第九章 私、森です
第九章 私、森です
富美子が消えてから、三日が過ぎた。
高木家に残っている幽霊は、また迷子の老人一人になった。
「静かになったなあ」
老人は居間の座卓に肘をつき、奈緒が畳んでいる小さな肌着を眺めていた。
「最初から、あなたしかいませんでしたよ」
「富美子がおったやろ」
「二日だけです」
「よう喋る人がおらんと寂しいな」
「お爺さんも十分喋っています」
「わしと修平では、会話が弾まへん」
「あなたが一方的に喋るからでしょう」
「修平」
奈緒が肌着から顔を上げた。
「喧嘩するなら、これ畳んで」
「喧嘩はしてないよ」
「爺さんが寂しいって?」
「話し相手が僕だけでは嫌みたい」
「私は聞こえないからね」
奈緒は老人が座っているあたりへ目を向けた。
「修平で我慢してください」
「我慢て何やねん」
「僕に言わないでください」
そのとき、電話の着信音が鳴った。
修平は座卓に置いていたスマートフォンを見た。
画面は暗いままだった。
それでも着信音は鳴り続けている。
「どうしたの?」
奈緒が尋ねた。
「鳴ってるよね」
「何が?」
修平は奈緒を見た。
着信音が止まった。
「電話」
「鳴ってないよ」
「でも、今」
再び音が鳴った。
画面には何も表示されない。
「ほら」
「修平?」
奈緒には聞こえていない。
迷子の老人が、面白そうにスマートフォンを覗き込んだ。
「わしには聞こえるで」
「幽霊からですね」
「出てみ」
「嫌ですよ」
「出んと終わらへんぞ」
修平はスマートフォンを手に取った。
通話の表示は出ていない。仕方なく、いつも電話に出るのと同じように画面を指で滑らせ、耳へ当てた。
「もしもし」
少しの沈黙のあと、女の声がした。
「私、森です」
「森さん」
「今、駅にいます」
「どこの駅ですか」
返事はなかった。
「どうして僕の電話番号を知ってるんですか」
電話は切れた。
修平はスマートフォンを耳から離した。
画面は、最初から何もなかったように暗い。
「誰だった?」
「森さん」
「知ってる人?」
「知らない」
「知らない人が電話してきたの?」
「駅にいるって」
「何駅?」
「聞いたら切れた」
奈緒は少し考えた。
「間違い電話じゃない?」
「僕の電話、鳴ってなかったんだよね」
「うん」
「幽霊みたいだね」
「そうみたいだね」
奈緒は納得すると、また肌着を畳み始めた。
「怖がらへんのか」
老人が聞いた。
「修平の妻やで。今さら電話くらいで驚かへんやろ」
「僕に言わないでください」
修平は着信履歴を確認した。
森という名前も、知らない番号も残っていない。
十分後、また着信音が鳴った。
「私、森です。今、商店街にいます」
「どこの商店街ですか」
電話は切れた。
さらに十五分後。
「私、森です。今、赤い看板の前にいます」
「赤い看板だけでは分かりません」
電話は切れた。
「近づいてきてへんか」
老人が言った。
「駅から商店街へ移動したことしか分かりません」
「赤い看板もあるで」
「赤い看板が何の店か分かりますか」
「分からん」
「情報が増えていません」
奈緒が洗濯籠を持ち上げた。
「今度は何だって?」
「赤い看板の前にいるって」
「こっちへ来てるの?」
「分からない」
「迎えに行かなくて大丈夫?」
「場所が分からないから」
「次にかかってきたら、もう少し詳しく聞いてあげたら」
「話の途中で切るんだよ」
「緊張してるのかもしれないよ」
「幽霊が?」
「知らない人に電話するのは、幽霊でも緊張するんじゃない?」
奈緒はそう言って、洗濯籠を抱えたまま居間を出た。
老人が感心したように見送る。
「奈緒はん、幽霊に優しいな」
「お爺さんにも優しいでしょう」
「せやな。修平と違って」
「次の電話、お爺さんが出ますか」
「遠慮しとく」
四度目の着信音が鳴った。
「私、森です。今、公園にいます」
「公園の名前は?」
「書いてありません」
「何がありますか」
「滑り台と、パンダです」
「パンダ?」
「前と後ろに揺れるものです」
修平は近所の公園を思い浮かべた。
「そこ、駅から反対方向ですよ」
電話は切れた。
「迷っとるな」
「迷ってますね」
「迎えに行ったろか」
「迷子が迷子を迎えに行って、どうするんですか」
「わしは、この辺には詳しなったで」
「自分の家へ帰る道は分からないのに?」
「それとこれとは別や」
五度目の電話で、森はコンビニの前にいた。
六度目には、郵便ポストのそばにいた。
七度目には、青い屋根の家の角まで来ていた。
「完全にこっち来とるやないか」
老人が嬉しそうに立ち上がる。
「知り合いですか」
「知らん」
「では、座っていてください」
「客が来るんやぞ。茶くらい出さな」
「飲めない人にお茶はいりません」
「雰囲気や、雰囲気」
老人は勝手に玄関へ向かった。
修平もあとを追う。
「外へ出たら駄目ですよ」
「何でや」
「あなたまで帰れなくなるからです」
「家の前くらい分かるわ」
「富美子さんの家から戻るとき、反対へ歩いたでしょう」
「あれは、ちょっと間違えただけや」
八度目の着信音が鳴った。
「私、森です」
「はい」
「今、あなたの家の前にいます」
修平は玄関の扉を見た。
「分かりました。開けます」
「待ってください」
「何ですか」
「こういうときは、驚くところです」
「もう八回も電話を受けていますから」
「でも、家の前まで来たんですよ」
「自分で教えてくれましたよね」
電話の向こうが黙った。
「開けますよ」
「少し待ってください」
「まだ何かあるんですか」
玄関の外で、女が小さく息を整える音がした。
「どうぞ」
修平は扉を開けた。
誰もいない。
「私、森です」
背後から声がした。
修平は振り返った。
三十代くらいの女が立っていた。
肩までの黒い髪。白いブラウスに、紺色のスカート。顔色は悪いが、血がついているわけでも、身体のどこかが欠けているわけでもない。
女は両手を身体の前で揃え、修平の反応を待っていた。
「森さんですね」
「……はい」
「着きましたね」
「驚かないんですか」
「電話で教えてもらいましたから」
「後ろから声をかけたのに」
「声をかける前から、そこにいるのが見えていました」
森はうつむいた。
「そうですか」
老人が森の周りを一周する。
「何がしたかったんや、この人」
「僕にも分かりません」
「何だって?」
奈緒が居間から声をかけた。
「森さんが来た」
「電話の人?」
「うん」
「外は寒いでしょう。入ってもらったら?」
森は顔を上げた。
「奥さんには、私が見えないんですよね」
「見えません。声も聞こえないです」
「それでも、入っていいんですか」
奈緒には聞こえていない。
修平は森の言葉を伝えた。
「来た人を外に立たせておけないでしょう」
奈緒の返事を聞き、森は玄関の中を見た。
「お邪魔します」
奈緒には聞こえない声で挨拶をして、森は高木家へ上がった。
脱ぐ必要のない靴を、脱ぐ真似までしていた。




