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ココロノコリ  作者: もちむぎ


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第十五章 お父さん、遅いよ

第十五章 お父さん、遅いよ


 病院へ向かう前に、湊は一度だけ電話をかけた。


 今日の午後、母親と面会できるかを確かめるためだった。


 短いやり取りを終えると、湊はスマートフォンをポケットへ戻した。


「会えます。三時から二十分だけ」


「僕も入って大丈夫ですか」


「知人だと言っておきました」


「知人」


「ほかに何と言えばいいんですか。爺ちゃんを連れてきた人ですか」


 湊は相変わらず愛想がない。


 けれど、田所の家へ向かっていたときより、口数はわずかに増えていた。


「わしは面会人数に入るんか」


 宗一が訊く。


「入らないでしょうね」


「便利やな、幽霊」


「病院の中を自由に歩けると思わないでください」


「お前、ほんまにわしにだけ当たり強いな」


「爺ちゃんだからです」


 湊は前を向いたまま言った。


 宗一が目を丸くし、それから少しだけ嬉しそうに笑った。


 病院までは電車を乗り継いで一時間ほどかかった。


 車内で宗一は空いている席に座り、湊はその隣に立っていた。席が一つ空いているようにしか見えないため、何人かが座ろうとしたが、湊が無言で鞄を置いて防いだ。


「別に座らせたったらええやろ。重なられるくらい、どうってことない」


「嫌です」


「わしがか」


「知らない人が爺ちゃんの上に座るのがです」


 宗一はしばらく黙った。


「お前、わしのこと好きやろ」


 湊は鞄を持ち上げ、席を空けた。


「すまん、冗談や。置いとけ、鞄」


 修平は窓の外を見て、笑うのを堪えた。


 病院は、住宅街を抜けた先の小高い場所にあった。


 白い壁の四階建てで、玄関の脇には小さな花壇がある。花壇の前に患者らしい女性が立ち、職員と一緒に土を眺めていた。


 思っていたより静かで、普通の病院と変わらない。


 受付で名前を書き、面会者用の札を首から下げる。宗一は何もつけずに、その横を通り抜けた。


「やっぱり便利やな」


「黙ってついてきてください」


「お前、病院ではもうちょい愛想ようせえ」


「誰のせいで来てると思ってるんですか」


「わしやろか」


「ほかに誰がいるんです」


 宗一の足が止まった。


 先を歩いていた湊は気づかず、廊下を曲がっていく。


 修平は宗一を振り返った。


「どうしました」


「いや」


 宗一は自分の胸元を見下ろした。


「ここに入ってから、なんや変な感じがする」


「思い出しましたか」


「何も。せやけど、知っとるような気がする」


 宗一は顔を上げた。


 廊下も、薄緑色の扉も、壁に貼られた季節外れの朝顔も、初めて見るもののはずだった。


 それでも宗一の顔には、帰りたくない場所へ帰ってきたような苦さが浮かんでいた。


「早く来てください」


 角から湊が顔を出す。


「置いていくぞ」


「幽霊を置いていって困るんは、お前やろ」


 宗一はいつもの調子で言い返し、歩き出した。


 病室は個室だった。


 扉の前で湊が一度、深く息を吸う。


「母は、話せない日があります」


「はい」


「何を訊いても答えない。こちらを見ないこともある」


「分かりました」


「爺ちゃんが見えるかも、分かりません」


 宗一が湊の横顔を見る。


「真由美も、見えたんか」


「宮原の家では、珍しくありません」


「そうか」


「忘れたんですか」


「忘れたんやろな」


 湊の手が扉の取っ手を握る。


「都合よく」


 宗一は答えなかった。


 病室の窓際に、一人の女性が座っていた。


 五十代半ばほどに見える。肩まで伸びた髪には白いものが混じり、膝の上で両手を重ねている。


 窓の外を見ていたが、景色を眺めているようには見えなかった。


「母さん」


 湊が呼ぶ。


 女性は動かない。


「来たよ」


 返事はなかった。


 湊は慣れた様子でベッド脇の椅子を二つ出した。


「今日は天気がいいよ。外、出た?」


 話し方が、少しだけ違った。


 ぶっきらぼうなのは同じだが、声が柔らかい。


「こちらは、修平さん。昨日話した、変わった人」


「どういう紹介ですか」


「間違ってないでしょう」


 修平が女性へ頭を下げる。


「はじめまして。修平といいます」


 女性は窓の外を向いたままだった。


「真由美」


 宗一が、病室の入り口で名前を呼んだ。


 それまで動かなかった女性の指が、わずかに震えた。


 湊が気づいて母親を見る。


「母さん?」


 宗一は扉のそばから動けずにいた。


「真由美」


 二度目の声に、女性がゆっくりと顔を向けた。


 修平ではなく、湊でもない。


 その目は、入り口に立つ宗一をまっすぐに見ていた。


「……お父さん」


 湊が息を呑んだ。


 宗一の顔から、いつもの軽さが消えた。


「わしが、分かるんか」


 真由美は椅子から立ち上がった。


 足元がおぼつかず、湊が慌てて腕を支える。


「母さん、見えるの」


「お父さん」


 真由美は息子の問いには答えず、宗一だけを見つめていた。


「遅いよ」


 責めるような声ではなかった。


 幼い子供が、迎えに来た父親へ拗ねるような声だった。


「ずっと、待ってたのに」


「すまん」


 宗一は反射的に謝った。


 けれど、その場から一歩も動けない。


「わしは、何を待たせたんや」


 真由美の表情が止まる。


「覚えてないの?」


「名前しか、分からん。お前がわしの娘やいうことも、昨日聞いた」


 真由美は宗一を見つめた。


 やがて、湊の腕を離し、ゆっくりと椅子へ座り直した。


「そう」


 膝の上で両手を重ねる。


「だから来なかったの」


「母さん。爺ちゃんに何をされたの」


 湊が訊いた。


「何があったか、話せる?」


 真由美は答えない。


 湊は母親の前にしゃがみ込んだ。


「爺ちゃんが死んだ日から、母さんはおかしくなった。家にいるものが怖いって、誰かに見られてるって言って、眠れなくなって」


「湊」


「何をされたの。あのとき、何がいたの」


 真由美の肩が強張った。


「宮原さん」


 修平が湊を止める。


「今、無理に聞かない方が」


「あなたに何が分かるんですか」


 湊が振り返った。


「母がこうなってから、何年経ったと思ってるんです。爺ちゃんは死んだ。母さんは何も話さない。僕が聞いても、誰に聞いても、何があったか教えてくれない」


「湊」


 真由美が、もう一度息子の名を呼んだ。


 湊が母親を見る。


「お父さんじゃない」


「え」


「お父さんが、私をこうしたんじゃない」


 真由美の声は小さかった。


 それでも、静かな病室にははっきり響いた。


「でも、爺ちゃんが死んだ日に」


「助けてくれたの」


 湊の言葉を遮り、真由美が言った。


「お父さんは、私を助けた」


 宗一が胸元を押さえた。


「わしが……?」


「忘れちゃったんだね」


 真由美の目から、涙が一筋だけ落ちた。


「全部、持っていったから」


 宗一の姿が、一瞬だけ揺らいだ。


 消えかけたのではない。


 その輪郭に、別の光景が重なった。


 暗い部屋。


 床にうずくまる女。


 その背中にまとわりつく、黒い影。


 輪郭はぼやけ、顔だけがどうしても見えない。


「うっ……」


 宗一が頭を押さえ、その場に膝をついた。


「爺ちゃん!」


 湊が駆け寄る。


 伸ばした手は宗一の肩をすり抜けた。


「何が見えたんです」


 修平が訊く。


「分からん。黒いもんが、真由美に……」


「幽霊?」


 湊の問いに、宗一は首を振った。


「違う」


 宗一は荒い息を繰り返しながら、顔を上げた。


「死んどるもんやない」


 真由美が目を閉じる。


「そう」


「母さん、何を言ってるの」


「あれは、幽霊じゃない」


 窓から差し込む午後の光の中で、真由美は静かに言った。


「生きている人だったの」

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