第五章 迷子の爺さん
第五章 迷子の爺さん
「あの」
背後から声をかけられ、修平は足を止めた。
振り返ると、困った顔をした老人が立っていた。
黒い帽子に、茶色の背広。手には何も持っていない。七十をいくつか越えているだろうが、背筋はまっすぐ伸びていた。
「駅やったら、どっちや」
修平は来た道を指さした。
「この道をまっすぐです。五分くらい歩けば着きます」
「ちゃうちゃう。そっちの駅やない」
老人は人差し指を上へ向けた。
「向こうや。死んだ人間が行くほう」
「それは、僕にはわかりません」
「なんや。見えるだけかいな」
「そうです」
老人は露骨にがっかりした。
「役に立たんなあ」
「すみません」
「そこで謝るんか。兄ちゃん、人がええな」
老人は修平の周りを一周した。
「ほな、こういうのはどうや。手ぇ合わせて、お経の一つでも唱えてみる」
「お経は知りません」
「塩は?」
「持ってません」
「数珠」
「ないです」
「ほんまに何もできへんな」
「僕の仕事は会社員です」
「幽霊見える会社員なんか聞いたことないわ」
「僕も、ほかには知りません」
駅へ向かう人々が、二人のあいだを通り過ぎていく。誰も老人を避けなかった。身体が重なっても、気づかずに歩いていった。
老人は腕を組み、空を見上げた。
「まあ、ええわ。自分のことは自分で何とかする」
「できるんですか」
「当たり前や。成仏やろ? そんなん簡単や」
老人は胸を張った。
「ビューッと行って、ドンと止まって、最後はぎゅーんや!」
修平には、何一つわからなかった。
「どこへ行くんですか」
「そら、行ったらわかる」
「今はわからないんですね」
「細かいこと気にしたら、立派な大人になられへんぞ」
「もう三十五です」
「まだまだ若造やないか」
老人は帽子のつばを指で上げた。
「まあ見とけ。見事に消えたるから」
そう言うと、駅とは反対の道を歩き出した。
「そっちで合ってるんですか」
「わしを誰やと思っとる。七十八年、人間やっとったんやぞ」
老人は一度も振り返らず、角を曲がって見えなくなった。
修平は腕時計を見た。
いつもの電車には、もう間に合わない。
「名前くらい聞けばよかったな」
修平はそう呟き、駅へ向かった。
翌朝。
修平がアパートの扉を開けると、老人が立っていた。
昨日と同じ帽子と背広だった。
「おはようございます」
「おう」
「成仏できたんじゃなかったんですか」
老人は遠くを見るように目を細めた。
「……そう、思っていた時期もありました」
「昨日の朝ですよね」
「時間の長さやない。思いの深さや」
「できなかったんですね」
「ええ、ええ」
老人は二度、大きくうなずいた。
「迷子です」
修平は黙った。
「なんや、その目は」
「迷子なんだと思って」
「見たらわかることを言うな」
「自分で言いましたよね」
「爺さんやけど迷子ですぅ。助けて」
老人は急に腰を曲げ、両手を合わせた。
「僕にも成仏する道はわかりません」
「そこを何とかするんが、見える人の仕事やろ」
「僕の仕事は会社員です」
「昨日も聞いたわ!」
修平は老人の横を通り過ぎ、駅へ向かって歩き出した。
老人もついてきた。
「どこまで来たか、覚えてないんですか」
「気ぃついたら、あの道におった」
「名前は?」
「忘れた」
「家は?」
「それも忘れた」
「家族はいますか」
「たぶん、おった」
「亡くなった理由は?」
「知らん」
修平は立ち止まった。
「何なら覚えてるんですか」
「七十八まで生きた」
「それだけ?」
「あと、わしは人に好かれとった」
「誰に?」
「みんなや」
「名前は?」
「知らん」
「一人も覚えてないんですね」
「細かいこと気にしたら、立派な大人になられへんぞ」
修平は歩き出した。
老人も当然のようについてきた。
電車へ乗り、会社の最寄り駅で降り、事務所の中まで入ってきた。
修平が伝票を確認しているあいだは、背後から数字を読み上げた。
「三万四千……お、次は五万二千。儲かっとるな」
「静かにしてください」
「誰に言ってるんですか?」
向かいの後輩が顔を上げた。
「独り言」
修平はそう答えた。
老人は隣で腹を抱えて笑った。
「変なやつやと思われたなぁ」
修平は右目を閉じた。
姿は消えた。
「見えへんふりしても無駄やぞ」
声は消えなかった。
昼休みになると、老人は修平のパンをのぞき込んだ。
「それだけか。若いもんが情けない」
「食べられない人に言われたくありません」
「わし、生きとった頃は毎朝、焼き魚と味噌汁やったぞ」
「家のことは忘れたのに、朝食は覚えてるんですね」
「大事なことから思い出すんや」
「じゃあ、家は当分先ですね」
「口の減らん若造やな」
老人は結局、帰りの電車にも乗ってきた。
修平がアパートの前で足を止める。
「ここまでです」
「なんでや」
「家に帰るので」
「知っとる」
「ついてこないでください」
「行くとこないねん」
「僕の家は、死んだ人の宿泊所じゃありません」
「別に飯も布団もいらん。ええ客やないか」
老人は扉を開けるより先に、壁をすり抜けた。
「ちょっと」
修平が慌てて鍵を開ける。
居間では、奈緒が夕食を並べていた。
「おかえり」
「ただいま」
老人は勝手に部屋の中を見回している。
「狭い家やな」
「出てください」
「修平?」
奈緒が箸を置いた。
「いるの?」
「いる」
「昨日の人?」
「違う。今日からいる人」
「今日だけや!」
老人が抗議した。
奈緒には聞こえていない。
「どんな人?」
修平は老人を見た。
老人は背広の襟を正し、胸を張った。
「道に迷った、お爺さん」
「ただの爺さんちゃうぞ。人に好かれた、立派な爺さんや」
「名前も家も覚えていない」
「余計なこと言わんでええ!」
奈緒は老人がいるらしい場所へ目を向けた。
「座る?」
「座る座る。奥さん、話わかるなあ」
老人は修平より先に、食卓の前へ座った。
こうして、迷子の爺さんは高木家に居着いた。




