第二章 返事をしない子
第二章 返事をしない子
事故のあと、修平は伯母の家に引き取られた。
父の姉にあたる伯母は、修平のために二階の一室を空け、新しい布団と小さな机を用意してくれた。
「今日からここが修平の部屋よ」
机の上には色鉛筆と画用紙が置かれていた。押し入れには、従兄が昔遊んでいたという玩具も入っていた。
伯母は優しかった。
食べたいものを聞き、夜中に修平が目を覚ませば、眠るまでそばにいてくれた。
けれど、その家にも知らない人がいた。
縁側に、痩せた老人が座っていた。
伯母が洗濯物を干しているあいだも、夕食の支度をしているあいだも、老人は庭を眺めていた。
修平が右目を閉じると消えた。
開くと、また同じ場所に座っていた。
「坊主」
呼ばれても、修平は返事をしなかった。
病院にいた老婆に返事をしたとき、看護師から誰と話しているのかと聞かれた。伯母にも、何もない場所を指して両親がいると言ってしまった。
もう、誰もいないところへ話しかけてはいけない。
幼い修平にも、それくらいはわかっていた。
「聞こえとるんだろう」
老人は毎日、修平へ話しかけた。
「庭の柿は、まだ渋いぞ」
「廊下を走ると転ぶぞ」
「その煎餅は、仏壇から持ってきたやつだろう」
返事をしなくても、老人は勝手に話した。
ある夜、修平が喉の渇きで目を覚ますと、老人が枕元に立っていた。
「ばあさんが、また薬を飲み忘れとる」
伯母の家には、伯母の義母も暮らしていた。老人はその人の夫だった。
修平は布団をかぶった。
「昼の分を飲んどらん。台所の棚に置いたままだ」
老人は何度も同じことを言った。
修平は両目を閉じ、聞こえないふりをした。
それでも声は消えなかった。
「飲まんと、また倒れるぞ」
修平は布団から顔を出した。
「僕に言っても、わからないよ」
老人は黙った。
部屋の外で、何かが落ちる音がした。
修平が廊下へ出ると、伯母の義母が壁にもたれて座り込んでいた。
「おばちゃん!」
修平の声で伯母が起きてきた。
救急車が呼ばれ、大人たちが慌ただしく家を出ていった。修平は従兄と一緒に留守番をした。
翌朝、伯母が帰ってきた。
「早く気づいてくれてよかったって。修平のおかげよ」
伯母はそう言って、修平を抱きしめた。
「どうして、お義母さんが倒れたってわかったの?」
修平は縁側を見た。
老人が立っていた。
何も言うなというように、ゆっくり首を横に振った。
けれど、修平は伯母に嘘をつけなかった。
「あのおじいちゃんが教えてくれた」
「おじいちゃん?」
「いつも縁側にいる人。薬を飲んでないって」
伯母の顔から笑みが消えた。
「どんな人?」
修平は老人の顔と、いつも着ている灰色の上着のことを話した。右の眉の上に小さな傷があることも、庭の柿を気にしていることも話した。
伯母は最後まで黙って聞いていた。
その日の午後、縁側に置かれていた古い写真立てが、押し入れの奥へ片づけられた。
写真の中には、修平が見ていた老人がいた。
それから伯母は、修平が何もない場所を見ていると、すぐに名前を呼ぶようになった。
「修平、誰かいるの?」
「修平、今、誰と話してたの?」
「また、おじいちゃんが来てるの?」
声は優しいままだった。
けれど、修平を見る目が変わった。
夜、襖の向こうから伯母夫婦の話し声が聞こえた。
「私だって、できることはしてるわよ」
「わかってる」
「でも、怖いの。あの子が何もないところを見てると、お父さんがそこにいるんじゃないかって」
「事故のあとだ。時間がたてば落ち着く」
「もし、ずっとこのままだったら?」
しばらくして、修平は母方の叔父の家へ移った。
伯母は、家から学校が遠いからだと説明した。
修平は、そうではないことを知っていた。
叔父の家にも、知らない人たちがいた。
玄関に立つ女。
押し入れの前から動かない子ども。
夜になると廊下を歩く、片方の足がない男。
誰も修平を傷つけようとはしなかった。ただ、自分の話を聞いてほしがった。
「娘に謝りたい」
「ここに置いたはずの指輪を探して」
「母さんが迎えに来ない」
修平は頼まれるたびに困った。
相手がどこの誰なのかもわからない。話を聞いたところで、何もしてあげられなかった。
それでも無視をすると、彼らは何度も名前を呼んだ。
眠っているときも、食事をしているときも、学校へ行く途中でもついてきた。
修平が返事をすると、大人たちは黙った。
子どもたちは笑った。
「高木、また一人でしゃべってる」
「誰もいないよ」
「気持ち悪い」
その言葉を聞くたびに、修平は右目を閉じた。
けれど、片目を閉じたままでは歩きにくかった。階段では足を踏み外し、電柱に肩をぶつけた。
右目を開けば、死んだ人が見える。
閉じれば、見えない。
生きている人と同じように見えるのに、修平以外の誰にも見えていない。
小学校へ入る頃には、それがわかるようになっていた。
修平は、何もない場所へ返事をするのをやめた。
話しかけられても、聞こえないふりをした。
目が合っても、見えていないふりをした。
「なあ、坊主」
「ちょっとでいいから聞いてくれ」
「お願い」
声は聞こえていた。
それでも修平は、黙って前だけを見た。
大人たちは、修平がようやく落ち着いたのだと思った。
同級生たちも、少しずつ修平をからかわなくなった。
返事をしなければ、生きている人の中にいられた。
だから修平は、返事をしない子になった。




