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ココロノコリ  作者: もちむぎ


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第十八章 待つだけ

第十八章 待つだけ


「井上さん。どうして、ここにいるんですか」


 湊に訊かれ、老人は黙り込んだ。


 自分でも答えが分からないように、裸足のつま先へ目を落としている。


「何か、伝えたいことがありますか」


「ない」


「会いたい人は」


「いない」


「心残りは?」


「分からない」


 湊が修平を振り返った。


「話す気がないみたいですけど」


「話してるじゃないですか」


「全部、ないと分からないです」


「それが答えなんでしょう」


「何の」


「それを聞くんです」


 湊は露骨に嫌そうな顔をした。


「面倒ですね」


「聞こえてるぞ」


 井上が言う。


「すみません」


 湊は素直に頭を下げた。


 井上の方が驚いている。


「お前、謝れるんやな」


 二階の窓から、また宗一の声が降ってきた。


「爺ちゃんは母さんのところに戻ってて!」


「大きい声出したら真由美が起きるやろ!」


「誰のせいですか!」


「わしやな!」


 宗一の顔が引っ込む。


 井上は二階の窓と湊を見比べた。


「あれは」


「僕の祖父です」


「元気だな」


「死んでから元気になったみたいです」


 井上の口元が、ほんの少し緩んだ。


 湊はそれを見逃さなかった。


「井上さんは、いつ亡くなったんですか」


「三日前」


「僕が初めて見た日ですね」


「そうか」


「亡くなった理由は覚えていますか」


「肺炎だ。長いこと、ここの三階にいた」


 井上は病院を見上げた。


「夜中に息が苦しくなった。看護師が来て、医者が来て、それから分からない。気づいたら、ベッドの横に立ってた」


「自分が死んだことは」


「分かってる」


「なら、どうして残っているんです」


「それが分からないと言ってる」


 井上の声が荒くなる。


 湊の右手が、わずかに鞄へ寄った。


 けれど、触れる前に止まった。


「分からないなら、一緒に考えます」


「何で、お前が」


「僕が訊いたからです」


「この間は、俺を追い出そうとしてたじゃないか」


「三日前です」


「どっちでもいい」


「よくないです」


「そこにこだわるな」


 修平は二人のやり取りを聞きながら、ベンチの端へ移動した。


「井上さん、座りますか」


「俺は疲れない」


「僕が見上げるのに疲れます」


 井上は不満そうに眉を寄せたが、修平の隣へ座った。


 湊だけが立っている。


「あなたも座ったらどうですか」


「僕はいいです」


「見下ろされると話しにくいそうですよ」


「言ってない」


「そう見えます」


 湊はしばらく立っていたが、諦めたように井上の反対側へ腰を下ろした。


 生きた男が二人、その間に死んだ男が一人。


 病院を出入りする者には、男二人が妙な間隔を空けて座っているようにしか見えない。


「家族はいないんですか」


 湊が訊く。


「妻は十年前に死んだ。子供はいない」


「親戚は」


「姉の子がいる。入院の手続きもしてくれた。葬式も、あいつがやってくれてるだろう」


「会いたくないんですか」


「あいつには十分してもらった。これ以上、年寄りの世話をさせたくない」


「なら、心残りはない?」


「ない」


 井上はまた同じ答えを口にした。


 今度は修平にも、その声が少し揺れたのが分かった。


「心残りがないのに残ることもあるんですか」


 湊が修平へ訊く。


「あるんでしょうね」


「初めて見たみたいに言いますね」


「初めてですから」


「役に立たないな、あなた」


「よく言われます」


「それも奥さんに?」


「はい」


 井上が二人を見比べる。


「お前ら、仲がいいのか悪いのか、どっちなんだ」


「悪いです」


「今日会ったばかりです」


「昨日です」


「そうでした」


「どうでもいい」


 井上が呆れたように言った。


 しばらく、三人で黙って座った。


 送迎の車が着き、杖をついた女性が家族に支えられて乗り込む。


 別の車から、小さな子供を連れた夫婦が降りてきた。


 自動扉が開いては閉じる。


 井上は、そのたびに玄関を見た。


「誰かを待っているんじゃないですか」


 湊が訊く。


「待ってない」


「でも、扉が開くたびに見てます」


「人が出てくるから見てるだけだ」


「誰が出てきてほしいんですか」


「しつこいな」


「話を聞けと言われたので」


「訊問しろとは言ってません」


 修平が口を挟むと、湊が睨んだ。


「あなたは黙っててください」


「はい」


 井上は玄関を見たまま、両手を膝に置いた。


「迎えが来ると思ってた」


 やがて、ぽつりと言った。


「奥さんが?」


「ああ」


「来なかった?」


「三日待った」


 井上の肩が落ちる。


「死んだら、先に死んだ者が迎えに来ると聞いてた。あいつが来ると思った。でも、どこにもいない」


「探しに行けばいいんじゃないですか」


「どこへ」


 湊は答えられなかった。


「病院から出たら、もう戻れん気がする。ここを離れたら、何もないところへ落ちる気がする。消えたあとに何があるんか、誰も教えてくれん」


 井上は自分の手を見た。


「何もなかったら、どうする」


 湊は黙った。


「妻もいない。天国もない。ただ消えて、何も考えられなくなるだけかもしれない」


「怖いんですね」


 修平が言った。


 井上はすぐには頷かなかった。


 長い沈黙のあと、小さく肩を落とした。


「怖い」


 湊が鞄を膝の上から下ろした。


「僕には、その先に何があるか分かりません」


「そうか」


「妻に会えるとも言えない」


「そうか」


「でも、無理に追い出すのはやめます」


 井上が湊を見る。


「ここにいてもいいと思います」


「病院に迷惑をかけないなら」


「誰にも見えないのに、どうやって迷惑をかけるんだ」


「僕には見えます」


「お前が来なければいい」


「それはそうですね」


 湊は少し考えた。


「怖くなくなるまで、ここにいますか」


「怖くなくなることなんかあるか」


「分かりません」


「分からないことばかりだな」


「今日、分からないことが増えました」


 井上が笑った。


 今度は、はっきりと。


「変な除霊師だ」


「よく言われます」


「それは今、初めて言われたでしょう」


 修平が指摘すると、湊は聞こえなかったふりをした。


 また三人で座った。


 十分。


 二十分。


 何も起きない。


 誰も迎えには来ない。


 井上が話し始める。


 妻はよく笑う人だった。


 料理は下手で、味噌汁だけは最後まで上手くならなかった。


 旅行が好きで、定年後は二人であちこちへ行った。


 最後に行ったのは海だった。


「あいつ、海が見たいと言うくせに、着いたら土産物屋ばっかり見とった」


「楽しかったんですね」


「まあな」


 湊は相槌を打ちながら、最後まで聞いた。


 何かを解決する言葉は言わなかった。


 妻が迎えに来るとも、あの世があるとも約束しなかった。


 ただ、井上が黙れば待ち、話し始めれば聞いた。


 日が傾き、病院の壁が薄い橙色に染まり始めた頃、井上が立ち上がった。


「行くんですか」


 湊が訊く。


「分からない」


 井上は駐車場の向こうを見る。


「でも、三日待って来ないなら、こっちから探しに行った方が早いだろう」


「見つかるといいですね」


「会えるとは言わないのか」


「分からないので」


「正直すぎる」


 井上の体が、夕日の中で薄くなる。


 湊は鞄に触れなかった。


「井上さん」


「何だ」


「行ってらっしゃい」


 井上は目を細めた。


「おう。行ってくる」


 一歩、病院から離れる。


 もう一歩、駐車場へ進む。


 三歩目を踏み出したところで、その姿は夕日の中に溶けた。


 湊は、井上がいた場所を見つめていた。


「何もしてない」


「はい」


「待って、話を聞いただけです」


「はい」


「それで、行った」


「そうですね」


 湊は自分の両手を見た。


「祓わなくても、よかったんだ」


 二階の窓が開く音がした。


 見上げると、宗一が顔を出している。


「湊」


「何ですか」


「ええ顔しとったで」


「見てたんですか」


「暇やったからな」


「母さんは?」


「まだ寝とる」


「勝手に出歩かないでください」


「出歩いとらん。顔出しただけや」


 宗一は笑った。


 その笑顔の向こうに、修平は病室の白い天井が透けて見えた。


 先ほどまでより、輪郭が薄い。


「宗一さん」


「ん?」


「体が」


 宗一は自分の手を窓の外へ出した。


 夕日が指を通り抜けている。


「ああ。そろそろみたいやな」


「爺ちゃん?」


 湊の顔から、わずかに笑みが消えた。


「まだ消えへんよ」


 宗一は穏やかに言った。


「お前と真由美に、言わなあかんことが残っとる」

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