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『やすらぎ園』― 五十年の沈黙  作者: キロヒカ.オツマ―


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第九章 違和感

その日の夕方、施設は嵐が去った後のような奇妙な静けさに包まれていた。


熊谷は理事長室に籠ったまま出てこなかった。県の担当者たちは資料を持ち帰り、特別監査の日程を追って通知すると言い残して引き上げていった。県央新報の記者は、興奮した様子で桐生に何度も取材を申し込んでいた。


永野は自室のベッドに腰掛け、松葉杖を壁に立てかけながら、ぼんやりと天井を見つめていた。勝った、という実感はまだ湧いてこなかった。


「永野さん」


田村が、興奮を隠せない様子で部屋に入ってきた。


「やりましたね。本当に……。理事長が、あんな風に追い詰められるところを見るなんて」


「田村さん」


永野は静かに言った。


「まだ、喜ぶのは早い」


「え……?」


「考えてみてくれ。熊谷ほどの男が、四半世紀近くも同じ手口で不正を続けながら、一度も表沙汰にならなかった。県議会議長まで務め、地元選出の国会議員すら頭が上がらない。そういう男が、俺たち三人が集めた程度の証拠で、あんなにあっさり追い詰められるものだろうか」


田村の表情から、興奮の色が消えていった。


「……確かに、言われてみれば」


「録音、検査結果、書類。どれも状況証拠としては強いが、決定打と言えるほどのものじゃない。それでも大場課長は、その場でほとんど即決するように特別監査を決めた。あまりにも早すぎる」


「じゃあ……あれは、最初から仕組まれていたということですか」


永野は答えなかった。答えられなかった。だが、記者だった頃の勘が、絶えず警鐘を鳴らし続けていた。


その夜遅く、施設に一本の電話がかかってきた。永野宛だった。田村が慌てて呼びに来た。


「永野さん、電話です。……宇佐美さんからですが、様子がおかしいんです」


受話器を受け取ると、宇佐美の声は、明らかに動揺していた。


「永野さん、大変なことが分かりました。今日の視察の件、あれは県の福祉政策課が独自に動いたわけじゃない」


「どういうことだ」


「僕、今日の視察の少し前に、大場課長のところに、あなたが集めた資料の一部を、あらかじめ非公式に届けていたんです。少しでも動きを早くするために。……そうしたら、大場課長がこう言ったんです。『実は、この件はもう少し前から把握していた』と」


永野は息を呑んだ。


「把握していた、というのは」


「熊谷の不正について、以前から情報が寄せられていたそうです。しかも、その情報源は――」


宇佐美が一拍置いた。


「地元選出の衆議院議員、沢渡憲一の事務所からだったそうです」


永野は、受話器を握る手に力を込めた。


「沢渡は、熊谷の言いなりだったはずだ。頭が上がらない相手だと聞いていた」


「表向きはそうです。でも大場課長の話では、沢渡の事務所は、もう二年近く前から熊谷の不正について、独自に情報を集めていたようなんです。ただ、それを表に出すタイミングをずっと計っていた」


「なぜ、今なんだ」


「分かりません。ですが……永野さん、一つ気になることがあります」


宇佐美の声が、さらに低くなった。


「今回の視察で熊谷が失脚すれば、やすらぎ園の経営権は、当然どこかに移ることになります。県内の社会福祉法人の再編を進めている、ある大手の福祉グループがあるんですが……その理事長と、沢渡議員は、古くからの後援会つながりだという話があります」


永野の背筋に、冷たいものが走った。


熊谷を追い詰めたのは、自分たちの正義感と証拠集めの結果だと思っていた。だが、もしそれが、最初から誰かにとって都合の良いタイミングで「使われた」だけだとしたら。


「田村さん」


永野は受話器を置いた後、静かに言った。


「俺たちは、熊谷という一つの悪を倒したつもりでいた。だが、もしかすると――」


言葉を続ける前に、部屋のドアが控えめにノックされた。


入ってきたのは、桐生洋子だった。その顔は、先ほどまでの解放感とは違う、新たな緊張に強張っていた。


「永野さん。……理事長室から、妙な書類が見つかりました。理事長が慌てて燃やそうとしていたものの、一部が燃え残っていて」


桐生が差し出した焦げた紙片には、かろうじて読み取れる文字でこう書かれていた。


「――沢渡先生案件 やすらぎ園継承スキーム 県央福祉会 柏木」


永野は、その紙片をじっと見つめた。


柏木。田村の祖母を含む十一人の後見人を務めていた、あの司法書士の名前だった。

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