第八章 腹いっぱい
第八章 腹いっぱい
富美子が言っていた店は、スーパーから歩いて十五分ほどの場所にあった。
古い商店街の入口にある、小さな食料品店だった。
軒先には野菜の入った段ボール箱が並び、色の褪せた赤い幟が風に揺れている。
「ほら、あったでしょう」
富美子が胸を張った。
「まだ営業してたんですね」
「失礼ね。昔からある店よ」
店へ入ると、富美子は迷わず奥の冷蔵棚へ向かった。
「これ。さっきの店より十円安いでしょう」
修平が値札を見る。
本当に十円安かった。
「合ってた?」
奈緒が尋ねる。
「十円安い」
「よかった。ここまで来て高かったら、どうしようかと思った」
「そんなわけないでしょう」
富美子は奈緒の言葉が聞こえたらしく、得意げに鼻を鳴らした。
「ついでに納豆も見て」
「もう買いました」
「値段を見るだけよ」
「見ません」
「負けるのが怖いの?」
「何と戦ってるんですか」
迷子の老人は、入口に積まれた蜜柑の箱を覗き込んでいた。
「こっちも安いで。二袋買うたら百円引きや」
「お爺さんまで参加しないでください」
「安いもんを安い言うて何が悪い」
「そのとおりよ」
「二人とも食べられないでしょう」
修平は牛乳だけを持ってレジへ向かった。
奈緒が隣に並ぶ。
富美子は店内を見回していた。
「少し狭くなったわね」
「店が?」
「そう。昔はもっと広かった気がする」
「あなたが覚えているより、時間が経ってるんじゃないですか」
富美子は何も答えなかった。
店を出ると、富美子は商店街の中をゆっくり見渡した。
右にはクリーニング店。左には薬局。その先に、看板を外された空き店舗がある。
「魚屋さんがない」
「閉めたんでしょうね」
「向かいのお茶屋さんも」
「違う店になってます」
「あそこのコロッケ、安かったのよ」
富美子は一軒ずつ確かめるように歩いた。
何度か立ち止まり、道を間違えたと言って引き返した。
「ほんまに帰れるんか」
老人が尋ねる。
「帰れるわよ」
「さっきから同じ花屋の前、二回通っとるで」
「一本、曲がるところを間違えただけ」
「それを迷子言うんや」
「あなたと一緒にしないで」
富美子は歩く速度を上げた。
商店街を抜け、住宅街へ入る。
古い家の間に、新しい建売住宅が並んでいる。富美子は知らない家が増えたと文句を言い、残っている塀や庭木を見つけるたびに安心したような顔をした。
「この角」
富美子が立ち止まった。
「ここを曲がったら、家よ」
声が少し震えていた。
角を曲がる。
通りの中ほどに、二階建ての古い家があった。
外壁は塗り直されていたが、門柱と低い石垣は昔のままらしい。
家の斜向かいには、小さな公園があった。滑り台と砂場、それから道路に面したベンチが一つだけ置かれている。
「あった」
富美子が呟いた。
玄関先には自転車が二台止まっている。庭には小さな子ども用の靴が、片方だけ転がっていた。
家の中から、何人もの話し声が聞こえる。
「誰か来てるみたいですね」
「勝手に入って何してるのよ」
富美子は早足で門を抜けた。
奈緒は公園のベンチへ腰を下ろした。迷子の老人と修平は、道路に残った。
「入らないの?」
奈緒が聞く。
「知らない家だから」
「でも、その人は入ったんでしょう」
「幽霊は不法侵入で捕まりませんから」
「あんたも来なさい!」
開いている居間の窓から、富美子が顔を出した。
「呼ばれた?」
「呼ばれた」
「ちょっと話を聞いてくる」
「ここで待ってるね」
奈緒は牛乳の入った袋を足元へ置いた。
修平は家の脇を通る細い道へ回った。居間の窓が、道路に面して開けられている。
窓の真下へ腰を下ろすと、家の中から修平の姿は見えない。それでも話し声と、食器の触れ合う音はよく聞こえた。
迷子の老人は塀をすり抜け、先に居間へ入っていった。
「三人ともいるわ」
富美子の声が、頭の上から聞こえる。
「一番上と、真ん中の娘と、一番下。みんな家族を連れてきてる。孫も四人いるわ」
「旦那さんは?」
「いるわよ」
「夫よ」
富美子が言った。
「ずいぶん老けたわね」
「あなたが亡くなってから、時間が経ったんでしょう」
「分かってるわよ」
「三人とも、すっかり年を取ったわ」
そう言う富美子の声は、少しだけ嬉しそうだった。
「お肉、もうないの?」
幼い男の子の声がした。
「まだ台所にあるよ」
女の声とともに、誰かが立ち上がる気配がした。
「母さんなら、最初から全部出すなって怒るな」
長男が笑った。
「冷めたらもったいない、食べる分だけ出しなさいって」
「それの何が悪いのよ」
富美子が言い返す。
もちろん、部屋の中には聞こえない。
冷蔵庫の扉が開く音がした。
「それ、どこで買った?」
姉がすぐに聞いた。
「駅前」
「高いでしょう。商店街の入口の店なら十円安いわよ」
「出た。母さん」
長男が声を上げる。
「姉ちゃん、年々似てきたな」
「誰がよ」
「買い物の仕方が、完全に母さん」
「同じものなら安いほうがいいでしょう」
娘が言うと、部屋に笑い声が広がった。
「私と同じこと言った」
「言いましたね」
「声まで似てきたわ」
「ばあちゃんの卵焼き、食べてみたかったな」
今度は、女の子の声が聞こえた。
「甘かったぞ」
白髪の夫が答えた。
「だし巻きじゃなかったの?」
「だしも入ってた。砂糖も入ってた」
「どっちも入れればいいのよ」
富美子が胸を張る。
「母さん、自分は端っこしか食べなかったよね」
真ん中の娘が言った。
「端が好きなんだと思ってた」
「俺も」
「違ったのかな」
誰もすぐには答えなかった。
「うち、金なかったらしいからな」
「らしいって何よ」
「子どもの頃は分からなかった。腹いっぱい食ってたから」
「私も、大人になってから父さんに聞いた」
しばらく返事はなかった。
「富美子は、子どもに腹いっぱい食わせることばかり考えてたからな」
「確かに」
長男が笑った。
「朝も昼も夜も、腹いっぱい食わせてもらった」
「おやつまで出たものね」
娘も笑う。
「あいつがいなくなってからも、お前らがしょっちゅう帰ってくる。飯を食いに来る癖だけは、しっかり残ったな」
「父さん一人にしとけないからでしょう」
「ついでだ、ついで」
家の中に、また笑い声が広がった。
富美子は何も言わなかった。
しばらくして、窓から顔を出した。
「誰の皿も空じゃないわ」
「皆さん、幸せそうですね」
修平が言った。
「そうね」
「貧乏させてしまったと思ってた」
「でも、誰も嫌だったとは言ってません」
「子どもの頃は、分からなかったのね」
「腹いっぱい食べてたから」
修平が、長男の言葉を繰り返した。
富美子は笑った。
「そう。腹いっぱいには、してやれたのよ」
富美子は窓をすり抜け、修平の前へ降りた。
その身体が、足元から薄くなり始めた。
「富美子さん」
「何?」
「もう、帰れますか」
富美子はもう一度、居間へ戻った。
「帰れたわよ」
迷子の老人の声が、居間から聞こえた。
「ええ家族やな」
「当たり前でしょう。私の家族だもの」
「最後まで偉そうやなあ」
「あなたも早く帰りなさいよ。いつまでも人の家について歩いてないで」
「帰る場所が分からへんねん」
「だったら思い出しなさい」
「簡単に言うなや」
富美子が窓から修平を見下ろした。
「この人の話も、ちゃんと聞いてあげて」
「聞いてるんですけど、本人が何も覚えてないんです」
「じゃあ、思い出すまで聞きなさい」
「無茶を言いますね」
「あんた、聞くくらいしかできないんでしょう」
修平は答えなかった。
富美子の輪郭は、もうほとんど見えなくなっている。
「牛乳、買ってくれてありがとう」
「家へ帰るためじゃなかったんですか」
「十円安かったでしょう」
富美子は得意げに笑い、そのまま消えた。
富美子が消えたあとも、開いた窓から家族の笑い声が聞こえていた。
修平は立ち上がり、服についた埃を払った。
公園へ戻ると、奈緒がベンチに座って待っていた。
「行けた?」
奈緒が小さな声で尋ねた。
「うん」
「何て?」
「腹いっぱいには、してやれたって」
「うん。良かった」
修平はうなずいた。
修平はベンチの足元から牛乳の入った袋を持ち上げ、三人で家を離れた。




