第十七章 最初のひと言
第十七章 最初のひと言
病室を出てから、湊は一度も口を開かなかった。
修平と並んで廊下を歩き、その少し後ろを宗一がついてくる。
看護師や患者とすれ違うたび、宗一は器用に体を避けていた。触れることも、ぶつかることもない。それでも長年の癖なのか、人を通り抜けようとはしなかった。
エレベーターの前まで来たところで、宗一が立ち止まった。
「わし、戻ってええか」
湊が振り返る。
「母さんのところに?」
「もう少し、そばにおりたい」
「面会は終わりです」
「わしに札はないで」
「そういう問題じゃ」
言いかけて、湊は口を閉じた。
宗一は返事を待っている。
止めようと思えば、湊は止められる。鞄には札も道具も入っている。
けれど湊は、肩から提げた鞄に触れなかった。
「……母さんを怖がらせないで」
「分かっとる」
「疲れていたら、話しかけないで」
「分かっとるって」
「夜までいないでください」
「お前はわしの親か」
「爺ちゃんが子供みたいだからでしょう」
宗一が笑う。
「ほな、行ってくるわ」
病室へ戻っていく背中に、湊が声をかけた。
「爺ちゃん」
宗一が振り返る。
「母さんを助けてくれて、ありがとう」
湊は宗一を見ず、閉じたエレベーターの扉を見ていた。
宗一はしばらく黙っていた。
「おう」
それだけ答え、今度こそ病室へ戻っていった。
下りのエレベーターに乗ると、湊は壁にもたれた。
階数表示を見上げたまま、長く息を吐く。
「疲れましたか」
「誰のせいだと思ってるんです」
「僕ではないと思います」
「分かってます。八つ当たりです」
「知らない方がよかったですか」
湊は答えなかった。
一階に着き、扉が開く。
先に降りた湊は、面会者用の札を受付へ返した。修平もその隣に札を置く。
自動扉を抜けると、午後の日差しが眩しかった。
病院の前には、送迎を待つ人のためのベンチが並んでいる。湊はその一つに座り、両手を組んで俯いた。
修平も一人分空けて腰を下ろす。
「帰らないんですか」
「少し休んでからにします」
「僕に気を使わなくていいです」
「僕も疲れたんです」
「座ってただけでしょう」
「人の家へ行って、病院まで来ました」
「普通です」
「休日の会社員には大仕事ですよ」
湊が初めて修平を見た。
「そんな理由で田所さんについてきたんですか」
「田所さんに頼まれたからです」
「断ればよかったでしょう」
「断っても、家にいましたから」
「追い出せばいい」
「僕にはできません」
「できないんじゃなくて、しないだけじゃないですか」
修平は少し考えた。
「そうかもしれません」
湊はまた俯いた。
「僕には、できた」
その声は小さかった。
「頼まれても、泣かれても、追い出せた。話を聞く必要なんかないと思っていたから」
修平は何も言わなかった。
「爺ちゃんが死んで、母さんがおかしくなった。家の中には、僕にしか見えないものがいた。何を言っても誰も信じない。母さんまで、僕を見なくなった」
湊の両手に力が入る。
「だから、見えるなら僕がやるしかないと思った。霊を残さなければ、誰も母さんみたいにならない。そう信じてた」
「はい」
「田所さんは、家族に伝えたいことがあった」
「はい」
「爺ちゃんは、母さんを助けた」
「はい」
「僕が追い出した霊にも、何かあったんでしょうか」
修平はすぐには答えなかった。
「あったかもしれません」
「なかったかもしれない?」
「僕には分かりません。危ない霊もいるでしょうし、話が通じない相手もいると思います」
「慰めるのが下手ですね」
「慰めていませんから」
湊が顔を上げた。
「腹が立つな、あなた」
「よく言われます」
「誰に」
「妻に」
湊は鼻から息を吐いた。
少しだけ、笑ったようにも見えた。
「間違っていたなら、どうすればいいんですか」
「次から変えればいいんじゃないですか」
「簡単に言わないでください」
「簡単ではないです。でも、前に追い出した人たちは戻せません」
湊の顔が強張る。
「分かってます」
「なら、次に会った人の話を聞くしかない」
「聞いて、嘘だったら」
「嘘だと思えば、そう言えばいい」
「話が通じなかったら」
「そのときは、あなたのやり方が必要になるかもしれません」
湊は黙った。
「全部、残せと言っているわけじゃありません」
修平は病院の玄関を見る。
「ただ、何も聞かずに決めなくてもいいと思います」
「どうやって聞くんですか」
「普通に」
「その普通が分からないから訊いてるんです」
「名前とか」
「名前」
「どうしてここにいるのか、とか」
「それで素直に話しますか」
「話したい人なら」
「話したくない霊は?」
「待ちます」
「いつまで」
「話したくなるまで」
「暇なんですか」
「会社員です」
「答えになってません」
湊が呆れたように言った。
そのとき、病院の自動扉が開いた。
患者服を着た老人が、一人で外へ出てきた。
履物はなく、裸足だった。
受付の職員は止めない。近くを歩く看護師も、老人を見ていない。
老人は自動扉の横に立ち、駐車場を見渡した。
湊の表情が変わる。
「知っている人ですか」
「三日前からいます」
「話したことは」
「ありません」
老人も湊に気づいた。
怯えたように肩をすくめ、建物の壁際へ下がる。
湊の右手が鞄へ伸びた。
老人は逃げようとしたが、足がうまく動かないらしい。その場で何度もつまずき、壁に背をつけた。
「湊さん」
「分かってます」
湊の手は、鞄の口を握ったまま動かない。
老人の顔と、自分の手を交互に見る。
「三日前は、何をしようとしたんですか」
「病院から離れさせようとしました」
「逃げられた?」
「邪魔が入ったんです。看護師が通って」
「運がよかったな」
どこからか宗一の声がした。
見ると、二階の窓から顔だけ出している。
「爺ちゃん、何してるんですか!」
「真由美が昼寝したんや。起こしたらあかんから、暇でな」
「病室に戻っててください!」
「わしは子供か!」
患者や職員が、湊の声に振り返る。
湊は咳払いをして、声を落とした。
「……あとで話します」
「おう。そこの爺さんとも話したれ」
宗一の顔が窓の中へ引っ込んだ。
患者服の老人は、逃げるのも忘れて二階を見上げている。
「知り合いですか」
修平が訊くと、老人は首を横に振った。
湊が鞄から手を離した。
ゆっくり立ち上がり、老人の前まで歩いていく。
老人はまだ警戒していた。
「何もしません」
湊が言う。
「今日は」
「今日は、ってつけたら怖いですよ」
「うるさいな」
湊は修平を睨み、それから老人へ向き直った。
何かを言おうとして、口を閉じる。
もう一度開き、また閉じた。
「普通にですよ」
修平が言う。
「分かってます」
湊は深く息を吸った。
「あなたの名前は、何ですか」
老人が目を瞬く。
「名前」
「はい」
「追い出さないのか」
湊の目が、一度だけ鞄へ向いた。
「その前に、話を聞きます」
老人は長いあいだ湊を見ていた。
やがて壁から背を離し、曲がっていた腰を少しだけ伸ばした。
「井上」
掠れた声で答える。
「井上、信一」
湊は頷いた。
「井上さん。どうして、ここにいるんですか」
それは湊が霊へ向けた、初めての質問だった。




