第十章 怪異の真似事
第十章 怪異の真似事
森は居間の隅に立ち、奈緒を見ていた。
奈緒は座卓の前で、さっきの続きを畳んでいる。
森がすぐ後ろまで近づいても、振り返らない。
肩越しに顔を覗き込んでも、手を止めない。
「何をしてるんですか」
修平が尋ねると、森は人差し指を唇へ当てた。
「静かにしてください」
「奈緒には聞こえませんよ」
「分かっています」
森は奈緒の耳元へ口を寄せた。
「うらめしや」
奈緒は畳み終えた肌着を重ね、次の一枚を手に取った。
森は反対側の耳へ移動した。
「うらめしや」
やはり何も起こらない。
「声、小さないか」
迷子の老人が口を挟んだ。
「大きければ聞こえるんですか」
「やってみな分からんやろ」
森は一度、息を吸う真似をした。
「うらめしや!」
奈緒が顔を上げた。
森の表情が明るくなる。
「修平、さっきから何を見てるの?」
奈緒が尋ねた。
「森さん」
「どこにいるの?」
「奈緒の後ろ」
奈緒は振り返った。
森と目が合う位置に顔を向けている。けれど、その視線は森を通り抜け、壁で止まった。
「近い?」
「かなり」
奈緒は少し身体を前へ動かした。
「踏んだりしないなら、そこにいてもいいけど」
森には、その言葉が聞こえている。
「いいそうです」
修平が言うと、森は奈緒の後ろから離れた。
「驚かなかったですね」
「見えてませんから」
「少しくらい、寒気がするとか」
「しないみたいです」
「気配を感じるとか」
「気配もないみたいです」
「全部言わなくていいです」
森は居間の隅へ戻った。
老人があとを追う。
「立っとるだけやからあかんのや。もっと髪をこう、顔の前に垂らしてみ」
「こうですか」
「手も前に出して」
「それは幽霊というより、ゾンビじゃないですか」
「似たようなもんや」
「一緒にしないでください」
森は顔の前へ髪を垂らし、両手を前へ出した。
「どうですか」
「怖いというより、前が見えへん人やな」
「真面目に考えてください」
「十分真面目や」
「二人とも、何をしてるんですか」
修平が止めると、森は髪を両手で整えた。
「怪異です」
「真似をしてるだけやけどな」
老人が付け加えた。
「怪異の真似をして、どうするんですか」
「気づいてもらえます」
「誰に?」
「生きている人に」
森はそれだけ答えた。
次に森が試したのは、鏡だった。
洗面所へ向かう奈緒についていき、鏡の中へ入ろうとした。
修平と老人も、廊下から様子を見ている。
「映ってるか?」
「映ってません」
「もっと奈緒はんに近づいたらどうや」
「さっき、近すぎると言われました」
「言うてへん。踏まんかったらええ言うただけや」
「同じです」
森は奈緒の隣へ並んだ。
鏡には、顔を洗っている奈緒だけが映っている。
森は鏡の向こうからこちらを見つめ、ゆっくり首を傾けた。
奈緒も顔を上げた。
鏡の中の森と、奈緒の顔が並ぶ。
そう見えるのは修平だけだった。
「何かいる?」
奈緒が鏡越しに尋ねた。
「森さんが隣にいる」
「そう」
奈緒はタオルで顔を拭いた。
「洗面所を使うなら、髪の毛を落とさないでください」
森は自分の髪を押さえた。
「落ちるんですか」
「落ちません」
「では、どうして伝えたんですか」
「奈緒なりの挨拶です」
「分かりにくいですね」
「森さんに言われたくないと思います」
鏡も失敗した。
森は電灯の紐を引こうとした。
指がすり抜けた。
襖を勝手に開けようとした。
手が襖の向こうへ消えただけだった。
空のコップを倒そうとして、腕ごと通り抜けた。
「何一つ動かせへんな」
老人が言った。
「あなたは動かせるんですか」
「無理や」
「では、黙っていてください」
「わしは人を驚かそうなんて思うてへんもん」
「私だって、好きでやっているわけではありません」
森はコップを睨み、何度も手を伸ばした。
指先がガラスを突き抜ける。
コップは少しも動かなかった。
「もういいでしょう」
修平が声をかけても、森はやめなかった。
「一度くらい、できるかもしれません」
「できたら、どうするんですか」
「この家の人が驚きます」
「奈緒を驚かせるために、うちへ来たんですか」
「違います」
「では、誰を驚かせたいんですか」
森は答えなかった。
その日の午後、修平は買い物へ出た。
奈緒は少し眠いと言い、家に残った。
迷子の老人と森が、当然のようについてきた。
「二人とも留守番していてください」
「何でや。せっかく三人おるんや。一緒に行こうや」
「買い物に幽霊二人もいりません」
「私も行きます」
「な。本人もこう言うとる」
「何が『な』なんですか」
三人で住宅街を歩いた。
森は向こうから来た若い女の前に立った。
女は森の身体を通り抜け、スマートフォンを見ながら歩いていく。
森はすぐ後ろへ回った。
肩越しに画面を覗き込む。
女は一度も振り返らなかった。
「今のは、スマートフォンに夢中だったからです」
「そうかもしれませんね」
次に来たのは、犬を連れた男だった。
森は歩道の真ん中に立ち、両手を広げた。
犬が顔を上げる。
「気づきました」
森が嬉しそうに言った。
犬は森の横を通り過ぎ、迷子の老人の足元を嗅ぎ始めた。
「わしやな」
「あなたですね」
「何でよ」
森が初めて敬語を忘れた。
犬は尻尾を振り、飼い主に引かれて去っていった。
「犬には、わしの良さが分かるんや」
「匂いを嗅がれていただけでしょう」
「幽霊に匂いはないですよ」
「ほな、やっぱり人柄やな」
「死んでますけどね」
森は二人の会話を無視して、先へ歩いた。
近所のスーパーへ入り、修平は夕飯に使う玉ねぎと牛乳をかごへ入れた。
森はレジの店員の正面に立ち、顔の前で何度も手を振った。
店員は森の腕を通り抜けるように商品を受け取り、値段を読み上げた。
「玉ねぎ一点、牛乳一点」
森のことは数えなかった。
会計を終えた修平は、買ったものを袋へ入れた。
「店員さんも気づきませんでした」
「仕事中ですから」
「目の前に立ったんですよ」
「見えていなければ、どこに立っても同じです」
森は納得しないまま、修平たちと店を出た。
信号の前では、横断歩道の向こうに立ってみた。
店の窓では、通り過ぎる人の横へ並んでみた。
帰り道の公園では、誰も座っていないブランコに腰を下ろした。
誰一人、森を見なかった。
ブランコも揺れなかった。
「もう帰りませんか」
修平が言うと、森は鎖を握れない手を膝へ置いた。
「もう少しだけ」
「何を待ってるんですか」
「誰かが気づくのを」
「どうして?」
森は俯いた。
公園の入口から、母親に手を引かれた小さな男の子が入ってきた。
男の子が森のほうを見る。
森は顔を上げた。
男の子は足を止め、じっとこちらを見つめている。
「見えてる」
森が立ち上がる。
男の子は、森の隣にある砂場を指さした。
「お砂、やる」
「あとでね。先にお買い物」
母親は男の子の手を引き、公園を通り過ぎていった。
森は立ったまま、その背中を見送った。
「私じゃなかった」
「そうですね」
「今まで一人くらい、見えてもいいと思いませんか」
「見える人は、そんなに多くないですから」
「怪異の真似もしました」
「してましたね」
「電話もかけました。後ろから声もかけました。鏡にも入ったし、物も動かそうとしました」
「はい」
「それでも、誰も気づかない」
森は空いているブランコを見た。
「どうして、そこまで気づいてほしいんですか」
修平は、今度は返事を待った。
森が黙っていても、別の質問を重ねなかった。
迷子の老人も口を挟まなかった。
公園の外を、買い物袋を下げた人が通り過ぎる。
自転車に乗った学生が、笑いながら角を曲がっていく。
誰も森を見ない。
「生きていたときからです」
しばらくして、森が言った。
「何が?」
「誰にも、気づかれませんでした」
「いじめられていたんですか」
「いいえ」
森は首を横に振った。
「挨拶をすれば、返してくれました。仕事を頼まれることもありました。嫌われていたわけではないと思います」
「では、どうして?」
「私がいても、いなくても、同じだったから」
森は自分の両手を見た。
「誰かと話していても、別の人が来たら、私はいないみたいになりました。三人で歩けば、いつも私だけ少し後ろでした。昼休みも、声をかけてもらえるのを待っているうちに、みんな行ってしまって」
「森さんからは、声をかけなかったんですか」
「かけようとは、思いました」
「思っただけ?」
「私が入ったら迷惑かもしれないと思ったから」
「本当に、迷惑だと言われたんですか」
「言われてません」
森は小さく答えた。
「私が、そう思っていただけかもしれません」
修平は何も言わなかった。
「でも、ずっとそうだったんです。誰かに名前を呼ばれた記憶も、あまりありません」
「森さん」
修平が呼ぶと、森は顔を上げた。
「……はい」
「続けてください」
森は修平を見た。
「死んだら、誰か一人くらい気づくと思いました」
「どうして?」
「幽霊になれば、怖がってもらえるから」
森は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「でも、死んでからのほうが、もっと空気になりました」




