第十四章 一人分、詰めて
第十四章 一人分、詰めて
翌朝、宮原湊は約束の五分前に来た。
紺色のシャツに黒いパンツ。昨日と同じ小さな鞄を肩から提げ、玄関先に立つ姿は、これから人の家へ伝言を届けに行くというより、何かを取り締まりに来たように見えた。
「おはようございます」
「おはようございます。早いですね」
「時間は守ります」
湊はそれだけ言うと、修平の肩越しに家の中を見た。
壁際に立つ田所と、その横にいる宗一を確認し、わずかに眉を寄せる。
「おるで。朝からずっと待っとったわ」
宗一が湊のすぐ横で答えた。湊は一度だけ宗一を見たが、返事はしなかった。
田所は玄関の壁際に立ち、落ち着かなさそうに両手を擦っている。昨夜はあれほど大丈夫だと言っていたのに、朝になると何度も住所を口にし、本当に家がなくなっていないか、正明はまだそこに住んでいるかと修平に確認した。
亡くなって十日で家がなくなることは、そうそうない。
「奈緒、行ってくる」
修平が声をかけると、居間から奈緒が顔を出した。
「うん。気をつけてね」
それから湊へ目を向ける。
「宮原くんも。田所さんの話、ちゃんと最後まで聞いてあげてね」
「そのつもりです」
昨日のように言い返すことはなかった。
「行きましょう」
先に歩き出す湊の後ろで、宗一が小さく笑った。
「嫁さんの方が強いな」
「聞こえますよ」
「聞こえるように言うたんや」
家を出てしばらくは、誰も話さなかった。
田所の家までは歩いて二十分ほどだという。先頭を田所が歩き、その後ろを修平と湊、最後に宗一がついてくる。
傍から見れば、修平と湊の二人連れだ。
けれど二人には、田所と宗一を加えた四人で歩いているのが見えている。
「あっちだ。次の角を右」
田所が振り返って言う。
「分かりました」
湊は正面を見たまま答えた。
「なあ修平。あいつ、札持っとるやろ」
宗一が声を潜めた。
「持ってるでしょうね」
「田所さんが消えんかったら、ほんまにやる気やぞ」
「約束ですから」
「そらそうやけど。うーわ、怖っ。わしなんかウロウロしとったら一発や」
「昨日も同じこと言ってましたよ」
湊が宗一を横目で見た。
「怖がるくらいなら、なぜ残っているんです」
「それが分かったら苦労せえへんわ」
「都合がいいですね」
湊は再び歩き出した。
宗一はその背中を見つめたまま、もう何も言わなかった。
住宅街の奥に、田所の家はあった。
瓦屋根の二階建てで、門柱の表札には確かに田所とある。庭に面した縁側が、低い生け垣の向こうに見えた。
あそこで毎年、家族写真を撮っていたのだろう。
「ここだ」
田所は門の前で立ち止まった。
家を見上げたまま、入ろうとしない。
「どうしました」
「いや」
田所は照れたように鼻の下を擦った。
「帰ってきたなと思って」
湊が呼び鈴を押した。
田所が慌てて振り返る。
「おい、心の準備というものが」
「押しましたよ」
「見れば分かる」
しばらくして、五十代半ばほどの男が玄関から出てきた。
田所が一歩前へ出る。
「正明だ」
息子は、父親より少し細い顔をしていた。目元だけがよく似ている。
「どちらさまですか」
「突然すみません。田所正一さんのことで、伝えたいことがあって来ました」
正明の顔から警戒があらわになる。
「父の?」
「はい」
「失礼ですが、葬儀にいらしてましたか」
「いえ。田所さんとは、亡くなってから会いました」
正明は黙った。
背後で湊が小さく息を吐いた。そんな言い方をすれば怪しまれて当然だと、その横顔に書いてある。
修平もそう思う。
けれど、ほかに言いようがなかった。
「帰ってください」
正明が玄関を閉めようとした。
「待ってくれ」
田所が叫ぶ。
「青い袋だ。押し入れの天袋、右の奥。三脚を入れてある」
「押し入れの天袋の右奥に、青い袋があるそうです。中に三脚が入っている」
正明の手が止まった。
「それが、何です」
「正月の写真を、今年も撮ってほしいと」
正明の顔が険しくなる。
「誰から聞いたんですか」
「お父さんです」
「ふざけないでください」
「ふざけていません」
「父は十日前に死にました」
「知っています。眠ったまま、苦しまずに亡くなったと聞きました」
正明が息を呑んだ。
そのとき、家の奥から女の声がした。
「お兄ちゃん、どうしたの」
正明と同じくらいの年の女性が、廊下から顔を出した。田所が今度はそちらへ体を向ける。
「幸子も来てたのか」
「父さんのことだって」
正明が低い声で答えた。
「父さんの?」
幸子は修平たちを見ると、兄の隣まで出てきた。
田所が二人の前に立つ。
手を伸ばせば触れられそうな距離なのに、二人の目は父親を通り抜け、修平だけを見ていた。
「何を伝えれば信じてもらえますか」
修平が訊くと、田所は困った顔で家の中を覗いた。湊も黙ってその答えを待っている。
「去年の写真」
やがて、そう言った。
「正明が腹を引っ込めすぎて、息を止めた妙な顔で写ってる。幸子は目をつぶった。撮り直そうと言ったら、寒いから嫌だと全員に断られた」
修平はそのまま伝えた。
幸子の目が見開かれた。
正明は口を結んでいる。
「あと、写真を撮るときには必ず言ったそうです。もっと詰めろ、幸子は目をつぶるな、正明は腹を引っ込めろ、と」
幸子が、ふっと息を漏らした。
「言ってた」
「幸子」
「毎年、同じこと言ってた。お父さん」
笑ったのか泣いたのか分からない声だった。
正明はしばらく俯いていたが、やがて玄関の戸を大きく開けた。
「……中で聞きます」
居間には、まだ片づけの途中らしい段ボールがいくつも置かれていた。
仏壇の横には田所の遺影がある。今ここにいる本人より少し若く、背筋を伸ばして笑っていた。
縁側に近い壁には、家族写真が何枚も並んでいる。
小さかった子供が大人になり、その隣に伴侶が増え、やがて孫が増えていく。場所はいつも同じ縁側だった。
田所は一枚ずつ眺め、懐かしそうに目を細めた。
「昨日、三脚を捨てるか話してたんです」
幸子が言った。
「もう使わないだろうって。毎年、お父さんが準備してたから」
「写真も、もういいんじゃないかと」
正明が続ける。
「父がいないのに、並んで笑うのも違う気がして」
「違わん」
田所が即座に言った。
「俺がいないからやめるなんて、それが一番いかん」
修平は田所の顔を見る。
田所は遺影ではなく、二人の子供を見ていた。
「俺の席を空けるな。真ん中に妙な隙間を作るな。生きてる者同士でもっと詰めろ。俺がいたところまで、全部使って並べ」
修平が言葉を届けると、幸子は口元を押さえた。
正明は、壁の写真を見上げた。
「父らしいですね」
「そうだろう」
田所が胸を張る。
「あと、笑えと。葬式みたいな顔で撮るな。今年も、来年も、その先も続けてほしいそうです」
長い沈黙のあと、正明が鼻を啜った。
「勝手なことばかり言うな、親父」
田所の顔が曇る。
けれど正明は、壁の一番新しい写真を指でまっすぐに直した。
「準備するのがどれだけ面倒だったと思ってるんだ。毎年毎年、早く来い、遅れるなって朝から電話して」
「お兄ちゃん、遅れるからでしょ」
「お前だって毎年ぎりぎりだっただろ」
「でも、お父さんが三脚を出して待ってたから、みんな来たんだよ」
幸子は涙を拭いながら笑った。
「今年も撮ろう。お兄ちゃんが三脚を立てて」
「俺が?」
「長男でしょ」
「そういうときだけ長男にするな」
正明も、とうとう笑った。
「分かったよ。今年も撮る」
「孫たちにも早めに言わないとね」
「父さんみたいに、朝から何度も電話するか」
「それは嫌がられるよ」
二人の笑い声を聞きながら、田所が大きく息を吐いた。
「そうだ。それでいい」
その肩から、朝の光が透け始めた。
修平は何も言わなかった。
湊が立ち上がる。
鞄へ伸びた手が、途中で止まった。
田所は修平に向き直った。
「ありがとう」
「僕は伝えただけです」
「それをしてくれる者がいなかった」
足元まで薄くなっていく。
田所はもう一度、正明と幸子を見た。
「じゃあな。来年、目をつぶるなよ」
幸子が、何かを感じたように顔を上げた。
その目の前で、田所は穏やかに笑って消えた。
湊の手は、最後まで鞄に届かなかった。
家を出てからも、湊は口を開かなかった。
修平の隣では、宗一が何度も後ろを振り返っている。
「逝ったな」
「はい」
「札も呪文もなしで」
「はい」
前を歩いていた湊が、足を止めた。
「何をしたんですか」
「伝えました」
「それだけで消えるはずがない」
「でも、消えました」
湊が振り向く。
「あなたが何かしたんでしょう」
「僕には、話を聞いて伝えることしかできません」
「そんなことで霊が」
「目の前で見たやろが」
宗一が言った。
「田所さんは、残っていた理由がなくなったんだと思います」
「理由」
「家族に伝えたいことがあった。それを伝えられた。だから、もうここにいなくてよくなった」
湊は黙った。
否定する言葉を探しているようにも、今見たものを頭の中で何度も確かめているようにも見えた。
宗一が、湊の正面へ回り込む。
「お前にも分からんことがある。わしにもある。せやから、話を聞かなあかんのや」
湊は、正面に立つ宗一をまっすぐに見た。
「次は、爺ちゃんです」
低い声だった。
「母のところへ行きます」
宗一の顔から、わずかに笑みが消えた。
「真由美のところへ……」
その名を口にしても、やはり何も思い出さないらしい。
ただ、胸の辺りを押さえた。
「行きましょう」
修平が言うと、湊は強く頷いた。
「そこで爺ちゃんが何者なのか、はっきりさせます」
宗一は、孫の横に並んだ。
祖父を見つめる湊と、何も思い出せない宗一。
二人の歩幅だけが、不思議なほどよく似ていた。




