第十三章 誰や、お前
第十三章 誰や、お前
「……爺ちゃん?」
青年は、修平の背後を見つめていた。
迷子の老人が、修平の肩越しに顔を出す。
「誰や、お前」
青年の表情が固まった。
「俺だよ」
「俺では分からん」
「湊だ。宮原湊」
老人は黙って青年を見た。
「知らんなあ」
湊の手から落ちた紙が、玄関の床に載っている。
「本当に、分からないのか」
「悪いな。わし、名前も家も何も覚えてへんねん」
「爺ちゃんの名前は、宮原宗一だ」
老人は目を見開いた。
「わし、宗一いうんか」
「そうだよ」
「ええ名前やな」
「自分の名前だ」
「せやから、ええ名前や言うとるんや」
宗一は嬉しそうに何度もうなずいた。
湊は笑わなかった。
「八年前に死んだんだ。七十八だった」
「歳は合うとるな」
「そこだけ覚えていたのか」
「大事なことから思い出すんや」
「名前より歳が大事なのか」
「年寄りには大事やぞ」
修平は二人の顔を交互に見た。
「お孫さんですか」
「はい」
湊は初めて、修平の問いにまともに答えた。
「母の父です」
「お母さんの名前は?」
「真由美」
宗一が口を閉じた。
何かを探すように、目を伏せる。
「知ってる名前ですか」
修平が尋ねると、宗一は首を横に振った。
「分からん。でも、今、何か」
「思い出したのか」
湊が一歩近づく。
「急かすな。逃げるやろ」
「記憶が逃げるのか」
「知らん。たとえや」
湊は言葉を失った。
その後ろから、奈緒が玄関へ顔を出した。
「修平?」
「ごめん。もう少しかかる」
奈緒には、修平と湊だけが見えている。
「外、寒いでしょう。中で話したら?」
「いえ、すぐに済みます」
湊は床に落ちた紙を拾った。
田所の身体が、また揺れる。
「その霊を追い出します」
湊の目は、もう宗一ではなく田所へ向いていた。
「待ってください」
「まだ分からないんですか。家までついて来ています」
「この人が入れてくれと言ったから、僕が入れました」
「同じことです」
「どこがですか」
「霊を家へ入れれば、ほかの霊も集まる」
「もう集まっとるで」
宗一が言った。
「爺ちゃんは黙ってて」
「八年ぶりに会うた爺に、その言い方はないやろ」
「覚えてもいないくせに」
湊の声が強くなった。
宗一が黙る。
修平の後ろで、田所が小さく身を縮めた。
「この人は、正月の家族写真を撮ってほしいと伝えたいだけです」
修平が言うと、湊は田所を見た。
「それで?」
「それだけです」
「そんなことで、この世に残っているんですか」
「そんなことでも、家族には大切なんです」
「霊は皆、自分の用事だけは大切だと言います」
「話を聞いたんですか」
湊は答えなかった。
「聞かずに、どうして分かるんですか」
「聞く必要がないからです」
「まだ話の途中です」
「話し終えたら、次の用事を言います。その次も、その次も。霊の未練に付き合っていたら終わりません」
田所が湊を見た。
「わしは、これだけだ」
「そう言って、何年も残る霊を見てきました」
「わしは死んで十日だ」
「日数の問題ではありません」
「あんた、話が通じんな」
「あなたに言われることではない」
湊は紙を持った手を上げた。
修平が田所の前へ立つ。
「退いてください」
「嫌です」
「あなたに、この人を守る力はありません」
「ありません。でも、退く理由もありません」
「修平、格好ええこと言うとるけど、ほんまに何もできへんぞ」
宗一が横から言った。
「分かっています」
「札一枚で終わるんちゃうか」
「だから静かにしていてください」
湊が宗一を睨んだ。
「爺ちゃんは、どっちの味方なんだ」
「今のところ、修平やな」
「俺は孫だ」
「知らん人に言われてもなあ」
湊の顔が歪んだ。
宗一は自分が何を言ったのか分からないように、首をかしげている。
奈緒が二人の間へ入った。
「とりあえず、中へどうぞ」
「でも」
「近所の人に、修平が玄関で喧嘩してると思われるから」
湊が修平を見る。
「奥さんには、霊が見えないんですか」
「見えないし、声も聞こえません」
「それなのに、家へ入れている?」
「入れてるのは修平です。私は追い出してないだけ」
奈緒はそう言って、居間へ戻った。
湊はしばらく玄関に立っていたが、紙をコートの内側へしまった。
「五分だけです」
「十分にしとき。茶も出るかもしれん」
「爺ちゃんは黙ってて」
「さっきからそればっかりやな」
湊は靴を脱ぎ、きちんと揃えて家へ上がった。
居間の座卓を囲んだのは、修平と奈緒と湊。
その後ろに、宗一と田所が立っている。
奈緒には、妙に間の空いた三人の食卓にしか見えていない。
「どうぞ」
奈緒が湊の前へ茶を置いた。
「ありがとうございます」
湊は頭を下げたが、手をつけなかった。
「田所さん」
修平がメモ帳を開く。
「住所を教えてください」
田所が町名と番地を言った。
「息子は正明。娘は幸子だ。家には正明夫婦が住んでいる」
修平は一つずつ書き留めた。
「明日、行きます」
「一人で訪ねて、幽霊から聞いたと話すつもりですか」
湊が尋ねた。
「そのままは言いません」
「では、何と言うんです」
「まだ考えていません」
「無責任ですね」
「追い出すよりは、考える時間があります」
湊の目が細くなった。
「明日までに伝えます」
修平は続けた。
「田所さんが、それでも残るなら。そのときは、もう一度話を聞きます」
「まだ聞くんですか」
「残る理由があるなら」
「だから終わらないんです」
「ほな、お前も一緒に来たらええ」
宗一が言った。
「家族に伝えたら、このおっちゃんがどうなるか見届けたらええやろ」
「爺ちゃんに言われなくても」
「わしの言うこと聞かへん子やな」
「今まで一度も、そんな言い方をされたことないよ」
「初めてなら、よう覚えとき」
宗一が胸を張る。
湊は額を押さえた。
「分かりました」
しばらくして、低い声で言った。
「明日、俺も行きます」
田所が安堵したように息を吐く。
「ただし、伝言を届けてもその霊が残ったら、俺が追い出します」
「田所さんが納得するまで待ってください」
「それでは条件にならない」
「まだ今夜の話し合いも終わっていません」
奈緒が口を挟んだ。
湊は奈緒を見る。
「聞こえないんですよね」
「聞こえません。でも、修平が話を聞き終わってない顔をしてるのは分かります」
湊は言葉を失った。
宗一が満足そうにうなずく。
「奈緒はん、ええこと言うなあ」
「だから爺ちゃんは黙ってて」
宗一には聞こえている。
「聞こえとるぞ」
「聞こえるように言った」
「可愛げのない孫やな」
「思い出してから言ってくれ」
湊は立ち上がった。
「明日の朝、迎えに来ます」
「爺ちゃんも連れていきます」
「わしもか?」
「当然だろ」
「嫌や。除霊される」
「しないよ」
「ほんまか?」
湊はすぐには答えなかった。
「爺ちゃんには、母さんに会ってもらう」
「真由美いう人か」
湊の顔がまた強張った。
「娘だよ」
「わしの?」
「そうだ」
宗一は黙った。
湊は玄関へ向かった。
修平も見送りに立つ。
靴を履き、扉を開けたところで、湊が振り返った。
「霊の話を聞けば、助けられると思わないでください」
「思っていません」
「霊は、生きている人間を壊します」
湊の声が低くなる。
「母が、そうでした」
扉が閉まった。
居間で、宗一が自分の名前を小さく繰り返している。
「宮原宗一。真由美……」
それ以上の言葉は、まだ出てこなかった。




