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はじめましてを何度でも  作者: ぽんた7
第四章 密偵
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京の路地


 階段を登り終えると、足の裏が固い地面を踏んでいた。

 土と、藁と、馬糞の匂い。


 健二は瞬きを一つして、周囲を見回す。

 細い路地に立っている。両側を黒い羽目板の塀が挟み、足元の地面は踏み固められた土。頭上を見上げると、軒先と軒先の間に、夕暮れの空が細く切り取られている。空はまだ青みを残していたが、屋根瓦の輪郭はもう影絵のように黒い。

 抱えているのは、刷り立ての紙の束だった。墨の匂いが鼻先に立ち上る。瓦版だ、と頭の奥で誰かが言った。慎之助、と呼ばれる男の記憶が流し込まれるように身体に馴染んでいく。江戸日本橋の生まれ。下総の親方の元で版木を刷っていたが、二年前に縁あって京の瓦版屋に流れてきた。二十五歳。独身。ねぐらは六角通の裏長屋。


「健二、さっそく仕事中にゃ」


 肩の上で声がした。チビが尻尾を左右に振った。


「みたいだな」


 健二は短く返して、紙の束を抱え直した。


…慶応三年。秋。


 その数字が頭の中で転がった。教科書で見た年号だ。次の正月には鳥羽伏見で戦が起こる。今はその前年の初秋。


 路地を出ると、通りはまだ人で混んでいた。提灯の灯りがぽつぽつと点り始めている。担ぎ売りの天秤棒、白い前掛けの女、刀を差した武家風の男、月代の禿げ上がった老人、頬に痣のある若い男。

 すれ違う声はどれも早口で、語尾が跳ねる。江戸の調子と違う。健二の耳には、少しだけ異国の言葉のように聞こえた。


「ええじゃないか、ええじゃないか」


 どこか遠くで、子供の歌うような声が上がった。続いてどっと笑い声。健二は足を止めずに目だけ向けた。三本向こうの辻で、人が群れて何かを撒いている。お札だ、と慎之助の記憶が告げる。空から札が降る。神様が降りて来た。だから踊る。先月から京のあちこちで起きている騒ぎ。


「物騒な世の中に来たもんだにゃ」


 チビが伸びをするように呟いた。


「物騒、ねえ」


 健二は呟き返した。


 物騒、というのは正確ではなかった。町は明るかった。商いは続いていたし、女こどもは笑っていたし、屋台では出汁の匂いが立ち上っていた。だが、その明るさの裏側に不穏な噂が漂っていた。


…将軍様が政を返すらしい。

…薩摩の浪士が三条で人を斬った。

…いや、斬ったのは新選組の方だ。

…長州の侍が京に戻ってきている。


 瓦版屋に流れてくる話は、その日のうちに古くなった。翌朝には別の話に上書きされた。誰が誰を斬り、誰がどこへ消え、誰がどこから戻ってきたのか。事実と噂の境目は、もはや誰にも分からなくなっていた。


 慎之助は、その境目に立って紙を売る男だった。


 筋の向こうから、三味線の音が流れてきた。流しの男が鳴らす誰の歌でもないただの調子。

 どこかの家の格子戸の奥から、子守唄の切れ端が漏れてくる。

 さらに遠く、寺の方角で、鐘の音がぼうん、と一つ。


 京の町には、町の音があった。…健二の耳の奥で何かが鳴った気がして半歩、足を止めた。


 風が吹いた。横にある軒先の暖簾が揺れ、屋根の上を何かが…たぶん野良猫が…とん、と飛んだ。それきり、何の音もしなかった。


「健二、今日はもう戻るにゃ。明日からが本番にゃ」


「……ああ」


 健二は歩き出した。路地の屋根瓦が、夕闇の中で一枚ずつ濃くなっていった。


---


 六角通の裏長屋は、大通りから細い路地を二度折れた先にあった。

 表通りからは見えない。九尺二間の棟割長屋、現代で言うところのアパートが四軒、向かい合って二棟ずつ。井戸と厠は共用。慎之助の部屋は奥から二軒目だった。

腰高障子を引くと、油と古い畳の匂いがした。


「ただいま、にゃー」


 健二の肩からチビが先に飛び降りて、土間と床の境目・上がり框に着地した。


 健二は紙の束を上がり框に置いて、後から部屋にあがった。土間は二畳ほど。かまどが一つ、水がめが一つ、薪少々。上がり框の先は、四畳半一間。それで全部だった。畳は端が擦り切れて藁が飛び出しかかっている。壁は煤で煤けて、もとは何色だったのかも分からない。隅に服などを入れる箱・行李が一つ。布団は潰れたのが一枚。文机が一つ。


「狭っ」


 思わず声が出た。慎之助としての記憶では、これが当たり前の暮らしだった。だが、さっきまで近未来の集合住宅に住んでいた健二の感覚が追いついていない。


「慎之助は独り身だからにゃ。こんなもんにゃ」


 チビが文机に飛び乗って、香箱を組んだ。


 健二は土間に下りて、行灯に火を入れた。火打ち石の使い方が、慎之助の手つきで自然に出てくる。橙色の小さな炎が灯ると、煤けた壁がぼんやりと浮かび上がった。油の匂いが鼻を突いた。菜種油だ。煙たい。


 …澪の隔離区域の、消毒薬の匂いを思い出した。

 違う匂いなのに、なぜか同じものを連想した。閉ざされた場所で焚かれている、誰かの暮らしの匂い。


 健二は文机の前に座り込んで、しばらく動かなかった。

 疲れていた。階段を登った直後だ。身体がここに着いたばかりで、まだ慣らしが済んでいない。慎之助の手つきは身体に馴染んでいるのに、健二の頭は近未来の白い天井をまだ覚えていた。澪の声、岡田と呼ばれた響き、消毒薬、胞子の雪、チビを撫でる澪の細い指。


「なあ健二」


 チビが文机の上から見ていた。


「腹減った」


「……端末も腹減るんだな」


「高級品だからね。って戦時中も魚食ってただろ」


 健二は息を吐いた。


 隅の箱に握り飯が二つ、笹に包んで置いてあった。朝に作って置いたものだ、と慎之助の記憶が言う。

 冷えていた。健二は一つを取って、ゆっくり食べた。米は固く、腐敗防止なのか塩がメチャクチャきつかった。チビには小さくちぎった握り飯と、明日の朝に煮るつもりだった煮干しを一匹分けた。


 食べ終えると、健二は布団を敷いて、行灯を吹き消した。


 暗闇の中で、屋根瓦の上を風が通る音がした。遠くで犬が鳴いた。それから、また三味線の音が、どこからともなく流れてきた。今度は別の調子だった。

 健二は目を閉じた。


「おやすみにゃ」


「おやすみ」


 布団の縁でチビが丸くなった。慎之助には元々猫が一匹いた。それは慎之助の記憶にも、健二の感覚にも、馴染んでいた。


 屋根瓦の上を、また何かが…たぶん野良の猫が…とん、と歩いた。

 健二は眠りに落ちた。




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