裏口の時間
ある日の配送の帰り際、裏口で澪と鉢合わせた。澪は防護服の上着を脱ぎ、チビに餌をやっていた。
「あ、見つかっちゃいましたね。本当はこんなことしちゃいけないんですけど」
健二は「言いませんよ」と答える。マスクは互いに着けたまま。
「あなたですよね、猫に懐かれてる配送員の方って。徳さんから聞きました。お名前お聞きしても?」
「岡田です」
「ありがとう。私は東山澪っていいます」
「私も徳さんからお名前は伺いました。猫にいつもエサをやってるとか」
澪はチビの背中に手を置いて撫でている。
「この子、封鎖前からここにいるらしいんです。患者さんの中にもこの子に会いたがる人がいて。徳さんとか、最近もう外を見られない方も」
自称高級端末が立ち上がり二人の足元に交互に体を擦りつける。それを見る健二は複雑な気分だ。
「どんどん薬が効かなくなってて。このままじゃあ……」その時左手の小指が唇の端に触れる。環の癖。中学時代の百合子の癖。
健二は息を呑む。首の傾きと小指。二つの癖が揃った。この人が百合子のかけらだというのはチビから聞いていたものの、ここに至って健二にも実感できた。まちがいなくこれは百合子だ。
「また深谷さんに怒られちゃいますので、もう行きますね」
そう言って健二はその場を辞した。
「はい、お疲れ様です」
澪が見送ってくれる。チビは彼女の足下で転がっている。
『猫っぽいだろ?』
『なんか、あざといなあ』
『これが好かれる秘訣よ』
『………』
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別の日の昼。
健二が裏口を通りかかるといつものように澪がチビと座っていた。このくらいの時間はだいたいここにいるな。
彼女はマスクを下げている。健二は近づいて口元を指さす。
「危なくないですか、それ」
「分かってます。でも、聴きたいんです」
澪は旋律の断片を口ずさむ。あの百合子の変な鼻歌。途切れたその後を、健二が無意識に引き継いだ。
「ふーん、ふんふん、ふふーん、ふん」
澪が固まる。
「……今の、どこで」
「子供の頃の知り合いが、よく歌ってました」
「……もう一度、聴かせてもらえますか」
健二はもう一度、ぎこちなく口ずさむ。澪が目を伏せて聴いている。チビが二人の間で目を細めている。
「ありがとうございます。これ、私が追いかけてた旋律の、たぶん終わりのほうの部分です」
「追いかけていた旋律?」
澪が顔を上げる。健二と目が合う。マスクは着けている。それでも、目元だけで澪が泣きそうな顔をしているのが分かる。
「どうしてか、一部だけ頭に残ってるの。気になって気になって、そしたら胞子の雪からも聞こえるようになってきて。変よね」
健二はこの瞬間、はっきりと自覚する。澪が百合子の断片だから、癖を持っている人だから、ではない。泣きそうな顔をしている人を放っておけない人だから。
(『百合子がいた』じゃない。たぶん、『澪先生を見つけた』だ。だから力になりたいんだ)




