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ココロノコリ  作者: もちむぎ


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第七章 牛乳は向こう

第七章 牛乳は向こう


 土曜日の午後、修平は奈緒と近所のスーパーに来ていた。


 迷子の老人も一緒だった。


「夫婦の買い物について来る必要、あります?」


「ほな、わし一人で留守番せえ言うんか。寂しいやないか」


「死んでる人が留守番を寂しがらないでください」


「死んどっても寂しいもんは寂しいねん」


 奈緒が振り返った。


「どうしたの?」


「いや、何でもない」


 修平は買い物かごを持ち直した。


 奈緒はしばらく修平の右隣を見ていたが、それ以上は何も聞かなかった。


「牛乳、買ってくるね」


 奈緒が乳製品売り場へ向かう。


 修平もあとを追おうとして、足を止めた。


「牛乳は向こう」


 今度は左から声がした。


 エプロン姿の女が、腰に手を当てて立っている。五十代くらいだろうか。短く巻いた髪に、薄紫色のカーディガン。片手には折り畳まれたチラシを持っていた。


「向こうの店なら、同じ牛乳が十円安いの」


 修平は聞こえなかったことにして、奈緒のあとを追った。


「ちょっと。十円よ」


 女もついてくる。


「毎日飲むんだから、一年で考えたら大変な差になるでしょう」


 奈緒が牛乳を一本かごに入れた。


「低脂肪のも買う?」


「普通のでいいんじゃないかな」


「向こうなら十円安い」


「これでいいと思う」


「十円安いのに」


 修平は牛乳を見つめた。


「……やっぱり、あとでいい?」


「どうして?」


「少し比較してから」


「牛乳を?」


「牛乳を」


 奈緒は不思議そうな顔をしながら、牛乳を棚へ戻した。


 女は満足そうにうなずいた。


「豆腐はここが一番安いわ。三丁買って」


「三丁もいりません」


「何?」


 奈緒がまた振り返る。


「いや、一丁でいいんじゃないかなって」


「最初から一丁のつもりだけど」


「そうだよね」


「三丁あれば、お味噌汁と冷ややっこと麻婆豆腐ができるじゃない」


 女がチラシで豆腐を指した。


「三日続けて豆腐は嫌です」


「修平?」


「独り言」


「さっきから多いね、独り言」


「今日はちょっと」


 奈緒は一丁だけかごに入れた。


 女は不満そうに口を尖らせた。


「納豆は二軒先。三パックで六十八円」


「二軒先まで行きません」


「卵は木曜日」


「今日は土曜日です」


「だから買っちゃ駄目」


「卵がありません」


「あと五日くらい我慢できるでしょう」


「できませんよ」


 奈緒が卵のパックを持ったまま、修平を見た。


「誰と話してるの?」


 修平は黙った。


 迷子の老人が、面白そうに女のチラシを覗き込んでいる。


「ほんまや。卵、木曜百八円やて」


「でしょ? お一人様一パックだけど、この人たち夫婦だから二パック買えるわ」


「ええなあ。二人おると得やなあ」


「意気投合しないでください」


 修平は小さく息を吐いた。


「……知らない人」


「知らない人?」


「エプロンを着た女の人。さっきから、牛乳は向こうが十円安いとか、納豆は二軒先だとか」


「卵は?」


「木曜日」


「そう」


 奈緒は手にした卵を見た。


 それから、何事もなかったようにかごへ入れた。


「今日は必要だから買う」


「木曜まで待ちなさいよ」


「木曜日まで待てと言ってる」


 修平が伝えると、奈緒は首を横に振った。


「待てない。今日使うから」


 富美子は不満そうに卵を睨んだ。


「計画性がないわね」


「それは伝えませんよ」


 奈緒は、修平が話しかけているあたりへ顔を向けた。


「教えてくれてありがとうございます。でも、今日はここで全部買って帰ります」


 女が目を丸くした。


「十円安いのよ」


「同じ牛乳が十円安いんだって」


 修平が伝える。


「うん。でも、店を何軒も回ったら疲れるから」


「十円を笑ったら駄目よ」


 女の声が強くなった。


「十円あれば、もやしが買えたの。二十円あれば、豆腐が一丁買えた。三十円あったら、子ども三人の味噌汁に卵を一つ落としてやれたのよ」


 修平は女を見た。


 さっきまで得意げに振られていたチラシが、胸の前で固く握られている。


「子どもが三人いたんですか」


「いるわよ。男、女、男。上と下は六つ離れてる」


 女はすぐに答えた。


「よく食べたわ。育ち盛りが三人もいたら、お米なんてすぐなくなるんだから」


「それで、毎日安い店を回ってたんですか」


「毎日じゃないわ。月曜は駅前の魚屋、火曜は商店街のお肉屋さん。木曜は卵。金曜はここの野菜が安かったの」


「十分、毎日やないか」


 老人が感心したように言った。


「同じものなら安いほうがいいでしょう」


 女は老人を睨み、それから修平へ向き直った。


「夫のお給料だけじゃ足りなかったのよ。家賃を払って、学校のお金を取っておいたら、残るのは食費くらい。服はお下がりで何とかなる。遠足のお菓子だって、百円までって決まってる。でも、ご飯だけは減らせないでしょう」


 修平は黙って続きを待った。


「お腹がすいたって言わせたくなかったの」


 女は手の中のチラシを見下ろした。


「おかずが少ない日は、キャベツを刻んで山盛りにしたわ。お肉が足りなければ、豆腐でかさを増やした。卵を一つしか使えない日は、だしをたくさん入れて大きな卵焼きにした」


「三人で一つ?」


「四人で一つよ。夫もいたもの」


「あなたの分は?」


「卵焼きの端っこ。切ると形が悪いところがあるでしょう。あれは作った人の分なの」


 女は当たり前のように言った。


「それで足りたんですか」


「足りないから、お茶を飲むのよ」


 奈緒が修平の顔を見ている。


 女の言葉は聞こえていない。それでも、もう急かさなかった。


「お子さんたちは、今どこにいるんですか」


 修平が尋ねると、女は答えなかった。


「会ってないんですか」


「大人になったわよ」


「今、どうしているかは?」


「知らない」


 その声だけが小さかった。


 女は、棚に並んだ卵へ目を向けた。


「ちゃんと食べてるかしら」


「もう大人なんでしょう」


「大人だって、お腹はすくわよ」


「そうですね」


 修平は否定しなかった。


「帰り道が分からないんですか」


「家があった場所は覚えてる。でも、ここからどう帰るのかが分からないの。道も店も変わってるから」


「名前は?」


「山口富美子」


「住所は覚えていますか」


「昔の住所なら。でも、今もあの家に住んでるかどうか」


 富美子は口を閉じた。


 迷子の老人がチラシの端を覗き込む。


「この牛乳が安い店からやったら、帰れるんか」


「多分ね。あの店は昔からあるもの。そこからなら、いつもの道を歩けばいい」


 修平は奈緒へ、今までの話を短く伝えた。


 三人の子どもを育てたこと。


 食べさせるために、毎日安い店を回っていたこと。


 今も家族がきちんと食べているのか、気にしていること。


 奈緒はかごの中を見た。


 卵、豆腐、食パン。買う予定だったものが入っている。


「じゃあ、牛乳は向こうで買おうか」


「え?」


「その店からなら、その人は家へ帰れるんでしょう?」


「多分。昔からある店だから、そこからなら帰り道を思い出せるって」


 修平が答えてから、富美子を見る。


 富美子はしばらく何も言わなかった。


「十円、安いしね」


 奈緒が付け加えた。


 富美子は胸元のチラシを一度伸ばし、折り目に沿って丁寧に畳み直した。


「そうよ」


 顔を上げたときには、また得意げな表情に戻っていた。


「だから、最初から牛乳は向こうだって言ったでしょう」


 修平は買い物かごを持ち直した。


「それなら、案内してください」


「任せなさい。ついでに納豆も買うわよ。三パックで六十八円だから」


「納豆はここで買いました」


「返品しなさい」


「しません」


 富美子は文句を言いながら、先に歩き出した。


 自動扉を抜けたところで一度振り返り、三人がついて来ていることを確かめる。


 その姿は、買い物帰りの家族を待つ母親のようだった。

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