第十九章 残す言葉
第十九章 残す言葉
「お前と真由美に、言わなあかんことが残っとる」
二階の窓からそう告げると、宗一は病室の中へ姿を消した。
湊はしばらく窓を見上げていた。
「爺ちゃん、消えるんですか」
「本人は、そろそろだと言ってましたね」
「聞こえてました」
「そうでした」
湊が修平を見る。
「僕を馬鹿にしてますか」
「してません」
「その顔で言われても信用できません」
「普通の顔です」
湊は何か言い返そうとしたが、その前に病院の自動扉が開いた。
先ほど病室の小窓から覗いていた看護師が、二人のところへ歩いてくる。
「宮原さん」
「はい」
「お母さまが、もう一度お話ししたいそうです。短い時間なら大丈夫ですよ」
湊の表情が変わった。
「母が、自分でそう言ったんですか」
「ええ。今日はよくお話しされますね」
看護師は穏やかに笑った。
「お二人とも、どうぞ」
病室へ戻ると、真由美はベッドの上に起きていた。
宗一は窓際に立ち、夕暮れの空を見ている。
先ほどよりも体が透けていた。
窓枠が肩を通して見える。
「爺ちゃん」
「おう。戻ったか」
「戻ったか、じゃないです。体、消えかけてるじゃないですか」
「幽霊なんやから、いつかは消えるやろ」
「そんな急に」
「八年もおったらしいで。十分や」
宗一は笑った。
湊は笑わなかった。
「座って」
真由美が息子へ言う。
湊は母親の隣へ椅子を運んだ。
修平は少し離れた場所に座る。
「修平さんも、近くに来てください」
真由美に呼ばれ、修平は椅子を寄せた。
「僕もいていいんですか」
「いてください。お父さんの話を聞いてくれた人だから」
「爺ちゃんは、勝手に話していただけです」
湊が言った。
「お前が来い言うたんやろが」
「今、いいところなんだから黙っててください」
「わしの話をするために戻ってきたんちゃうんか」
「そうでした」
「しっかりせえ」
「爺ちゃんにだけは言われたくありません」
真由美が声を立てずに笑った。
宗一は、その顔を大切そうに見つめた。
「真由美」
「うん」
「よう生きたな」
真由美の笑みが止まった。
「まだ生きてるよ」
「知っとる。これからも生きるんやろ」
「そのつもり」
「ほな、十分や」
宗一は真由美の前に立った。
「わしが死んだんは、お前のせいやない」
「お父さん」
「何遍でも言うで。わしが決めて、わしがやった。お前を助けられた。せやから、あれでよかった」
「でも、私がもう少し強かったら」
「強いとか弱いとかやない。生霊に取り憑かれたんは、お前の落ち度やないやろ」
「私の中に、入り込める闇があったから」
「誰にでもある」
宗一は迷わず答えた。
「闇の一つもない人間なんかおらん。腹が立つことも、逃げたいことも、自分が嫌になることもある。それを見つけて広げたんは、あの生霊や。お前やない」
真由美は俯いた。
「お父さんが死んだあと、湊を一人にした」
「母さん」
「同じ家にいたのに、この子を見られなかった。湊が何をしているかも、何を考えているかも」
「それも、お前が生きるんに精いっぱいやったからや」
「でも」
「湊はここにおる。お前もここにおる。今から見たらええ」
真由美が息子を見る。
湊は母親の視線を受け止めた。
「僕も、母さんを見てなかった」
「湊は、ずっと来てくれたでしょう」
「来てただけです。母さんが話さないなら、僕も話さなくていいと思ってた。着替えを持ってきて、必要なものを聞いて、時間になったら帰った」
「それで十分だよ」
「僕には、十分じゃなかった」
湊は膝の上で両手を握った。
「本当は聞きたかった。母さんが何を見たのか。爺ちゃんに何があったのか。どうして僕を見てくれなくなったのか。でも、答えを聞くのが怖かった」
真由美の手が、湊の握り締めた手に重なる。
「ごめんね」
「謝らないで」
「じゃあ、ありがとう」
「何がですか」
「何度も来てくれて」
湊の手から、少しだけ力が抜けた。
「これからも来ます」
「うん」
「話さない日があっても」
「うん」
「でも、話せる日は話してください」
「分かった」
宗一が鼻を啜る音がした。
湊が振り返る。
「泣いてるんですか」
「泣いとらん」
「鼻、啜りましたよね」
「幽霊にも鼻水くらい出るんや」
「出るわけないでしょう」
「細かいこと気にすんな」
「爺ちゃんが言うからでしょう」
「湊」
宗一が孫の名を呼んだ。
今度は、ふざけた調子ではなかった。
「わしが死んだとき、お前は十四やった」
湊の目が見開かれる。
「思い出したんですか」
「全部やない。少しずつや」
宗一は目を閉じた。
「葬式の日、お前は一回も泣かんかった。親戚に、しっかりした子や言われとった」
「僕には見えてましたから」
「何がや」
「死んだ人たちが。爺ちゃんの葬式にも、知らない霊がたくさんいた。僕を見て、何か言ってた」
湊は当時を思い出すように、床へ視線を落とした。
「爺ちゃんだけがいなかった。どこを探しても見つからなかった」
「わしは、自分が誰かも分からんようになって、どっかをうろついとったんやろな」
「探しました」
「すまん」
「今さらです」
「せやな」
「どうして僕に、何も教えてくれなかったんですか」
「何をや」
「霊のことです。見えるようになったら、どうすればいいのか。危ない霊と、そうじゃない霊をどう見分けるのか」
「お前には、まだ早いと思っとった」
「そのまま死んだら意味がないでしょう」
「返す言葉もないわ」
宗一は頭を掻いた。
「わしは、自分が急に死ぬと思ってへんかった。お前がもう少し大きくなったら、ゆっくり教えたらええと思っとった」
「そのせいで、僕は」
「霊を片っ端から祓った」
「……はい」
「わしのせいにするか」
湊が顔を上げる。
「しません」
「してもええで。教えんかったわしにも責任はある」
「でも、決めたのは僕です」
宗一は目を細めた。
「そう言えるんやったら、大丈夫や」
「大丈夫なわけがない」
「祓った霊は戻らん。そいつらに何があったかも、もう聞けん。そら、消えんよ」
湊の顔が歪む。
「一生、背負え言うてるんやない」
「じゃあ、忘れろって言うんですか」
「忘れんでええ。忘れんまま、次に会うたやつを見るんや」
宗一は湊の鞄を指さした。
「札を持つなとは言わん。話の通じん霊もおる。生きとる人間を傷つけるもんもおる。そんときは、お前の力が要る」
「なら、どうやって見分けるんですか」
「聞け」
「嘘をついたら」
「よう見ろ」
「それでも分からなかったら」
「分からん言うたらええ」
湊は黙った。
「お前が今日、井上さんにしたことや」
「見てたんですね」
「見とった」
「母さんのそばにいると言ったでしょう」
「窓の横も、真由美のそばや」
「屁理屈ばかり」
「誰に似たんやろな」
「爺ちゃんではありません」
「そこは否定せんでもええやろ」
宗一が笑う。
その輪郭が、また少し薄くなった。
真由美が手を伸ばす。
触れることはできない。
宗一はその手に、自分の手を重ねるようにかざした。
「真由美。もう、わしを待たんでええ」
真由美の目に涙が浮かぶ。
「待ってたわけじゃない」
「病室で、遅い言うたやろ」
「あれは、少し文句を言いたかっただけ」
「八年分か」
「まだ足りない」
「そら困ったな」
宗一は笑った。
「でも、お父さんがどこにいたか分かったから」
「うん」
「私を忘れてたことも分かったから」
「それは言わんでええ」
「もう待たない」
「そうしてくれ」
「今度は、私が行くまで先で待ってて」
「急がんでええぞ」
「分かってる」
宗一は頷いた。
そして湊を見る。
「湊」
「はい」
「お前は、これからどうする」
病室の中が静かになった。
真由美も、修平も、湊の答えを待っている。
湊は膝の上に置いた鞄を見た。
中には、これまで何度も使ってきた札が入っている。
しばらくして、湊は顔を上げた。




