第一章 見えない目
第一章 見えない目
クリスマスの夜、川に架かる橋の上に、二人の男が立っていた。
一人は高木修平、三十五歳。
もう一人は、二十代半ばほどの若い男だった。
二人の背後を、車がひっきりなしに通り過ぎていく。ヘッドライトが近づくたびに路面が白く照らされ、遠ざかると、また薄暗い夜へ戻った。
川沿いの街路樹には小さな電飾が巻かれていた。赤や黄色の光が点滅している。橋を渡る車の中には、家族連れも、肩を寄せ合う恋人たちもいた。
誰も二人を見なかった。
正確には、修平の隣にいる男を見ていなかった。
「事故、だったんです」
若い男が言った。
「うん」
「ちょっと酒入ってて、仲間とふざけてしまって」
「そういう時、ありますよね」
修平は男のほうを見ず、欄干の向こうを流れる黒い川を眺めていた。
「もうね、楽しくなっちゃって。まさか凍ってると思わなくて」
「時期が悪かったね」
「あはは。そりゃもう、冷たいのなんのって。思わず死んでしまうくらい」
「うん」
男は笑った。
修平も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
欄干の足元には、色の褪せた花束と、数本の酒の缶が置かれていた。缶の一つには、赤いリボンが結ばれている。
男はそれを見下ろした。
「あいつらに伝えてくれますか?」
修平は黙って続きを待った。
「俺が死んだのは事故だから、もう行かなきゃならないって」
「うん」
修平が答えると、男はほっとしたように息を吐いた。
「今度は気をつけて」
「はい」
男は素直に返事をした。
その姿が、夜の空気へ溶けるように薄くなっていく。
最後にもう一度、足元の花と酒を見て、男は静かに消えた。
修平は一人になった。
車は変わらず、背後を走り続けている。
修平が初めて幽霊を見たのは、片目が見えなくなった日だった。
三十年前の夏、五歳だった修平は家族で海へ行った。
父と母と、三歳になったばかりの妹。四人で朝早くに家を出て、修平は父と砂の城を作り、母と妹は波打ち際で貝殻を拾った。
帰る頃には、修平は疲れきっていた。
「もう帰ろうよ」
母が荷物をまとめている間も、修平は何度もそう言った。
「今、片づけてるでしょう」
「早く帰りたい。もう歩けない」
「車まで頑張って。乗ったら寝ていいから」
「お父さん、早く」
「はいはい。修平はもう電池切れだな」
父は笑い、修平の頭に手を置いた。
駐車場へ着くと、修平は自分から後部座席へ乗り込んだ。早く家へ帰り、いつもの布団で眠りたかった。
ところが、妹は車の前で立ち止まった。
「ほら、紗季。乗るよ」
母が手を引こうとした途端、妹は火がついたように泣き出した。
「いや! いや!」
母の手を振り払い、地面へしゃがみ込む。
「どうしたの。さっきまで帰るって言ってたでしょう」
「乗らない! 車、いや!」
妹は両手で顔を覆い、息もできないほど泣いた。
修平は開いたドアの向こうから、その様子を見ていた。
「早くしてよ」
眠くて、身体が重くて、妹がわがままを言っているようにしか思えなかった。
「紗季のせいで帰れないじゃん」
「修平、少し待ってやれ」
父は怒りもせず、妹の前にしゃがんだ。
「怖い夢でも見たか?」
妹は首を横に振った。
「じゃあ、お父さんと一緒に乗ろう。家に着くまで、ずっと手をつないでるから」
それでも妹は泣きやまなかった。
父は困ったように母と顔を見合わせ、妹を抱き上げた。
「大丈夫。お父さんがいるから」
背中をゆっくり撫でながら、妹を後部座席へ乗せた。
妹は修平の隣で、しゃくり上げながら父の手を握った。父はしばらくその手を離さず、落ち着くまでそばにいた。
やがて妹は泣き疲れ、拾った小さな貝殻を両手で握ったまま眠った。
そこから先のことを、修平はほとんど覚えていない。
父の短い声。
母が振り返った顔。
身体が宙に浮いたような感覚と、何かが砕ける大きな音。
次に目を開けたとき、白い天井が見えた。
そこは薬のような匂いがした。
身体を動かそうとすると、あちこちが痛んだ。左腕には白い布が巻かれ、頭にも包帯が巻かれていた。
「修平くん、わかる?」
知らない女の人が、左側から顔をのぞき込んだ。白い服を着ていた。
「お母さんは?」
声を出すと、喉がひりひりした。
女の人はすぐには答えなかった。
「今、先生を呼んでくるね」
「お父さんは?」
女の人は困ったように笑い、修平の肩まで布団をかけ直した。
「ちょっと待っててね」
部屋を出ていく背中を見送り、修平は何度か瞬きをした。
左目には、白い壁と、閉じた扉と、窓際に置かれた棚が見えている。
けれど、右側だけが暗かった。
両目とも開いているのに、見える景色は半分しかない。
その暗闇の中に、父と母が立っていた。
初めは夢だと思った。
二人の姿も、身体の半分ほどしか見えなかった。暗いところへ溶け込むように、端がぼやけている。
修平が右目を閉じると、二人は消えた。
目を開くと、またそこにいた。
二人は病室の中を、何かを探すように見回していた。
「お母さん」
修平が呼ぶと、母がこちらを向いた。
海へ行くために買った白い帽子を、まだかぶっていた。
「修平」
母はベッドのそばへ来た。
伸ばされた手が頬に触れる。
そう思ったのに、何も感じなかった。
「痛いところはない?」
「いっぱい痛い」
「そう」
母は泣きそうな顔で笑った。
父も近くへ来た。額に血がついていた。けれど、その声はいつもと同じように穏やかだった。
「よく頑張ったな、修平」
父は修平の頭を撫でようとした。
やはり、その手の感触はなかった。
父は何も言わずに手を下ろし、それから病室の扉を振り返った。
「紗季を見なかったか」
「隣にいたよ」
「ここにはいないんだ」
父は病室の中を見回した。
「さっきから探してるんだけどな」
母も、閉じた扉の向こうを気にしていた。
「泣いてないかしら。あの子、知らない人が苦手なのに」
「誰か来たら聞いてみようよ」
修平がそう言うと、母は何かを言いかけた。
そのとき、病室の扉が開いた。
さっきの女の人と、白衣を着た男、それから伯母が入ってきた。
「修平」
伯母はベッドへ駆け寄ると、修平の左手を両手で包んだ。
その手は温かかった。
「よかった。目、覚めたのね」
「おばちゃん、お父さんたち来たよ」
伯母の手に力が入った。
修平は暗くなった右側を指さした。
「そこにいる。紗季を探してる」
伯母は何もない病室の中央を見た。
それから、顔を伏せた。
「修平」
父が優しく呼んだ。
父の顔から、紗季を探す焦りが消えていた。
代わりに、修平がこれまで見たことのないほど悲しそうな顔をしていた。
伯母は何度も息を吸い直したあと、修平の手を握ったまま言った。
「お父さんとお母さんと、紗季ちゃんはね」
その先を聞く前に、修平にはわかった。
伯母には父と母が見えていない。
二人の手は自分に触れない。
そして、紗季だけがどこにもいない。
母が口元を押さえた。
父は目を閉じ、うつむいた。
長い間、誰も何も言わなかった。
やがて父が母の肩を抱いた。
「行こう」
「でも、修平が」
「修平は生きてる」
父はそう言って、修平を見た。
「この子は、ここにいる」
母は何度も振り返りながら、父と一緒に扉のほうへ歩いていった。
「どこ行くの」
修平が呼んでも、二人は止まらなかった。
「紗季を迎えに行くんだ」
父の声だけが聞こえた。
二人は扉を開けることなく、その向こうへ消えた。
修平は泣いた。
伯母は、両親と妹が死んだことを理解したのだと思い、何度も修平の頭を撫でた。
けれど、修平が泣いたのは、それだけではなかった。
父と母には会えた。
声も聞けた。
なのに、紗季だけはいなかった。
医師は、右目の視力が戻る可能性は低いと言った。
修平は右目を閉じた。
誰もいない。
もう一度、開いた。
白い壁も、窓も、自分の手も見えない。
ただ、病室の隅に立つ知らない老婆だけが、こちらを見ていた。
老婆は修平と目が合うと、驚いたように口を開いた。
「あんた、わたしが見えるのかい」
修平は慌てて目を閉じた。
老婆の姿は消えた。
恐る恐る目を開くと、またそこに立っていた。
修平は布団を頭までかぶり、両目を固く閉じた。




