第四章 話を聞くだけ
第四章 話を聞くだけ
橋を離れた頃には、日付が変わりかけていた。
修平がアパートの扉を開けると、居間の明かりがまだついていた。
「おかえり」
妻の奈緒が、ソファから身体を起こした。
膝には毛布がかかっている。丸みの目立ち始めた腹を片手で支えながら、もう片方の手でテレビの音量を下げた。
「ただいま。起きてたの?」
「待ってたわけじゃないよ。最近、寝つきが悪いだけ」
居間の隅には、小さなクリスマスツリーが置かれていた。奈緒が昼間に飾ったものだった。赤と金の飾りのあいだで、豆電球がゆっくり点滅している。
修平はコートを脱ぎ、奈緒の隣へ座った。
「今日は若い人?」
「どうしてわかるの」
「遅くなるって連絡が来たとき、文章が短かったから」
奈緒は眠そうに笑った。
「若い男の人。友達とふざけて、橋から川へ落ちたらしい」
「そう」
「事故だったって、友達に伝えてほしいって」
「伝えるの?」
「缶を置きに来てるみたいだから、会えると思う」
奈緒はうなずいた。
「行けた?」
「たぶん」
修平がそう答えると、奈緒は少し迷ってから尋ねた。
「紗季ちゃんのことは?」
「聞く前に消えた」
「そっか」
「また今度、誰かに聞くよ」
修平が立ち上がろうとすると、奈緒がコートの袖をつまんだ。
「おかえり」
「さっき聞いたよ」
「ちゃんと帰ってきた顔してなかったから」
修平は奈緒を見た。
「ただいま」
もう一度言うと、奈緒は満足そうに手を離した。
修平は、小さな会社で事務の仕事をしていた。
従業員は二十人ほどで、特別忙しくもなければ、暇でもない。朝は決まった時間に出勤し、伝票を確認し、取引先からの電話に応じる。
会社の人間は、修平が幽霊を見ることを知らなかった。
穏やかで、口数は少ないが、頼めば嫌な顔をせず引き受けてくれる人。
周囲からは、その程度に思われていた。
「高木さん、これもお願いしていいですか」
「うん。そこに置いておいて」
「助かります」
後輩が机を離れる。
入れ替わるように、濡れた髪の女が修平の向かいへ立った。
「聞いてください」
修平は書類から顔を上げなかった。
「少しだけでいいんです」
女の足元から、濁った水が落ちているように見えた。けれど、床は濡れていない。
修平は卓上時計を見た。
昼休みまで、あと十五分あった。
「待てますか」
小さな声で尋ねると、女は何度もうなずいた。
昼休み、修平は会社から少し離れた公園へ向かった。
冬のベンチに座る人はいなかった。
修平が端へ腰を下ろすと、女も隣へ座った。
「川へ落ちたんです」
「うん」
「暗くて、道だと思ったんです。近道をしようとして」
「うん」
「馬鹿ですよね」
「暗かったなら、仕方ないですよ」
女はしばらく黙っていた。
「母が、何度も電話をくれてたんです」
修平は続きを待った。
「仕事が忙しくて。あとでかけ直そうと思って、そのままで」
「何か伝えますか」
「いいえ」
女は首を横に振った。
「母はきっと、自分が電話をかけたせいで、私が急いだと思ってる。でも違うんです。私が勝手に近道しただけ」
「それを伝えなくていいんですか」
「母に、知らない男の人がそんな話をしたら、怖がるでしょう」
女は少し笑った。
「だから、誰か一人に聞いてほしかっただけ」
「うん」
「私のせいだったって、それだけ」
「聞きました」
女は両手を膝の上で重ねた。
その輪郭が、冬の日差しの中で少しずつ薄くなった。
「ありがとう」
「その前に、一つ聞いてもいいですか」
女は消えかけた顔を修平へ向けた。
「三歳くらいの女の子を見ませんでしたか。赤い水玉のワンピースを着ています。名前は紗季です」
女は考えるように目を伏せた。
「ごめんなさい。見てないです」
「そうですか」
女は申し訳なさそうな顔のまま消えた。
修平は一人でベンチに座り、買ってきたパンの袋を開けた。
死者がどこへ行くのか、修平は知らない。
修平に見えるのは、ここに残っている者だけだった。
話を聞けば、必ず消えるわけでもない。
伝言を届ければ、成仏するとも限らない。
修平には、彼らを祓うことも、どこかへ送ることもできなかった。
ただ、話を聞くことだけはできた。
その日の夜、奈緒は台所で林檎をむいていた。
「今日も誰かいた?」
「女の人が一人」
「何て?」
「誰かに聞いてほしかっただけだって」
奈緒はむいた林檎を皿へ並べた。
「修平は、そういう人まで全員の話を聞くの?」
「全員じゃないよ。仕事中は待ってもらうし、急いでるときは断る」
「そこ、普通の人と同じなんだ」
「普通の人だよ」
奈緒は笑い、林檎の皿を修平の前へ置いた。
「どうして続けてるの?」
修平は林檎を一切れ取った。
「いつか、紗季を見た人がいるかもしれないから」
「それだけ?」
修平は少し考えた。
「誰にも聞かれなかった言葉は、その人が消えたら一緒になくなるから」
奈緒は何も言わなかった。
修平も、それ以上は話さなかった。
翌朝、修平はいつもの時間に家を出た。
駅へ向かう道には、生きている人も、死んでいる人もいた。
「あの」
背後から声をかけられ、修平は足を止めた。
振り返る。
困った顔をした男が立っていた。
修平には、相手が生きているかどうかより、何を話したがっているのかのほうが大切だった。




