第十六章 帰したもの
第十六章 帰したもの
「生きている人だったの」
真由美の言葉を、湊はすぐには理解できなかった。
「生きている人が、ここにいたの?」
「その人自身じゃない」
真由美は首を振った。
「生霊よ」
宗一が床に膝をついたまま、顔を上げた。
「生霊……」
その言葉を口にした途端、宗一の輪郭が再び揺れた。
修平には、宗一の体へ別の景色が重なって見えた。
薄暗い部屋の中央に、若い真由美がうずくまっている。
その背中を覆うように、黒い影がまとわりついていた。
人の形をしている。
けれど、顔がない。
いや、顔がないのではない。そこだけ水の中に沈んでいるようにぼやけ、どうしても形を結ばない。
「見えんかった」
宗一が呟いた。
「何がです」
「顔や。死んどるもんは、もっとはっきり見えた。どんな服を着とるかも、どんな顔しとるかも分かった。せやけど、あれは違う。そこにおるのに、何もかもぼやけとった」
宗一は自分の両手を見た。
「生きとったからや」
真由美が小さく頷く。
「お父さんは、最初からそう言ってた」
「母さん、生霊って何」
湊は母親の前にしゃがんだまま訊いた。
その声には、先ほどまでの強さがなかった。
「生きている人の念よ。憎しみとか、執着とか、妬みとか。本人が気づかないまま、誰かのところへ飛んでいくことがあるの」
「そんなものが、本当に」
「お前、幽霊は信じて生霊は疑うんか」
宗一が言う。
「黙ってて」
「聞いたんはお前やろ」
「今は母さんに聞いてる」
宗一は口を閉じた。
真由美は二人のやり取りを見て、ほんの少しだけ笑った。
「変わらないね」
「何が」
「お父さんも湊も」
「似てません」
「似とらんわ」
湊と宗一の声が重なった。
今度は修平も笑いそうになったが、真由美がまた視線を落としたため、口元を引き締めた。
「最初は、少し眠れないだけだった」
真由美は膝の上の手を見つめながら話し始めた。
「誰かが私を見ている気がした。外を歩いても、家にいても、ずっと後ろにいるような気がして」
夜になって目を閉じると、耳元で声がした。
何をしても駄目だ。
誰もお前を必要としていない。
お前がいなければ、みんな楽になる。
初めは、知らない声だと思っていた。
けれど毎晩聞いているうちに、それが自分の声なのか、ほかの誰かの声なのか分からなくなった。
「生霊は、ないものを作るわけじゃないの」
真由美は言った。
「自分の中にある小さな不安や、忘れたかった悲しみを見つけて、どんどん大きくしていく。薄暗かったところを、真っ暗にしてしまうの」
「それで、母さんは」
「何も信じられなくなった。湊のことも、お父さんのことも。二人が私を騙していると思った。眠らせて、どこかへ捨てるつもりだって」
湊が俯いた。
「覚えてる」
「ごめんね」
「母さんが謝ることじゃない」
「お前もや」
宗一が言った。
湊は顔を上げなかった。
「あのときのお前は、まだ子供やったんやろ。何もできんで当たり前や」
「何歳だったかも覚えてないくせに」
「覚えとらんでも、それくらい分かる」
「分かったようなこと言わないで」
「湊」
真由美が静かに名を呼ぶ。
湊はそれ以上、言い返さなかった。
「お父さんは、あれを私から引き離した」
「どうやって」
「生霊返し」
真由美がそう言うと、宗一の右手がかすかに動いた。
何かを払うように、二本の指が宙を切る。
「家に伝わっていた方法があったの。取り憑いた念を、飛ばした本人のところへ帰す方法」
「誰だったの」
湊が訊く。
「誰が母さんに、そんなものを飛ばしたの」
「分からない」
「爺ちゃんは見たんでしょう」
宗一が首を振った。
「顔が見えんかった。男か女かも、年寄りか若いんかも分からん。生霊は本人そのものやない。そいつの中からこぼれた念や」
「帰したなら、行き先は分かったはずだ」
「後を追える状態やなかった」
宗一が低く答えた。
その目は、病室ではない場所を見ていた。
記憶の中で、宗一は若い真由美の背に右手を当てている。
左手で印を結び、何度も何度も同じ言葉を唱える。
黒い影は真由美にしがみつき、離れまいとしていた。
引き剝がそうとするたび、宗一の腕へ黒い筋が這い上がる。
「帰れ」
宗一が呟いた。
病室にいる今の宗一と、記憶の中の宗一の声が重なる。
「ここはお前のおる場所やない。生きとる者から出たもんなら、生きとる者のところへ帰れ」
真由美の背中から、黒い影がゆっくりと剝がれていく。
引き延ばされた影の先が、部屋の隅へ流れる。
顔は最後まで見えない。
ただ、真由美へ伸ばした黒い指だけが、ひどく悔しそうに震えていた。
「帰した」
宗一は自分の胸を押さえた。
「確かに、帰したんや」
「そのあと、お父さんは倒れた」
真由美が続ける。
「あれが消えて、私は息ができるようになった。頭の中の声も聞こえなくなった。でも、お父さんは、その場に倒れて」
宗一の記憶の中で、床が傾いた。
真由美が何かを叫んでいる。
駆け寄ろうとして転び、床を這うように手を伸ばしている。
宗一はその姿を見ながら、自分の胸を押さえた。
痛みはない。
ただ、体の中から急速に力が抜けていく。
「そうか」
宗一が目を閉じた。
「わし、そこで死んだんか」
「うん」
真由美の声が震えた。
「救急車が来たときには、もう」
湊が立ち上がった。
「生霊を返したせいで、爺ちゃんが死んだの」
「無理をしすぎたんだと思う」
「どうして止めなかったの」
「止めたよ」
真由美が答えた。
「何度もやめてって言った。でも、お父さんは聞かなかった」
「聞くわけないやろ」
宗一が、当たり前のように言った。
「娘にあんなもんが取り憑いとるのに、放っとけるか」
真由美は唇を噛んだ。
「だから、お父さんが死んだのは私のせい」
「違う」
宗一の声が病室に響いた。
「それだけは違う」
先ほどまで床に膝をついていた男が、ゆっくりと立ち上がる。
「わしが決めて、わしがやった。お前は助けられた側や。勝手にわしの死んだ責任まで背負うな」
「でも」
「親が子供を助けるんに、許可がいるか」
真由美の目から、涙が落ちた。
「お父さんは、いつもそうだった」
「覚えとらんけどな」
「大事なところで、余計なことを言うのも」
真由美は宗一と湊を見た。
「本当、そっくり」
「似てません」
「似とらんわ」
また、湊と宗一の声が重なった。
真由美は泣きながら笑った。
湊だけは笑わなかった。
「じゃあ、母さんを壊したのは」
「生霊よ」
「でも、それは爺ちゃんが帰したんでしょう。なのに、どうして母さんは今もここにいるの」
真由美はしばらく黙っていた。
「出ていったら、全部元どおりになると思う?」
「違うの」
「火を消しても、焼けたものまで元には戻らないでしょう」
湊の顔が歪んだ。
「私の中で大きくなった闇は、あれがいなくなっても残った。声が聞こえなくなったから、自分で少しずつ小さくしてるの」
「何年も?」
「何年かかっても」
真由美は息子を見つめた。
「私は、お父さんに助けてもらった命で生きてる。ここにいるのは、負けたからじゃない。生きるためにいるの」
湊は何も言えなかった。
湊は、田所が自ら成仏していくのを見届けた直後と同じ顔をしていた。
自分が信じてきたものと、目の前にあるものが噛み合わず、どちらへ進めばいいか分からない顔だった。
「僕は、母さんを壊したのは霊だと思ってた」
やがて、湊が言った。
「霊が爺ちゃんを殺して、母さんまで壊した。だから、残っている霊を全部追い出せば、同じことは起きないって」
「わしも霊やで」
宗一が言う。
「分かってる」
「田所さんもや」
「分かってる!」
湊の声が大きくなる。
廊下を歩いていた看護師が、扉の小窓から中を覗いた。
修平が慌てて頭を下げると、看護師は不思議そうな顔をしながら通り過ぎていった。
「分かってるけど」
湊は両手を握り締めた。
「じゃあ、僕が今まで祓ってきたものは、何だったんだ」
宗一は答えなかった。
真由美も答えなかった。
修平にも、簡単に答えられることではなかった。
追い払われた霊たちがどこへ行ったのか。
何を伝えたくて、そこに残っていたのか。
湊は一度も聞かなかった。
「間違っていたと言うんですか」
湊が修平を見る。
「僕には分かりません」
「あなたなら、そう言うと思いました」
「ただ」
修平は宗一を見た。
「分からないから、話を聞くんです」
面会終了を知らせる音が鳴った。
湊は俯いたまま、動かなかった。
宗一が真由美のそばへ歩み寄る。
「すまんな。忘れてもうて」
「ううん」
真由美は首を振った。
「お父さんが忘れても、私が覚えてるから」
伸ばした手は宗一に触れない。
それでも真由美は、そこに父の手があるように、自分の頬を寄せた。
「助けてくれて、ありがとう」
宗一は何も言わなかった。
言えば泣いてしまうのだろうと、修平には分かった。
病室を出るとき、湊は一度だけ振り返った。
真由美は窓際の椅子に座り、宗一を見ていた。
宗一もまた、娘を見ていた。
どちらも、もう見失わないように。




