第三章 一言だけなら
第三章 一言だけなら
高校生になっても、修平は返事をしなかった。
廊下の隅に立つ者にも、駅のホームから線路を見つめる者にも、教室の一番後ろに座っている、制服の違う生徒にも。
見えていないふりをしていれば、たいていはそのうち諦めた。
それで困ることはなかった。
その男と目が合うまでは。
放課後、修平は少し前を歩く同級生の女子を見ていた。
彼女を見ていたというより、その後ろをついて歩く男を見ていた。
五十歳くらいだろうか。くたびれた背広を着た男が、彼女から三歩ほど離れたところを歩いている。
彼女が立ち止まれば男も止まり、歩き出せば男も歩く。
店の窓に映る男の姿は、修平にしか見えていなかった。
幽霊だとわかっていても、やっていることはどう見ても尾行だった。
彼女が信号を渡る。
男も渡る。
彼女が鞄から携帯電話を取り出す。
男は後ろから画面をのぞき込む。
さすがに近すぎるだろうと、修平は男を見た。
男が振り返った。
二人の目が合った。
「うちの娘に何かようか」
男が眉をひそめた。
修平は前を向いた。
見えていない。聞こえていない。
いつものように、そのまま歩き続けた。
「おい」
男の声が近づいた。
「今、目が合っただろう」
修平は答えなかった。
「お前、俺が見えてるな?」
男は同級生の後ろを離れ、修平の隣へ来た。
「見えてるだろう。おい、待て」
修平が歩く速度を上げると、男もついてきた。
家へ帰るまで、ずっとついてきた。
翌朝、玄関を出ると、男が塀にもたれて待っていた。
「遅いぞ」
修平は無視した。
「娘と、同じ学校なんだろう」
無視した。
「同じクラスか?」
無視した。
「話を聞け」
右目を閉じれば男の姿は消えた。
けれど、声までは消えなかった。
男は学校までついてきた。
授業中も修平の机の横に立ち、昼休みには購買へついてきた。放課後になると、また娘の後ろへ戻った。
それが三日続いた。
四日目の帰り道、修平は人気のない公園へ入った。
男も当然のようについてきた。
修平はベンチの前で立ち止まり、周囲に誰もいないことを確かめた。
「何ですか」
男が目を見開いた。
「やっぱり見えてたのか」
「話しかけないでください」
「そう言うな。頼みがあるんだ」
「嫌です」
修平はすぐに答えた。
「まだ何も言ってないだろう」
「どうせ、娘さんに何か伝えてほしいんでしょう」
男は口を閉じた。
図星だった。
「自分で言ってください」
「言えるなら言ってる」
「僕が言ったら、変に思われるから」
「そこを何とか」
「無理です」
修平は公園を出ようとした。
「急だったんだ」
背後から聞こえた声に、足が止まった。
「朝、いつもどおり仕事へ行って、そのまま倒れた。娘に何も言えなかった」
修平は振り返らなかった。
「あいつ、調理の専門学校へ行きたがってたんだ」
男は、誰も座っていないベンチを見つめていた。
「俺は反対した。料理なんか家でもできる、わざわざ学校へ行って何になるなんて言ってしまった。ただ。心配だったんだ」
男は困ったように笑った。
「少し考える時間が欲しかっただけなんだ。次に話したら、賛成するつもりだった」
修平は黙って聞いていた。
「その次が来なかった」
風が吹き、公園の隅に積もった落ち葉が転がった。
男の足元を、乾いた葉がすり抜けていく。
「頼む。一言だけでいい」
修平は長く息を吐いた。
「一言だけなら」
男が顔を上げた。
「本当か?」
「伝えたら、もうついてこないでください」
「わかった。約束する」
「何て言えばいいんですか」
「専門学校への進学、父さんは賛成だ」
男はそこで言葉を切った。
「そう言ってくれ」
翌日の放課後、修平は同級生を呼び止めた。
「少しいい?」
彼女は驚いた顔で振り返った。
「何?」
ほとんど話したことのない男子から突然声をかけられ、警戒しているのがわかった。
修平の隣では、男が落ち着きなく娘の顔をのぞき込んでいた。
「専門学校への進学、お父さんは賛成だって」
彼女の顔から表情が消えた。
「……何、それ」
「それだけ」
「誰に聞いたの」
修平は答えなかった。
「お父さんに会ったの?」
「会ったというか」
「父は死んだよ」
「知ってる」
彼女は修平を見つめた。
その目が、少しずつ涙で濡れていった。
「どうして、その話を知ってるの」
修平は男を見た。
男は何度もうなずいている。
「お父さんが、反対したまま死んだことを気にしてた」
彼女の顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「賛成するつもりだったって。次に話そうと思ってたって」
彼女は俯いた。
こぼれた涙が、制服の袖へ落ちた。
「本当に?」
「うん」
彼女は一歩近づき、修平の制服の袖を掴んだ。
「おい、ちょっと近くないか?」
男が二人のあいだへ割って入ろうとした。
身体は修平をすり抜けた。
「離れろ。俺の娘から離れろ」
ついさっきまで泣きそうな顔をしていた男が、修平の周りをうろうろしている。
修平は思わず笑った。
彼女が涙を拭いながら、怪訝そうに顔を上げた。
「何?」
「いや。何でもない」
彼女はしばらく袖を掴んでいたが、やがて小さく頭を下げた。
「ありがとう」
男の姿が薄くなり始めた。
慌てていた男も、それに気づいた。
娘の顔を見て、静かに笑った。
「ありがとうな」
その声は、娘には届かなかった。
修平にだけ聞こえた。
男は消えた。
あとには、泣きながら笑う同級生だけが残った。
返事をすれば、変な目で見られる。
関われば、面倒なことになる。
それでも、聞かなければ届かない言葉がある。
修平はその日、初めてそれを知った。




