密告
健二は12月3日に迫っている空襲で頭がいっぱいだ。前回はほぼ被害が無かったが、次は大規模になる。環と、あとはせめて母親と環の家族だけは逃がしたい。しかし勝手に疎開はできないし、逃げようとしたなら非国民として追われる事になるだろう。嵐谷を喜ばせるだけだ。
その嵐谷は毎日のように家にやってきて、わめき散らして帰っていった。ヒマなのか。隣組の誰もが嵐谷を迷惑に思っていたが、当の本人だけが理解していない。戦時中の間違った正義を体現したような人間だ、と健二は思う。
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嵐谷は猫が見つからない事に苛立ちが募ってるようだった。ついには攻撃の矛先を直接真一に向けてきた。
曰く、「城ヶ崎は思想的に怪しい」「灯火管制を怠った疑いがある」等々、隣組で因縁をつけ始めた。一回などわざわざ工場まで来た。
「あんたがここの工場長か」
予定にない突然の来客に、私服の憲兵か何かだろうか? と工場長はとまどう。
「そうですが、あなたは?」
「私の事はどうでもいい、」と嵐谷は告げると、
「城ヶ崎真一って学生がいるな? そいつを監視してくれ」
「監視? 何故ですか?」
「奴には思想犯の疑いがある。言動を監視してほしいのだ」
彼が思想犯? 普段の行動は真面目だし、言動もおかしな所はない。とてもこの男の言うようには思えない。
「あなたは憲兵さんなんですか?」
もし憲兵からの命令であれば従うしかないが、
「そうではない。大泉の愛国者だ」
工場長はため息をついた。
「あのですねえ。官憲でもない人にそんな事命令される筋合いはありませんよ。ただでさえ人手が足りない時に、バカ言わないでください。お帰りを」
工場長もヒマではないのだった。その後も嵐谷は工場でゴネていたが、誰も相手にはしなかった。
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その数日後くらいから、昼間、近所に見知らぬ背広の男が現れるようになった。真一の家以外に真一についての聞き込みに回っている。誰もがその意味に気づいていた。嵐谷が真一を憲兵隊へ密告したのだ。
もちろん密告があったからといって、戦争映画みたいに突然逮捕状を持って現れる、なんてことはない。皇室を批判したとかの場合は即時逮捕だが、それ以外は大抵内偵期間があった。それがこの聞き込みだ。夜、自分の母からそれを聞いた環が裏の勝手口から尋ねてきた。
「知らない男が真ちゃんの事を聞き回ってるってお母さん言ってたわ」
「知らない男?」
「うん。たぶん憲兵の内偵だわ。嵐谷さんが嘘の密告をしたのよ」
憲兵。知識としては知っているが、令和な健二にはピンと来ない職業だ。たしか日本軍管轄の警察で、太平洋戦争当時は防諜・思想取り締まりが主任務になってたんだっけ?
「それって捕まるとまずいよね?」
環はあきれ顔でこちらを見ている。
「当たり前でしょう、ちっちゃな子だって知ってるわよ、何言ってるの。でっち上げの罪でも捕まったら帰れないわ。拷問されてえん罪になるに決まってる」
「マジかー」
「? まじかー、ってどういう意味? この頃変な言葉使うわよね」
うっかり21世紀が出た。
「ごめん気にしないで。それよりどうしたらいいのやら。逃げるにしても行く当て無いし...」
「とりあえず明日は仕事に行って、帰りは防空壕に隠れてるというのはどうかしら」
「いやあ、あんなとこに隠れられるのは猫くらいしか...」
一晩くらいなら可能だろうけど、何も無いただの蓋付きの横穴だ。何日も暮らせるところじゃない。
「なんとか2~3日我慢するのよ。その後憲兵がいなくなったらどこかに逃げればいいわ」
「いや、だからその逃げる先が。だいたい母だって放っておけないし」
「あなたのお母さんなら、うちでなんとかするわ。とにかく行く当てが無いとしても憲兵に捕まるより絶対にマシよ」
『救護対象に助けられるとか笑えるにゃ』
『うるさい』




