第十二章 話の途中
第十二章 話の途中
森が消えた翌日の夜、玄関の向こうから声がした。
「すまんが、開けてくれんか」
修平は夕食の箸を止めた。
「今、誰か来た?」
奈緒が玄関を見る。
「声だけ」
「人?」
「多分、違う」
修平が立ち上がると、迷子の老人もついてきた。
「客か?」
「まだ分かりません」
「昨日の今日で繁盛しとるなあ」
「うちは何の店でもありません」
玄関の扉を開ける。
小柄な老人が立っていた。
白髪を短く刈り、紺色のカーディガンを着ている。八十歳は越えているだろう。怪我をした様子もなく、穏やかな顔をしていた。
ただ、何度も道路の角を振り返っている。
「高木修平さんか」
「そうですけど」
「話を聞いてくれる人だと、森さんから聞いた」
「森さんに?」
「消える前に会ったんだ」
老人は、また後ろを見た。
「悪いが、中へ入れてもらえんか。追われている」
修平が身体をずらすと、老人はほっとしたように玄関へ入った。
靴を脱ぐ真似をして、きちんと揃える。
「森さんと同じことしてるで」
迷子の老人が言った。
「人の家へ上がるんだから、当たり前だろう」
「脱ぐ靴ないやん」
「気持ちの問題だ」
「おっちゃん、分かっとるなあ」
「誰がおっちゃんだ。お前さんも同じくらいだろう」
二人は互いの顔を見た。
「……そうかもしれんな」
「自分の歳も分からんのか」
「七十八や。それだけは覚えとる」
「わしより若いじゃないか」
新しく来た老人が少し胸を張った。
「年上やから偉い思うたら大間違いやぞ」
「まだ何も言ってないだろう」
「二人とも、居間へ行きますよ」
修平が声をかけると、老人たちは並んでついてきた。
奈緒が食卓からこちらを見ている。
「来たの?」
「お爺さん。森さんから聞いて来たって」
「そう」
奈緒は修平の隣へ顔を向けた。
「こんばんは」
カーディガンの老人は、丁寧に頭を下げた。
「こんばんは。急にお邪魔して申し訳ない」
奈緒には聞こえていない。
「お名前は?」
修平が尋ねる。
「田所正一。八十四歳だ」
「亡くなったのは?」
「十日前。布団で寝たまま、朝になっても起きなかったらしい」
「寿命ですか」
「多分な。少し前から、医者にはいつ何があってもおかしくないと言われていた」
田所は穏やかに答えた。
「葬式も済んだ。家族も、ちゃんと見送ってくれた。人生に文句はない」
「では、どうして残っているんですか」
「一つだけ、言い忘れたことがある」
修平は座卓の端にあったメモ帳を取った。
「誰に、何を伝えますか」
田所は目を丸くした。
「まだ何も言ってないのに、分かるのか」
「森さんから聞いて来たなら、その用件だと思って」
「そうか」
田所は座卓の前へ座った。
「家族に、今年も正月の写真を撮れと伝えてほしい」
修平はペンを止めた。
「写真?」
「毎年、元日の昼に縁側で撮るんだ。息子夫婦も娘夫婦も、孫たちも集めてな」
田所は懐かしそうに笑った。
「わしが三脚を立てて、タイマーを押す。十秒しかないから、いつも慌てて走った」
「それを、今年も?」
「ああ。葬式のあと、息子が言っていた。今年は親父がいないから、写真はやめようって」
「それが気になるんですか」
「わしが死んだからといって、やめることはないだろう」
田所は少し身を乗り出した。
「それから、わしの場所を空けるなと伝えてくれ」
「場所?」
「毎年、真ん中にわしが座っていた。空けて撮ろうとするかもしれん」
「空けないほうがいいんですか」
「いらん、いらん。そんなことをしたら、写真を見るたびに寂しくなる」
田所は手を振った。
「一人分詰めて、みんなで笑って撮れ。それだけだ」
修平は、その言葉をメモ帳へ書いた。
「ご家族の住所と、お名前を教えてください」
「住所は――」
田所が口を開いたところで、身体が大きく揺れた。
後ろへ引かれたように、半歩下がる。
「来た」
「誰が?」
「除霊師だ」
迷子の老人が顔を上げた。
「除霊師?」
「若い男だ。この辺りに残っている霊を、見つけ次第追い出している」
「悪いことをした霊だけではなく?」
「関係ない。話も聞かない」
「お爺さんは、何かされたんですか」
「さっき見つかった。もう少しで消されるところだった」
田所は悔しそうに眉を寄せた。
「わしは成仏したくないわけじゃない。写真のことを伝えたら、すぐに行くつもりだ。だが、伝える前に追い出されるわけにはいかん」
迷子の老人の顔が引きつった。
「うーわ、怖っ。わしなんかウロウロしとったら一発やん」
「お爺さんは、特に目立ちますからね」
「何でや。わしほど無害な幽霊おらんぞ」
「他人の家に勝手に入って、毎日ついてくる幽霊ですよ」
「それだけ聞いたら悪霊みたいやないか」
田所は二人を見比べた。
「笑い事じゃないぞ」
「すみません」
「わしは笑うてへん」
「顔が笑っています」
田所の輪郭が、また大きく揺れた。
「ここも見つかった」
「伝言は聞きました。逃げても大丈夫です」
「住所をまだ言っていない」
「お名前は聞きました。何とか探します」
「田所なんて、いくらでもいる」
玄関の呼び鈴が鳴った。
今度は、奈緒にも聞こえた。
全員が玄関を見る。
「人?」
奈緒が尋ねた。
「多分」
呼び鈴がもう一度鳴った。
「出ないほうがいい」
田所が言った。
「でも、人なら奈緒にも見える。家に入れなければ大丈夫でしょう」
修平は立ち上がった。
迷子の老人が、その背中へ回る。
「修平、何とかせえ」
「僕には何もできません」
「いつも以上に役に立たんな!」
「お爺さんは、ここにいてください」
「一人にせんといてくれ」
「田所さんもいます」
「初対面や」
修平は玄関へ向かった。
老人は背中へ張りつくようについてくる。田所も逃げ場を探すように廊下まで来た。
扉を開ける。
二十代前半くらいの青年が立っていた。
黒いコートの下に、白いシャツを着ている。首には細い数珠を掛け、右手に細長い紙を挟んでいた。
青年は修平の顔を見なかった。
その視線は、修平の肩越しに田所へ向けられている。
「そこを退いてください」
「何の用ですか」
「その霊を追ってきました」
「まだ話の途中です」
「霊の話を聞く必要はありません」
「僕にはあります」
青年が初めて修平を見た。
「見えるだけの人が関わると、余計なものを引き寄せます」
「この人は、家族に伝えたいことがあるだけです」
「皆、そう言います」
青年は紙を持った手を上げた。
田所が廊下の奥へ下がる。
迷子の老人は、修平の背中から顔だけを出した。
「修平。ほんまに何とかならんのか」
「なりません」
「役立たず」
「今それを言いますか」
青年の手が止まった。
田所ではなく、修平の後ろを見ている。
顔から、先ほどまでの冷たい表情が消えた。
挟んでいた紙が、指先から落ちる。
「……爺ちゃん?」




