たまには掠れたほうが売れるわな」


「なんでです」


「掠れた瓦版は、わざと隠したように見えるよってな。中身が物騒や思て、皆が手ぇ伸ばす」


「それは、商売の理屈ですか」


「人の心の理屈や」


 親方は紙を一枚、慎之助の刷り台に放った。今日刷っているのは、丹波の山で熊が出た、という他愛もない話だった。挿絵は熊と、それから逃げ惑う旅人。御政道とも武家とも関わりがない。だから店の表に堂々と並べられる。


「親方、これ、ほんまに熊出たんですか」


「さあな。出たかも知らんし、出てへんかも知らん」


「……」


「慎之助、瓦版屋いうのはな、出たか出てへんかを書く商売やない。人がそう言うてる、いう事を書く商売や」


 朝の光の中で、親方は笑った。歯がもう半分しか残っていない笑顔だった。


 五ツ半(午前九時頃)を過ぎると、店の表に客が立つようになった。

 一番乗りはいつも豆腐屋のお梶だった。三十くらいの後家で、亭主を二年前に流行り病で亡くしてから、一人で店を切り盛りしている。瓦版を買うのは亭主の供養のためだ、と本人は言う。供養になるのかどうかは健二には分からなかったが、毎朝二枚ずつ買っていく。


「慎ぼん、今日は何やのん」


「丹波の熊です」


「熊て、また何や妙なんやな。あんた江戸の出やのに、なんで熊なんか刷ってるん」


「親方が刷れ言わはったから」


「それ、答えになってへんのとちゃう?」


 お梶が笑うと、店先の空気が一段明るくなった。続いて、近所の隠居の徳兵衛が杖を突いて現れる。耳が遠いので健二は声を張らねばならない。徳兵衛は読み物を集めるのが趣味で、瓦版でも錦絵でも本でも、字が書いてあれば何でも買う。今日は熊の絵が気に入ったらしく、満足げに頷いて帰っていった。


 その後も馴染みの顔が続いた。茶屋の女将、左官の若いの、近所の手習いの師匠、油屋の倅。皆が皆、慎之助の江戸なまりをからかい、親方の鼻歌に合いの手を入れ、熊の話で笑って、銭を置いて帰っていった。


 健二は、刷り台の前でその声を聞いていた。居場所、というほどのものではない。だが、自分がここに居ることに、誰も疑問を持たない。それだけで充分だった。


「健二」


 店先の柱の上で、チビが小声で言った。


「悪くない朝にゃあ」


「ああ」


 健二は答えた。朝の光は、まだ熊の絵の上にあった。


---


 昼前に、空気が変わった。

 最初は、下駄の音だった。


 通りを、四人の侍が歩いてきた。袴の裾の捌き方、足の運び、視線の置き方…馴染み客とは何もかもが違う。話し声はない。下駄ではなく、革の足袋に草履。それが土を踏む音だけが、店先まで届いた。


 健二は刷り台の手を止めなかった。だが、視線の端で、彼らが店の前を通り過ぎるのを見た。先頭の男が、店先に並んだ瓦版を一瞬だけ見た。視線が、丹波の熊で止まった。それから、何も言わずに、また前を向いた。四人は通り過ぎていった。

 親方が、紙を畳む手つきのまま、低く言った。


「会津やな」


「会津、ですか」


「ここのところ、京の市中見廻りが厳しゅうなってる。あの足の運び、新選組ともちがう。会津本藩の徒士や」


「何で見たら分かるんです」


「慎之助、この商売、二年もやってて、それ分からんようでは困るで」


 親方の声には叱責の色はなかった。ただ、いつもより一段だけ低かった。健二は紙を畳む手を止めて、親方の横顔を見た。親方は熊の絵を見ていた。熊の絵で良かった、と思っている顔だった。


 健二は理解した。


 朝に親方が「掠れたほうが売れる」と笑った時、彼は本当はもう一つ違うことを言うつもりだった。掠れて見えるくらいの瓦版なら、見廻りに目を付けられない、と。

 御政道に触れる瓦版は、刷れない。刷っても、店先に並べられない。並べたら、その日のうちに店が潰される。だから熊なのだ。だから心中なのだ。だから妖怪なのだ。

 …事実と噂の境目に立って紙を売る男、というのは、健二が昨日抱いた格好の良い感慨だった。

 実際は違った。境目の、安全な側にだけ立っている男だ。


「健二」


 チビが柱の上から小声で言った。


「親方、悪い人じゃないにゃ」


「ああ。分かってる」


 健二は刷り台に向き直り、墨壺の縁を、もう一度叩いた。


 昼八ツ(午後二時頃)、健二は親方に言いつけられて、紙の束を町の北の取次屋まで運ぶことになった。

 京の北、相国寺の南…五条通から十数町の距離。紙束は重かった。三百枚を二つ括りにして、合わせて六貫はあろうかという目方。背負子に乗せて、紐を肩に食い込ませた。


 表の通りに出ると、午後の光が斜めに差していた。健二は背負子の重みを揺すり上げて、歩き出した。


「…あれ、出せたら楽なんだがな」


 思わず、内心で呟いた。

 インベントリの底にある、リナ先輩がチューンしたパワーローダー。あれを呼び出して、紙束を抱えさせれば、六貫の目方など羽根のようなものだ。


…もちろん、呼ぶ訳ない。


 京の昼下がりの通りに、近未来のスケルトン構造の機械が立ち上がる絵を想像して、健二は一人で苦笑した。神様が降りてきたどころか、化け物が降りて来たになる。明日の瓦版のネタにされる側だ。


「何笑ってるにゃ」


 肩のチビが訝しげに見た。


「いや、パワーローダー出せたら運ぶの楽なのにな、と」


 猫は口を半開きにしてあきれ顔。


「アホ。江戸時代にパワードスーツ出すな」


「分かってるって。出せたらなあ、ってだけの話だよ」


「お前なあ。念のため言っておくけど、あれで戦おうとかするなよ? 刀には弱いからな? スケルトンだから突き一発で終わるにゃ」


「あー、なるほどね。そう考えると銃にも弱いな」


「だいたい六貫なんて20Kgぽっちにゃ、陸自の行軍訓練よりは遙かに楽だろ。体鈍ってるにゃ」


「いや、これ俺の体じゃないからな? 筋肉無いからな?」


 ぼやきながら健二は背負子を担ぎ直した。


 通りには、午後の喧騒があった。担ぎ売り、振り売り、子供の駆ける足音、犬の吠え声、二階からの呼び声。誰かが胡弓を弾いていた。誰かが大根を叩いていた。誰かが赤子をあやしていた。町の音が、層になって流れていた。


 三条の橋を渡ろうとした時、また空気が変わった。

 橋の手前に人だかりが出来ていた。輪の中心で、何かが起きている。健二は背負子のせいで近づけなかったが、輪の外から首だけ伸ばして見た。


 三人の男が立っていた。一人は地面に膝を突き、二人は立って見下ろしている。立っている方は、若い。一人は背が高く、もう一人は中肉中背。両方とも、月代さかやきを剃らず、髷も結っていない。ザンバラ髪。袴は袷で、刀は二本。話しているのは、立っている方の若い男だった。


「…だから、そげな話は通らんち言うちょっとが」


 訛りが、京のものではなかった。江戸のものでもなかった。九州の言葉。

 健二の身体が、少し冷えた。薩摩、と頭の奥で誰かが囁いた。


 膝を突いている方は町人らしかった。半泣きで何か言い訳をしている。背の高い若侍が、刀の柄に手を置いて、それを聞いていた。抜くつもりはなさそうだった。だが、置いた手はいつでも動かせる位置にあった。

 周囲の見物は、誰も声を上げなかった。遠巻きに、ただ見ていた。

 朝の店先の馴染み客たちと、同じ町に住んでいる人々のはずだった。なのに、こちらの空気は別の国のものだった。

 健二は背を向けて、橋のたもとを回り込み、別の道で渡った。背負子の紐が肩にもっと食い込んだ。


 取次屋に紙を渡し、空の背負子を担いで戻る道で鴉が鳴いた。夕方近くになっていた。


 戻り道の途中、健二は四条の辻で足を止めた。

 辻の角に、新しい高札が立っていた。新選組の名で出された触書だった。不審の者を見かけたら速やかに報せよ、という主旨。文末に、隊士の署名が並んでいた。


 健二は読まなかった。読まなかったが、足を止めた自分に気づいた。

 高札の前を、誰も足を止めずに通り過ぎていった。読まないことが、正しい振る舞いだった。健二は遅れて気づいて、自分も歩き出した。

 辻を曲がる時、視線の端で、二人組の男が高札の後ろに立っているのが見えた。袴に羽織。刀。歳は二十そこそこ。一人は、ふいに振り向いた。健二の方を見た。目が合った。

 一秒もない時間だった。

 男は、何の表情も浮かべず、また高札に視線を戻した。

 健二はそのまま歩いた。歩く速さを変えなかった。変えてはいけないことを、身体が知っていた。

 路地を二つ折れたところで、ようやく息を吐いた。


「健二」


 肩のチビが、小さく言った。


「あいつらが新選組にゃ。一番たちの悪い時期にゃ」


「だな」


「あんま近寄るな」


「分かってる」


 健二は背負子を担ぎ直した。


 朝の店先の、お梶の笑い声を思い出した。徳兵衛の頷きを、左官の若いのの軽口を、親方の鼻歌を。

 同じ京だった。同じ午後の光が差している通りだった。


 なのに、朝と夕方とで、町は違う町になっていた。正しくは違うのではなく、両方が同時にあった。それが京だった。それが慶応三年だった。


 店に戻ると、親方はもう仕事を畳み始めていた。健二は背負子を土間に下ろし、額の汗を拭った。


「ご苦労さん」


 親方が湯呑みを一つ差し出した。番茶だった。健二は黙って受け取って、飲んだ。熱くなかった。冷めかけていた。それでも、有り難かった。


「慎之助」


親方が、湯呑みの底を覗き込みながら言った。


「今日は、はよ帰り。ねぐらの戸ぉ閉めて、寝え」


「……はい」


「今日みたいな日は、外におらんほうがええ」


 親方は何を見たか言わなかった。健二も訊かなかった。京の二年で、それくらいは分かっていた。


 店を出ると、空はもう暗くなりかけていた。

 どこか遠くで、また三味線の音がした。今朝とは別の調子だった。子守唄ではなく、何か別の…健二の耳には判じられない、ただの調子。京の町には、町の音があった。それだけだった。


 肩の上で、チビが伸びをした。


「帰るにゃ」


「ああ」


 健二は歩き出した。屋根瓦の輪郭が次第に闇に溶けていく。



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